北陸遠征

 〜夏の北陸はそりゃぁまあ暑かったのに、山にも登りましたさ〜

平成14年8月16日〜19日


この糞暑い最中、突然に北陸旅行に行くことになった。戦死研城郭班の実質的班長である窪谷さん(仮名)主唱のツアーと言うことは、日の出から日の入りまで城三昧な城郭遠征になることは間違いないと予想されたのだが、今回のツアーには、窪谷さん、有力班員の薬田さん(仮名)の他に、城郭班でない秋田さん(仮名)が居られるので、一般人の秋田さんに気を使って普通の観光名所を主に回る旅行になるものかとばかり考えていた。
実際、数年前に秋田さんの車で、窪谷さんと3人して東北を回った際には、コケシ会館に寄ったり柏原で海水浴をしたりと、いつもの城郭ツアーとは比べ物にならないくらいのんびりとしたものだったのである。
そこで今回も越前海岸で海水浴ぐらいはあるだろうと、気を利かして水着やサンオイルを準備して行ったのだが、蓋を開けてみると城以外のまともな観光地は東尋坊だけと言う、いつも通りの城郭遠征という有様だったのであった。


○前日まで

お盆の帰省後ということもあり、一度に全員が集合するということも難しく、その為に初日の行動計画としては、

(1)予め窪谷さん(仮名)と自分とで滋賀県の唐崎に集合。事前に湖西の城を幾つか落としながら北上して、疋田で実家の飛騨から西進してくる薬田さん(仮名)と合流。
(2)疋田で疋壇城と、敦賀で敦賀城を落としてから、武生まで戦闘後前進。
(3)武生の駅前のホテルで、東京から来る秋田さんと合流して一泊。

という計画となっていた。

まず窪谷さんとの待ち合わせはJR唐崎駅前に午前11時13分。神戸から湖西までだと、渋滞無しでも1時間半はかかる所に、夏休みの帰省ラッシュで大阪と京都周辺の高速道路がどういう状態になっているかわからない。
出来ることなら早朝に出発して琵琶湖湖畔まで一気に進出して、車の中で仮眠をとるなりして時間つぶしをしようかと考えていた。同時に地図を調べていると、唐崎のすぐ先に「雄琴」という地名を発見。…そう、唐崎駅からは、あの蜜の流れる約束の地、「雄琴」がすぐ近くなのである。

これはもう、そこで時間を潰すほか無い。早朝割引で正に一石二鳥である。
そう思って、前日の15日には、早目に実家から神戸に帰って、とっとと就寝しようと画策していたのだが、色々な事情があって寮に帰ったのは午後9時。それからも実家からの電話や、中々捗らない準備などでゴタゴタし、就寝できたのは午前1時半。さすがに人を乗せて運転するのに睡眠不足というのは危険なので、雄琴は泣く泣く諦めて、時間ぎりぎりに大阪・京都に突っ込むことにしたのである。


○8月16日

午前7時前に起床。風呂に入っただけで7時半には出発。途中軽い渋滞に2,3度嵌ったものの、午前10時には無事に唐崎に到着できた。しかも幸運な事に、駅の近くで雰囲気の良さげな古本屋を発見。先に寄って行こうかと考えたが、念を入れて一度駅前まで実際に行き、道を確認。更に近所の天下一品で朝飯に皿うどんを食って腹ごしらえをしてから立ち寄る。
色々と荷物になる買い物をした後、午前11時過ぎに店を出て窪谷さんを迎えに駅へと向かう。


午前11時15分、やっと窪谷さんと合流。まずは第一目標の大溝城へ向けて国道161号線を北上するが、夏休み中の琵琶湖湖畔ということもあって道は渋滞。このままでは朽木谷を回って疋田へ時間通りに向かえなくなってしまうので、先に朽木谷を回って湖畔道の渋滞を迂回することにする。



朽木谷岩神館


左:興聖寺の正面 右:庭園跡



国道367号線脇、道の駅手前の興聖寺が朽木谷岩神館跡である。庭園跡は旧秀隣寺庭園跡として国指定名勝となっており、これを目印に行くと迷うことは無い。
庭園の池と庭石、また館の石垣等が多少残っていたが、本堂裏の墓地にあると書かれていた土居は、新しい墓地の開発に伴って削られたのか、発見する事が出来なかった。
朽木氏は、承久3年(1221年)に佐々木信綱が、承久の乱の功により朽木荘を賜り、ここを本拠とした事に始まる。応仁の乱後、都を追われた将軍が度々にこの朽木氏を頼ってここに滞在していたと言われている。


朽木の道の駅で昼飯。暑くてあまり食欲も無かったので、軽く鯖寿司を食べることにしたのだが、3カンの内皮付きが1カンしかなく、これに600円も払わされたことに鬱になる。
国道367号線(鯖街道)から県道23号線に入り、橋を渡ってすぐの左手にある、朽木陣屋へと向かう。


朽木陣屋


左:資料館前の復元井戸他、右:県道脇の堀



朽木の歴史資料館がある場所が朽木陣屋である。唯一関係ありそうな遺構は、復元された井戸と県道脇の堀跡くらいのもので、後は公園化が著しく、何故かどこぞの藁葺きの民家が置かれていたりする。陣屋の敷地そのものは隣の製材所とグラウンドも含めた広大なものであるらしいのだが、地形が大分変化しているので、これといった絵地図との形状の類似は認められなかった。
築城年代は諸説あるが、城郭大系では戦国末期から江戸初期頃に作られたという説を採っている。
それと歴史とは関係無い話であるが、自分はこの「朽木」の事を「くちき」と読んでいたのだが、正確には「くつき」だそうだ。恥ずかしい限りである。


県道をそのまま東進して、JR湖西線の近江高島駅前へと向かう。

大溝城


左:天守台の石垣、右:乙女が池の景色



近江高島駅前にある病院の西手に、天守台だけが残っている。
大溝城は、天正6年(1578年)に織田信長の甥である織田信澄が築いたといわれている。その後、丹羽長秀を初めとする多くの大名の手を経て、江戸初期に分部氏が2万石で転封され、そのまま明治維新を迎えている。
付近に車を停める場所が無く、仕方無しに病院の駐車場を無断使用したのだが、出口が見つからず迷う羽目になる。これも天罰か。


北西へ7kmほど離れた船木崎を目指す。


船木城


左:願船寺の正面。参道部が橋か。右:元水田の緑地が堀跡か。



北船木の集落の、諏訪神社の南方に位置する願船寺が船木城である。現在では、寺の敷地と寺の周りの水田跡が城の面影を残しているだけである。
鎌倉末期に佐々木能登守がここに城を築いたと謂われている。


時間も迫って来たので、慌てて疋田まで北上する。
15:43に新疋田着の薬田さんを5分遅れで拾い、そのまま駅のすぐ北にある疋壇城へと向かう。


疋壇城





1年前の北近江ツアーで行った場所なので詳細は省略。
以前との違いは、田んぼの稲が育っていて西側の遺構がよく拝めなかった事と、猪よけの電線が以前より多く張り巡らされて歩きにくくなった事と、ゲートボール場へ登る道が通行止めにされて徒歩で登ったという事が挙げられる。まあ、要は見難くなっていたという事である。

国道8号線を北上して敦賀市に入る。渋滞を迂回しながら市街地にある敦賀西小学校を目指す。


敦賀城


左:小学校の様子、右:小学校前の記念碑



小学校の前に碑と幟が立っている。それだけ。
本能寺の変後、敦賀5万石の領主となった蜂屋頼隆が、笙川の西岸に築城を始めたのが最初である。その後に大谷吉継が敦賀5万7千石で敦賀城主となり、敦賀城の整備を進めた。関が原の戦いの後は、越前領主の結城秀康の支配下に置かれたが、敦賀城は火事で消失。また焼け残った城郭も、元和の一国一城令で破却されてしまうのである。
その後は敦賀には陣屋が置かれるだけとなり、明治維新後はその陣屋すらも市街地に埋もれ、現在では全く面影を止めていない。
(ここで窪谷さんが「鼻水の城」などと不埒な暴言をしていたのだが、まさかその事が後に自分の身に降りかかってくるとは、その時には露とも思わなかったのである。)


道に迷いながら何とか北陸自動車道に乗って北上して武生ICで下道に降り、武生駅前のホテルに午後7時頃に入る。ここで合流予定だった秋田さんが午後8時を過ぎるという連絡が入ったので、ホテルの南隣にある、窪谷さんお薦めの蕎麦屋で夕飯。蕎麦には舌が肥えている上に季節外れのなので、それほど期待はしていなかったが、30分近く待たされて出てきたその蕎麦は意外にもかなり美味しい蕎麦だったので驚いた。晩秋の時期にもう一度訪れたいものである。

翌日の朝食をスーパーに買出しに言った後、一度ホテルに戻って秋田さんを駅まで迎えに行き、再度ホテルの近所の居酒屋で酒を飲む。おばちゃんが趣味でやっているような凝った飲み屋で、酒や肴が美味しく、その為に高額の請求書を覚悟したのだが、結果は一人頭4000円弱と案外と安く済んでほっとする。
一つ山を越えた敦賀で、えらい物ばかり食わされた記憶が生々しく、越前には余り良い印象を持っていなかったのだが(単に入る店を2度とも間違えただけかもしれないが)、飯が不味いのはどうやら敦賀だけなようである。

それから、ここ武生は紫式部が落ちていった所でも有名なのだが、地元の人間には紫式部の評判が悪いという事実も判明。まあ、あれだけ武生を田舎田舎と馬鹿にされたら、いくら歴史的有名人でも嫌われるだろうなとは思う。


部屋に帰った後、家から持ってきた笑えるFlashを3人にお見せする。乗りが戦死研と同じだったので、受ける事は受けた。ノートパソコンを持ってきた甲斐があるというものである。



移動の疲れもあって、午後10時過ぎには就寝。



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