北近江(城ML北近江OFF会)

平成13年4月14日〜15日


城MLのオフ会が北近江であると言うので参加する。
色々とあって面白かったのだが、参加者の名前をほとんど覚えていないなど記憶の不備が多いので、城の紹介だけに留める事にする。



玄蕃尾城





賎ヶ岳の戦いの折、柴田勝家が陣取ったことで有名。
北陸自動車道の柳ヶ瀬トンネルの南1kmほどに位置する。今回は、国道の柳ヶ瀬トンネルの敦賀側出口から南下している林道を車で進めなくなるまで1.5kmほど進み、そこから更に徒歩で峠を登り、丁度峠部分から東にある登り口へ入る。ちなみにこの道は木之本から敦賀に抜ける刀根越えの旧道で、またこの峠から南側への眺めは良く、昔の旅人の気分に浸れる。更にここから西の登り口へ入ると、佐久間盛政の陣城である行市山へと行ける。
柳ヶ瀬山へ一気に登り、それから北へ広い尾根筋を500mほど歩くと、玄蕃尾城へと至る。最近発掘作業が行なわれ、その際に復元整備されたために、まるで公園のような感じがする。空堀、土塁などが奇麗に復元されており、当時の面影を味わえて素晴らしい。また、東側は200mにも及ぶ断崖絶壁で下に自動車道を見下ろし、空中庭園のような趣さえ感じられる。
この場所は、今庄経由で北陸道に伸びる北国街道を東に、敦賀へ抜ける刀根越えを西にした交通の要衝で、古くから疋壇氏の城があったとされているが、現在残っているのは賎ヶ岳の戦いの折に改修されたものと推定される。まあ、よくわからない。



疋壇城


左:本丸。今では畑。右:裏の田んぼにあった石垣。ただの田んぼの石垣かもしれない。



西近江路と塩津街道の合流点となる、疋田の町を見下ろす丘の上にある。この場所は、日本三関の一つ越前国愛発関が789年まで置かれていた所でもあり、古くから交通の要衝であった。織田信長の二度目の越前侵攻の際に焼かれて、それ以降廃城となった。
現在は南はグラウンド、北は畑となり、西には鉄道、東には道路が走って破壊も激しいが、要所要所の遺構は今でも比較的良く残っている。
季節柄、裏の鉄道脇に大勢の鉄道ファンが三脚を建てていた。



小谷城



説明する必要もないくらい有名なので説明略。
車で登って本丸周辺をまわる楽コースと、清水谷の遺構を嘗めてから大獄へと徒歩で登る強力コースとに別れる事になったが、今回は初めてという事で大獄へは行かず、普通に攻める事にする。
二の丸から大広間から本丸、京極丸山王丸と本当に素晴らしく、何でこんな極上の城に来ていなかったのかを後悔する事しきりであった。
山王丸の端で大獄の別動隊と合流。話を聞くと大獄の遺構は素晴らしく、道も悪くなく、最近まれに見る良い城であったとの事。小谷本城経験者がそう言うのだから本城よりもすごいのだろう。本城は一人でもまた来れるが、大獄はさすがに一人では無理。何で登っておかなかったのかとまたも後悔。



三田館


土塁跡



姉川の古戦場を見た後、ついでにと平野部に散らばる館の一つを攻略。場所がわかりにくく、迷ったものの何とか発見。
幾らかの土塁が残存している。



国吉城


左:麓の館跡の石垣(だと思うが位置がどうも違うようで自信が無い)、右:麓から本丸を望む



本丸



敦賀から国道27号線を西に進み、美浜へ入る椿峠の南にあるのが国吉城である。元々国吉氏が築いていたものを天文年間(1530年〜50年くらい)に粟屋勝久が修復したものと言われている。その後朝倉氏との数年に及ぶ籠城戦の舞台になる。信長の越前攻略時には前線基地となり、粟屋氏は先手として活躍している。
徳賞寺の脇の辺りに館跡の石垣があり、その奥から城への登り道が伸びており、比高150mほどの山道を登ると本丸に出る。本丸から北北西に伸びる尾根に郭が連なっていて、椿峠まで道が下っている。ただ、今回は途中から脇に逸れてしまったので、本当に峠まで道が存在するかどうかは不明である。



以上、4城。戦史研とは一風違った感じの城攻めだった。


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