五嶽真形図といいますのは簡単にいいますとマンダラのようなものです。
1,五嶽真形図のいわれ
最もポピュラーな伝承は、
○小説「漢武帝内伝」でに書かれているものです。元封元年正月甲子の日に漢の武帝は神宮を建てて嵩山を祀った。四月戊辰の日、身辺に東方朔と董仲舒が居たときに、青衣を来た美麗な女性が現れた。この女性は西王母の使いとして昆山から来た仙女であった。今日から百日間潔斎して待てば七月七日に西王母が来てくれると伝えた。さて用意をして待っていたところ、西王母が現れた。様々な教えを賜った後に、西王母から「八會之書」と「五嶽真形図」を、上元夫人から「六甲霊飛十二事」を賜った。しかし武帝は西王母の助言に従わなかったので、得道できなかった。その後、董仲舒は元封三年七月に、西王母から「五嶽真形図」を授かった。また元封四年七月に李少君に「六甲霊飛十二事」を授けた。しかし原本は太初元年十一月乙酉の日に火事で焼失してしまった。
という事になっています???
他にも
○東晋代(316〜420)に成立した葛洪の「抱朴子」の巻19に「道書の重なるものは三皇文・五嶽真形図に過ぐるものなし」と記載され、
○神仙伝には、帛和…遼東の人(時代不明)西城山にて三年面壁し、「太清中経神丹方」、「三皇天文」、「大字五嶽真形図」を得て地仙になったとあります。
○また、魯女生(長楽の人(時代不明))は、嵩高山にて一人の女性から「三天太上の侍官なるぞ」といって五嶽真形図を授けられ、使用法をも教えられた。
○その後、封衡(隴西の人(時代不明))は魯女生より還丹の秘訣と五嶽真形図を伝授されて仙人となった。
など、様々な伝承があります。
2,五嶽真形図がどのように伝承されたのか
これも伝承によるしかありません。 前述の帛和のこの道術を帛家道と称して、六朝期に流行し、この筋で葛洪に伝わったという説。
魯女生ー封衡ー左慈ー葛玄(曾祖父)ー鄭隠(義父)ー葛洪と伝わったという説
。
どちらにせよ、東晋の葛洪はその著書「抱朴子」の巻19に「道書の重なるものは三皇文・五嶽真形図に過ぐるものなし」と記載している訳ですから、この時代には重要なものであり、かつ手に入りにくいものであったことは確かです。また、先の「抱朴子」の記述からして、これら古代においてはこれを得ることはある意味では修行の終わり、仙人になることに等しかったらしいということが分かります。
しかし、時代を下るに従って、山に修行に入る修行者などの必携とされたらしいことから、だんだんと流布していたことが分かります。
11世紀北宋の時代に編纂された「雲笈七籤」にも収蔵されており、また当然ながら15世紀明代に編纂された「正統道蔵」中の「洞玄部霊図類」にも「霊宝五岳古本真形図」として収蔵されています。
ですから重禁とはされながらも当時かなり流通していたことが知られます。
また、日本でも室町期に山岳修験者が所有していたと見られるものが残っており、14世紀から15世紀にかけては修行者の必携とされたのではなかろうかと思われます。
すべてが筆写だったという理由でしょうが、一点、一画をもって漢字の意味が変わることに鑑みるにその効用はかなり失われていると考えなければならないでしょう。
3、では五嶽真形図とは何なのでしょうか?
先の「漢武内伝」や、平田篤胤の「五嶽真形図説」によりますと、昔、上皇の清虚元年に、三天太上道君(平田説ではイザナギノオオカミ)が下を見て、地に五岳を植え、そして次第に地を整えられた時の地形が川や海が山の周りを取り巻いて、まるで字の様だったので、この形を写して、名を定められたということです。
三天太上道君とは 平田篤胤によると、三天すなわち「史記天官書」にいうところの北極紫微宮を主宰する神で、天皇氏と称する天帝であるとしています。
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