北陸遠征

 〜夏の北陸はそりゃぁまあ暑かったのに、山にも登りましたさ〜

平成14年8月16日〜19日



○8月18日

ゆっくりと飯を食って、午前9時頃に出発。
旅館の前で車に荷物を積み込んでいたら、いきなり地震。震度4。
揺れが酷かったのでかなり驚いた。心臓をバクバクさせながら車を運転する。
とりあえず、県道9号線を南下して丸岡に向かいながら、館跡を拾ってゆく。



桑原城


左:土塁(っぽい)、右:左手の竹やぶが敷地になる



桑原の村落をぐるぐると回る。地籍図に出ている館跡の形跡は道路などとして残っているのはわかるのだが、大系に載っていたようなはっきりとした水掘の跡はすっかりと消えてしまっていた。結局、最もまともな遺構は左写真の土塁くらいであった。
桑原城は、有力国人である桑原氏のもので、丸岡から大聖寺に抜ける街道の西3kmの所に存在する。後は興福寺に何らかの関係を持っていたらしい。(以上大系より)


更に南下。丸岡市街の、西1kmにある長崎城へ。


長崎城


左:称念寺の門、右:土塁と堀跡(っぽい)



現在は称念寺になっている。五角形の独特の敷地内、北側の土塁が比較的良く残っている(ように思われる)。この称念寺には新田義貞の墓地もあり、どちらかというとそちらのほうが大きく扱われている(門前の碑もそれ)。
長崎城は、旧北陸道にも近い拠点であるため、南北朝の時代から争奪の対象となっていたようである。以上。



丸岡城





日本最古の天守閣、で有名な丸岡城である。最近の研究では、江戸時代に入って建て直されたものである事が分かったそうだが、それでも最古には変わりないそうだ。
ただし、天守閣以外の遺構は殆ど残っておらず、寂しい事この上無い。もう少し何とかしてもらいたいものもある。


一度、東尋坊まで戻って観光旅行をする。が、ただ戻るだけでなく、行掛けの駄賃としてもうひとつ城郭(?)を落としに行く。

丸岡藩砲台


左:海岸側からの写真、右:内側。全て石積みである。



水族館の東500mほどにある。ほぼ完全な形を残しており、嬉しいものがある。
幕末に海防用に作られた砲台で、5門の砲を装備出来る造りになっている。しかし、どうしてこのような辺鄙な場所に造られたのかが良くわからない。当時の国産の大砲の射程はせいぜい1000mくらいで、三国港の湾口に造るならまだしも、近くに漁村しか無いこの場所で、何を守ろうとしたのだろうか。背後を防御するにしても、ここから北東にかけて加賀海岸の砂浜が10kmも続いているから、敵は上陸し放題だと思うのだが…。


ともかく、東尋坊で観光。折角だからと観光船に乗ってみる。1000円ほどだが、それなりに面白いものだった。また昼時だったので、土産物屋の一つで昼飯を食う。売れ残りと思われる魚介類のバーベキューと土産物販売促進用の海苔や海老の粕漬けといったものにご飯が付いて1500円。ボリュームがかなりあったのでそれなりに満足する。しかし、つい勢いで生牡蠣やビール等も注文。その上にお土産の海苔の佃煮まで買って、しっかりと店側の計略に嵌ってしまう。


国道305号線を北潟湖まで北上した後、県道29号線にシフトして細呂木へ。

細呂木館


左:春日神社境内、右:本丸辺り



旧北陸道の要衝、細呂木の西にある小山が細呂木館である。現在はすぐ下に春日神社が建っており、その裏手辺りに郭跡が幾つかと土塁が残っている。
南には、蓮如上人の鋸坂という旧蹟があり、碑も建っているがどういう謂われのものかはWebを調べてもよく分からない。
細呂木氏も有力国人の一人で、堀江氏とも関係があったらしい。対一向一揆戦でも功労が有った。以上(大系)。…どうも国人の館跡は説明しづらい。


石川県に入り、県道20号線を北上。小松市へと向かう。


小松城



左:天守台の石垣、右:天守台上からの眺め


小松高校のグラウンドの脇に、ぽつねんと天守台だけが残っているだけだが、その垂直に近い急な勾配の石垣は珍しい。すぐ脇に高校のテニスコートが有り、丁度女子テニス部が夏休みの練習中だった。そんな所を、挙動不審な4人の男がカメラを片手にうろうろしているわけで、怪しい事この上なく、誤解されて警察に通報される前に、早々に写真を撮って撤退する。

国道8号線から県道4号線に入り、寺井北の交差点を斜め右へ。

和田山城


左:二の丸脇の空堀、右:本丸の19号墳



和田山・末寺山古墳群の一角を占めている。辺り一帯古墳だらけで、この和田山城の敷地だけでも2,3個の古墳があり、それらを上手く利用して郭が造られている。また付近一帯は公園として整備されており、写真からも分かるとおり、見ていて嬉しくなるような景色が広がっている。
和田山城は、朝倉氏に追われて加賀国に亡命した、和田坊超勝寺によって築かれたと謂われている。一向一揆平定後は佐久間盛政の家臣、安井左近が入ったが、賤ヶ岳の戦いで戦死する。その後、関が原の戦いでは前田利長と丹羽長重との争いの場となった。


日も暮れてきたので、急いで南下する。

鳥越城


左:復元された枡形門、右:後二の丸下の空堀、右奥は一揆の碑



美濃から加賀へと抜ける、白山街道を見下ろす急峻な尾根の上に築かれている。比高130mの山頂まで車道が通じており、車で登る事ができる上に、三の丸を除く殆どの遺構が整備され、一部は建物が復元までされている手の込みようである。
2,3年前に来た際には無かった枡形門が建っているのを見たときには、思わず笑ってしまった。また数年して来たら、本丸や二の丸の建物まで復元されているかもしれない。

鳥越城は、加賀一向一揆衆の最後の拠点である。鈴木重泰によって築かれた鳥越城は、織田信長との戦いの始まった元亀年間に、二曲城などと共に要塞化された。大坂の本願寺が織田信長と和睦し、加賀国が柴田勝家に平定された後も一揆衆は2度も反乱を起こし、その結果佐久間盛政によって完膚なきまでに弾圧された。その際、300人もの門徒が磔にされたと謂われている。
そんな一揆の里であるためか、やたらと一揆贔屓であり、一揆衆の慰霊碑が建っている他、何とこの地元では一揆祭り等と言うものも行われているそうである。その根強さには驚くほかは無い。


恐ろしい祭りだ…

向かいに見える小山の上には、「二曲城」という大きな看板が出ている。以前来た際も気になってはいたものの、その時は一般人と一緒だったので、さすがに山登りをするわけには行かず、麓の一揆そば長助で一揆蕎麦と草餅の天麩羅(美味い)を食って帰ったものだが、今回はメンバーが違う。日も暮れかけていたが、次はいつ来るかも分からない上に比高50mほどなので、思い切って強襲をかけることにする。

二曲城(ふとうげじょう)


左:本丸の看板の裏、右:城門と謂われている土居

鳥越城のすぐ南に位置する。鳥越城の支城として、また三坂峠を扼する要衝として機能した。元々は地元の土豪、二曲氏の城である。この二曲氏は一向宗本願寺と結びつく事によってその力を広げていった。
元亀元年の対信長戦頃からは、鳥越城主鈴木出羽守の息子鈴木右京進がこの城に入った。その後、2度の門徒の反乱の拠点となり、最後は鳥越城と運命を共にする事になる。
麓で車を置いて城の南側の谷筋に入り進んでいくと、5分ほどで門跡とされている土居に出る。その脇から谷の北の尾根筋へ登る道を進むと、二の丸とおぼしき平坦地へと出る。後は西南西方向にに急な尾根道を登っていくと、5分ほどで本丸へと出る。
本丸には巨大な看板が建っており、情緒もへったくれも無くなってしまっているが、看板の見えを良くするために回りの木々が切られているので見晴らしは良い。丁度真正面に鳥越城の姿がうかがえる。


暗くなって来始めたので、大急ぎで山を降りる。国道157号線を北上して金沢市に入り、そのど真ん中である香林坊にある東横インへと入る。

部屋はシングルが4つで、最終日くらい各自別の部屋でゆっくりとくつろげるようにとの、幹事窪谷さんの心遣いなのだが、一体くつろいで何をするのかはあれである。
ともかく夕飯に。秋田さんの知り合いのお薦めの店、蛇の目寿司へ行く。少々高級な事も有り、酒も入れて一人5000円ほど。ただし、徳政令が出て年少の薬田さんと自分とは、多少割り引いてもらう。
ここで窪谷さんは、疲れたので寝ると一人で先に帰ってしまい、3人で次の店へと向かう。蛇の目寿司の次の候補だった、窪谷さんお薦めの料亭が経営するという居酒屋に行こうと言う事になり、ガイドブックの地図のコピーを片手に、夜の香林坊をその店を探して回る。
しかし、中々見つからず。代わりに、風俗店の呼び込みや、街角に立つ片言の日本語を喋る外国人女性ににばかり声をかけられる。いいかげんに見つからないので、呼び込みの兄ちゃんの一人に地図を見てもらった結果、すでに店が存在しないとく事が判明し、仕方なく近くにあった別の居酒屋へと入る。
情報もなしに適当に決めて入った居酒屋だったが、安くて美味しく、ここでもう1時間ほど飲む。
それから夫々分かれて、翌朝まで自由行動となり、香林坊の夜の街へと消えていった秋田さんや薬田さんを見送りながら、一人ホテルのほうへと戻る。途中でクレープ等を買って食いながらホテルへ帰り、持ってきたパソコンで、水曜どうでしょうの動画を見た後に寝る。



ここから以下のページへいけます。