北陸遠征

 〜夏の北陸はそりゃぁまあ暑かったのに、山にも登りましたさ〜

平成14年8月16日〜19日



○8月17日

午前7時に起床。朝飯前に二城と言う事で、秋田さんを残して3人で府中館と竜門寺城を攻めに行く。


府中館


左:武生市役所、右:市役所前の碑




武生は越前国府があった場所である。朝倉氏もここに奉行所を置いていたが、織田信長が越前の一向一揆を滅ぼした後、前田利家が府中三人衆としてこの府中に入り、元奉行所を修復して利用。またその後に結城秀康の家臣である本多富正がこれを改修して居館として利用した。
遺構は何も無く、市役所の前に碑が建っているだけである。しかし、今年の大河ドラマの主人公の前田利家の絡む史跡であるために、「越前府中三人衆」の幟だけが艶やかに立っていた。何とも間抜けで面白い。
日差しも暑いので、手早く写真だけを撮って退散する。


竜門寺城


左:竜門寺 、右:裏手の堀跡と思われる墓地



竜門寺は越前国府を守る南部の要地にある。織田信長の越前平定後には府中三人衆として不破光治がここに入ったが、後に廃城となる。
竜門寺の周りも寺域で、幾つかの寺が固まっている。もしかするとこの寺域全体が城域だったかもしれないが、良く分かっていない。
裏手には、恐らく堀跡であったと思われる周りより一段低い墓地があるが、土塁などは残っていなかった。

武生の街は、空襲で焼けていない為か、古い街並が残っていて面白いものの、いかんせん夏の暑い日ざしが強烈で、天日に焼かれないうちにホテルへと早々に退散する。
ホテルで秋田さんを拾って、荷物をまとめて西部へと移動を開始する。


城ばかりという訳には行かないし、普通の観光地も見ようという話になったので、強(た)っての希望で武生ナイフビレッジに行かさせてもらう。
カスタムナイフなども売られていたが、気に入ったものも見つからず(と言うか値段が高い)、言い出しっぺにもかかわらず何も買わずに出る。そのまま車をナイフビレッジの駐車場に置かせてもらったまま、すぐ南にある鞍谷館跡へと向かう。

鞍谷館


左:正面脇の碑、右:堀跡と思われる池と土居




味真野神社と郷土資料館の一部が敷地である。神社になっている西半分には土塁や堀が残るものの、東側半分は破壊が激しく何も残っていない。
地図に鞍谷御所と書かれているのは、鞍谷氏の出自として足利義満の次男義嗣の子嗣俊が鞍谷に落ち延び、鞍谷氏を名乗った事によるものと思われる。


車に乗って、北上。すぐ北にある小丸城へと向かう。


小丸城


左:本丸の石垣、右:本丸の遠景



織田信長が越前を平定した後、柴田勝家を北の庄に置き、府中には前田氏と不破氏、それに佐々氏が入った。その時、佐々成正はこの小丸城を築城したものの、4年後には越中に転封。その為に、小丸城は未完成のまま廃城になったと伝えられている。
現在は本丸の小高い丘と、その南東にある土塁跡が残るのみである。
今立町を経由して県道18号線に入り、一乗谷に裏から入る(実は南からのルートが大手道という説もあり)。
途中に峠道があったので、この馬力の無い車が大人4人も乗せて峠道を無事に登れるかと、冷や冷やしながら向かったが、思ったよりも勾配が緩やかで、無事に一乗谷へと入ることが出来た。


一乗谷城


左:朝倉氏の館跡、右:谷の裏側に当る上城戸の土塁



谷内に2箇所、谷の北に1箇所の資料館があり、その内の二箇所に立ち寄る。屋敷跡等が復元されていて面白い。地図を見ると昔は一般人が住んでいたようであるが、現在では谷のほとんどが公園化されてしまっている。
この一乗谷を初めて知ったのは小学校6年生頃。小学館の漫画日本の歴史の10巻に紹介されていた一乗谷城を見て、谷が城という事実に驚いた記憶があるが、谷の南東部にはしっかりと詰城があるということを15年後に知って更に驚いた記憶がある。
それはともかく、20年近く前に本で見た風景や出土品を目の当たりにすると、感動も一入である。今回は夏であることで詰城には登らなかったが、再度来て登ってみたいものである。
城の出自は、長ったらしいので割愛する。



東郷槙山城


左:本丸、右:千畳敷の南の堀切



一乗谷の北西2kmほどのところにある。元は朝倉正景が東郷庄を預けられた時にここに拠ったものと思われるが、朝倉氏の本拠が一乗谷に移ってからは、一乗谷の支城的働きをすることになった。
現在は公園となり、二の丸まで車で登れるようになっている。本丸は草が生い茂っているが、南方の千畳敷は公園地となっている。北東の郭群は、夏と言う事で割愛したのでどうなっているかは分からない。


国道158号線に戻り、東進して大野市を目指す。
途中、昼になったので、国道脇にある観光地特有の大型レストランで昼食を摂る。
おろし蕎麦と鮎の天麩羅を注文するが、昨日の晩の蕎麦屋と比べると余りにも普通な蕎麦で感動も何も無かった。それよりも店に置かれている漫画雑誌の中に月刊ジャ○ボがあったのには驚いた。店主の趣味なのだろうか。
※月刊○ャンボ:表紙から分かる通りのエチィーな漫画雑誌。かのイチローも愛読していたという噂もあり。




食うものも食い、大野市に入る。
車で上まで上がれると言う窪谷さんの情報を元に大野城の登り口を探したものの、唯一と思われる登り口には車止めのポールが。観光客が増えたためであろうが、ともかくこの糞暑いのに山に登る気力も無く、今回は通り過ぎる事に。

大野城


大野城の遠景。西側から

大野市を突っ切って国道157号線を北上し、勝山市へと入る。

勝山城


左:公会堂、奥に碑らしきものがある、右:勝山城に関する説明書



現在の勝山市役所周辺が城跡。地図を見ると、街並みにそれらしい物も残っているが、跡形も無いと言っていい。
ここ勝山は平泉寺のすぐ前にあたり、平泉寺と争って勝った一向一揆衆が記念にここ村岡山を勝山と命名したと謂われている。
その後、柴田勝安が築城し、成田氏、長谷川氏、結城氏と主が転々とした後、元禄4年になって小笠原氏が2万3千石で勝山藩を開いて、明治まで続いている。図面の残っている勝山城は、小笠原氏が勝山に入ったときに造り直したものである。

何も無いので、とっとと移動。国道416号線を西進して福井市に入り、市街を西へと突っ切って下市町へと向かう。
ところが、地図に無い新道が出来ていたために道に迷い、30分近くうろうろとして、やっと城跡への入り口を発見する。


安居城


左:安居城跡と思われる辺り、右:地元民に教えてもらった、墓地への入り口



神社のすぐ西の辺りに、「安居城」という看板が出ていたので、楽勝ムードを漂わせながら入っていったが、廃墟と化したラブホテルがあるだけ。南東の神社の裏手の小山に入ってもそれらしい物も無く、東の山に入ろうにも雑草が生い茂っていて先へと進めない。
ラブホテルも不気味なので撤退しようと進言するも、窪谷さんと薬田さんは更に地元民に聞き込みを続け、城跡へと通ずる墓地への道を聞き出してきた。さすがと感心して墓地へと向かったが、墓地から先の道は見つからず、斜面に取り付いて強襲をかけるにしては暑すぎた為に、結局諦めて撤退する事になる。


もう一度福井市市街に戻り、県道5号線を北上して中角へ向かう。

中角館



中角館があったとされる分校跡地の公園



京福電鉄三国芦原線の中角駅傍。分校があった場所が館跡と謂う事で分校を探し出すが、城郭大系にある地籍図とは雰囲気が違い、また新しい区画整理がされていたので決め手にも欠けて時間も無く、結局中角館は諦める事に。

九頭竜川沿いに北西に進み、木部新保という集落へと入る。

向氏館



城郭大系の地籍図を元にそれらしき遺構を求めてぐるぐると回ったものの、これといったものも見つからず。
明治時代の地籍図しか載っていない館跡を探すのも何だが、それにしても先ほどの中角館といい、区画整理が進んでしまった為に遺構が跡形も無くなってしまっているのは問題である。福井県はこうした遺跡に関心が無いのであろうか。


堀江館(下番)


左:碑と五輪の塔、右:本荘小学校



京福電鉄三国芦原線、本荘駅傍。現在は本荘小学校になっている。南端の道路沿いの土塁は跡形も無いが、東側の春日権現との境にあたる堀跡や、西側の土塁跡はそれっぽい雰囲気を残している。
堀江氏は越前国司藤原利仁の末裔と伝えられ、斎藤が本姓だが堀江庄に居た事から堀江氏を名乗るようになったとされている。朝倉氏が越前を掌握するとこれに従い、各地の戦いで戦功を挙げていたが、永禄10年(1567年)に加賀の一向門徒へ寝返るとの噂が広まり、怒った朝倉義景に攻められる。何度か押し返し、和議により能登へと隠遁した。朝倉滅亡後は信長に従い、姓も岡部に変えて現在に至る。


堀江館で打ち止めと言う事で、今夜の宿である芦原温泉の旅館へと向かう。

温泉にでものんびり遣って疲れを取って…と行きたいところだったが、昼過ぎ頃から鼻に水脹れのようなものが2、3箇所出来、破れてリンパ液が出てきてしまうという謎の症状になってしまった。これも昨日の敦賀城で、窪谷さんが「鼻水の城」などと言う暴言をしたためによる大谷吉継の呪いかもしれないが、病院に行って診察してもらう事も陰明師に行ってお払いをしてもらう事も出来ない。
仕方が無いので、近所の薬局で軟膏を買って来て、患部に塗っておく。それにしても真面目な話、どうして突然こうなってしまうのか分からなくて気持ちが悪い。変な病気だったらどうしようと心配になる。


温泉に入って飯を食い、暖気の済んだ秋田さんと窪谷さんは芦原ミュージックへと出撃していった。残った薬田さんと自分とは、薬田さんの持ってきたカタンで遊ぶ。
2人だけなのでゲームバランスが多少悪かったが、土地カードの枚数を調節するなどして何度が遊び、12時を過ぎた辺りで就寝。

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