讃岐阿波土佐遠征

平成22年9月12日〜14日



阿波 久千田城




寒くない冬、冬のような春、そして終わりの無い真夏日。
今年は年初から異常気象だった。
そしてそんな8月の末、日が暮れても天井が焼けてクーラーの利きの悪い独身寮の部屋で、窪谷さんからの電話を取った。

「9月12、13、14日の3日間、遅い夏休みを取れる事になったから、どこか行かない?」

休日は12日の日曜日だけで、13、14日はどちらも平日である。しかし丁度転職が決まり9月の半分は有休消化ができたので、こんな無茶な予定にも乗ることが出来た。だが休みの心配よりも、9月に入ってからも衰えることの無い猛暑の方が心配であった。

「暑さ、大丈夫ですかね?」
「さすがに9月半ばには涼しくなるだろうし、それに居館系をメインに据えるから大丈夫だよ」

確かに暑ければ居館系に逃げれば良い訳だと、その時には考えていた。
しかし、実際に猛暑の中で城攻めをした経験が無かったので、それがどれ程無謀な事か、想像できていなかっただけだったのである。



こうして9月12日からの2泊3日、讃岐、阿波、土佐の三ヶ国を回るという慌しいスケジュールが組まれたが、それはこれまでに無かった敵との苦しい戦いとなったのである。





○9月12日(日)

午前7時過ぎに窪谷さんが坂出駅に到着。直ちに南東へと移動を開始するものの、この時点で、かなり気温が上昇していた。




由佐城


左:香南歴史民族資料館、右:同左の東側の堀跡らしき場所




高松空港の北、香南町由佐の香南歴史民族資料館の建っている場所が由佐城跡である。現在は跡形も無いが、資料館の東と北は一段低くなっており、辛うじて当時の雰囲気を残しているような、そうでないような。

由佐氏の城。天正11年(1583年)に長宗我部元親がこの城を攻めたが落ちず、和議が成立している。由佐氏は元親が秀吉に降伏した後は仙石秀久に、その後に讃岐に入った生駒親正に仕えている。


まだ8時を回っただけなのに、もうすっかり真夏モード。




戸田城


左:本丸と碑、右:本丸の北の堀切


左:南西から本丸方向を望む、右:北西下から本丸を



公渕森林公園の南東、城集会所の南の丘が戸田城の居館跡である。本丸に行くには私有地を通らねばらなず、家の人に一声かけた方が良い。本丸と城集会所脇にはそれぞれ石碑が建てられている。南の山頂が詰の城になっているが、はっきりとした登山道も無いらしく、炎天下に藪こぎをする気も無かったので登り口の確認もせずに転進した。

植田氏の城。天正年間に長宗我部元親の進攻によって落城し、長宗我部親吉が城主となった。天正13年(1585年)に秀吉の四国征伐がが行われると、堅固なこの地で秀吉軍を迎え撃つべく細川源右衛門が立て籠もるものの破れ、廃城となった。




高岡城


左:北東から、城域が道路で東西に分断されている、右:西側の城域を北東から


左:西側の城域の内部、右:同左の南西側にある土塁


左:土塁にある虎口?、右:東側の城域を西から



琴電長尾線学園通り駅の北東、平木尾池の西岸にある。城域は道路によって東西に分断されてしまっているが、比較的わかりやすい。特に西側の城域の南縁には土塁が残っており、その中央部は虎口のように低くなっている。

地頭として三木郡南部に勢力を持っていた三木紀伊守高長の城。



再び南下し、県道297号線を東へ。



池内城


左:長尾断層の駐車場、左上の山が池内城、右:主郭、墓地になっている


左:主郭の南西端の土塁とその向こうの掘切、右:同左堀切を東下から


左:主郭南下の郭、右:主郭の東端の櫓台?


左:東側の最高所を西下から、右:主郭と東側の最高所の間を走る堀切



亀鶴公園の南西、県道279号線の南に長尾断層の見学用駐車場があり、その東脇から墓地への参拝道が出ている。しっかりとした縄張りが残っているが、墓地の敷地以外は藪に埋もれており、夏に来る場所ではない。また当然のことながら藪蚊が多く、立ち止まると直ぐに数匹が飛来するために写真が撮りづらかった。

寒川氏が里城として築いたものであるといわれている。池内城の南方5kmの山の中には詰めの城である昼寝城がある。



再び県道を東へ。



石田城


城域を東から、道の奥に寺がある


左:光明寺、右:道の脇、多少とも土塁っぽい気もするが…



県立石田高校の南西500mの光明寺辺りが石田城であるといわれているが、寺の南に老人ホームが建設されてしまった為に遺構は殆ど残っていない。また寺には駐車スペースも無いので石田神社の南西のスポーツ施設の駐車場を利用した方が良さそうだ。

天正期の城主は安富民部元網で、天正11年(1583年)に長宗我部元親の軍勢に攻められて落城している。



以上で讃岐方面の攻略は終了。津田寒川ICから高速道路に入って阿波へと向かう。
国境のトンネルを越え、板野ICで降りて県道1号線を南下する。吉野川を渡って井戸寺方面を目指すのだが、道に迷う。土手付近の道が立体でわかり難い。



井戸城


左:奥の方がかすかに微高地っぽいような…、右:良くわからない



右:終戦後の航空写真(国土地理院、R527-1-104)

四国霊場八十八ヶ所の一つ、井戸寺の南方300m付近が井戸城といわれているが、宅地開発が進んだせいか大系に書かれているような水掘や土塁といったものは見当たらなかった。しかも真夏の住宅地を歩き回っていた為に体力を、そして何も見つからなかったので気力を消耗する。



気を取り直して県道30号線を西へ。桜間城を攻める前に県道脇のうどん屋で昼食。
午前中の作戦で二人ともかなりの汗をかいていたので塩辛いものが美味しかった。

うどん屋で桜間城の位置を再検討する。ネットで調べた情報だと県道30号線の南方になっていたのだが、大系の写真では明らかに大きな川沿いの木立が写っており、また「城域の南方100mには桜間神社があり」という記述がなされていたので、川を北に渡る。しかし桜間神社の北100m付近を調べても城域らしい痕跡も無く、また大系の3枚目の写真にあるようなお堂のような建物も水堀もない。そこで再び川と県道を南に渡り、ネットで書かれていた位置へ。
そしてしばらくうろついていると、ようやく3枚目の写真のお堂のようなものを発見する。水路や土地の高低の感じから、少なくとも先ほどの場所よりかはこちらの方が可能性が高そうなので、こちらを桜間城と比定する。



桜間城


左:北西隅から東を、右:同左から南を、中央のお堂らしきものが大系の写真のあれ


左:お堂の西を南北に流れる水路、北向き、右:同左を南向きに



右:終戦後の航空写真(国土地理院、R527-1-103)

お堂らしきものが建つ家の敷地は、北と西を水路が走り(西側は暗渠になっているが)、また微高地になっている。

古くから阿波国で勢力を振るってきた田口氏の城。平安末期には平家方となったが源平合戦の後に衰退した。



大系の誤記からかなり歩きまわされ大分へばる。冷房の効いた車での移動で体力を回復したい所だったが、無常にも次の鳥坂城はすぐ南であった。



鳥坂城


左:撤退中の窪谷さんと登り口

阿波国分寺尼寺跡の西方の小山が鳥坂城である。山の北東側に登り口があり、車道沿いからも確認できたものの、車道が狭すぎて駐車スペースを確保できず、しかも切り返しする場所も見つけられず一度ぐるっと回って再び国道から入り直す羽目に。
遊歩道が付いているものの夏で雑草が生い茂り、途中まで登るもののあえなく撤退。山城は夏に登るものではない。



気を取り直し、北西へ。再び吉野川を北へ渡る。



西条東城


左:民家の裏手に建つ碑、右:1961年の航空写真(国土地理院、MSI611-C12-19)




県道15号線の北にあるJAの脇に車を停めて、県道の南へ。民家の裏に小さな石碑が1本建っているだけである。

貞和2年(1346年)に左近将監備前守春之(森春之)が秋月城の支城として築いたと伝えられている。天文年間(1532年〜55年)には岡本美作守清宗が居城していたが、天正10年(1582年)に長宗我部軍に攻められて落城している。天正14年には蜂須賀家政が阿波九城の一つとして修築したものの、元和の一国一城令で廃城となる。



県道を只管に西へ。



伊沢城


左:蛭田池の堤の上の碑、右:東から城域を望む


左:西の谷、右:城域内部


右:1961年の航空写真(国土地理院、MSI611-C13-33)

阿波市役所の南500mにある蛭田池の西の丘陵部が伊沢城跡である。池の堤に石碑が、また西の谷地に看板が建っている以外は、遺構らしい物は何も残っていない。

奥州藤原氏討伐で功績を挙げた伊沢家景が伊那佐和庄を与えられ、地名を伊沢と改めてこの地に城を築いたのが始まりとされている。天正10年(1582年)には長宗我部軍によって攻められて落城している。



折角なので近くにある久千田城も攻めることに。



久千田城


左:北の農道から土塁跡を、右:同左拡大


左:土塁跡を西から、右:土塁跡付近から北を望む


右:1961年の航空写真(国土地理院、MSI611-C13-33)

広々とした田んぼの真ん中にぽつんと土塁の一部が残っているだけである。1961年の航空写真を見ても、既に土塁はここにしか残っていなかったようである。

鎌倉時代に三木為清が久千田庄の地頭として来任した際に築城したといわれている。その後城主は転々とするが、応永元年(1394年)に小野寺氏が入り数代居城するものの、天正10年に長宗我部軍に攻められて落城している。



以上で阿波国の攻略も終了。脇町ICから高速へと入り土佐国へと移動する。
そして南国ICで高速を降り、前回の土佐攻めの際に攻略できていなかった久礼田城へと向かう。


久礼田城


左:二の丸の手前から南方を、手前で木を伐採している、右:本丸、羊歯が密生


左:遊歩道を整備中、右:堀も真っ青

詳細についてはこちらを参照。
夏なので草が茂っていたが、それでも管理は行き届いており、一部新たに木が伐採されたり遊歩道も整備し直されていた。今年の冬くらいには更に良くなるかもしれない。



まだ光量があったので更にもう一城。



久次土居


左:神社の東脇の土塁、右:土塁の北東隅を内から


左:神社の東側の土塁、右:土塁の北東隅を外から


右:1975年の航空写真(国土地理院、CSI756-C6A-48)

土佐刃物流通センターの南西にある宇佐八幡宮の敷地付近が城域である。神社の東と南に水路が走り、また神社の北東隅に土塁が残っている。

手持ちに資料が無いので詳細不明。



それでもまだ光量があったので、もう一城(CV:寿美菜子)。



上野田土居


左:南下を流れる川、右:南下から八幡神社を望む


左:八幡神社内部、右:東から八幡神社を眺める


左:東側の土塁、奥が大将軍神社、右:同左を南から


左:八幡神社の西の土塁、右:南西端付近の土塁?


右:1962年の航空写真(国土地理院、MSI621-C1-17)

土讃線土佐長岡駅の南方500m、大将軍神社の西隣付近の高台が上野田土居である。
大将軍神社の西側と、八幡神社の周辺に土塁が残っている以外は遺構は殆ど残っていない。

これまた手持ち資料が無いため詳細不明。




時間も午後6時になり、ここらでようやく日が暮れてきたので本日の作戦も終了。
高知市内へと移動し宿へ。

高知城のすぐ東側にあるビジネスホテルで屋上に露天風呂があるのだが、日没ぎりぎりまで作戦を行っていた為に宿に入った頃にはすっかりと暗くなり、風呂につかりつつ高知城の天守閣を眺めるなどという粋な事はできなかった。


宿の人から美味しい店を教えてもらい、土佐料理を食べる。生ビールが美味しかった。




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