梅雨の四国東半分一周

平成20年6月21日〜22日


包末城の円弧状の土塁




○6月22日

夜、あれだけ雨が降っていたにもかかわらず、朝には雨が上がっていた。

午前7時頃に出発。





香宗我部城


左:北東側の土塁、右:同左



左:北東側の土塁は神社になっている、右:南西側の土塁?



左:南西側の土塁?、右:同左






県立城山高校の北1km、野市浄化センターの香宗川を挟んだ西側に香宗我部城がある。
北東側の土塁は高さが約3mあり、上には社が建っている。南西側の土塁と思われる遺構はすっかり低くなっている。

香宗我部氏の居城。建久4年(1193年)に中原秋家が宗我郷と深淵郷の地頭に任ぜられ、香宗我部を名乗るようになった。後に東の安芸氏、西の長宗我部氏に圧迫されるにおいて、長宗我部国親の三男親泰を養子に迎えることになる。関が原の戦いの後、廃城となる。





前浜台場


左:土塁?と碑を南東側から、右:同左を南西側から



左:裏手(北側)、右:同左



左:土塁?、右:台場跡の正面(南側)






高知空港の南西、寺家公民館の西200m程の所に台場跡の碑が建っている。
現在は土塁跡らしき盛り上がりが一部残っているだけである。





蚊居田城


左:南から、右:北側から



左:北辺を東側から、右:内部



左:飛び地の土塁?、右:南東側の土塁跡?






空港の西側、市立三和小学校の南500mの辺りに、周りの田んぼよりも一段高い方形の台地と土塁がある。南東側や北東側にも土塁跡らしき痕跡があるが、遺構かどうかは不明。

蚊居田氏の居城。蚊居田氏は早くから長宗我部氏と姻戚関係にあったらしい。





千屋城


左:南側の土塁跡を北から、右:同左を東脇から



左:館の推定北東隅くらいに建つ社、右:土塁の残骸?その1



左:土塁の残骸?その2、右:土塁の残骸?その3






高知空港の下をくぐっている県道31号線の南側の入り口の西側に千屋城跡がある。南側の 土塁には野見嶺南(江戸時代の学者)の墓が建っている。他にも土塁の跡らしきものが幾つか点在しているが、土塁かどうかは不明である。

千屋氏の居城。詳細不明。





田村城館


左:東側中央付近の土塁跡、社が建つ、右:同左を東側から



左:同上を東側から、右:東側の北付近、土塁の痕跡か



左:館の中央部を望む、右:土塁跡か?



左:南側の田村城と細勝寺の碑、右:同左の内部、南縁部の土塁が見える



左:南西隅の土塁を西側から、右:同左を南側から



左:西側の中央部付近の土塁跡を南から、右:同左撮影地付近から社のある土塁付近を望む






高知空港の地下を潜る県道31号線の北の出口の西側に田村城館がある。東側や南西に土塁が残っているほか、土塁の痕跡らしきものがあちこちに見受けられる。南西側は整備されて公園のようになっているが内部には入れない。

管領細川頼之の一族で、守護代として田村庄に入部した細川頼益の居城。この細川氏は一時期には長宗我部氏や香宗我部氏、入交・千屋氏などを配下にしていたが、応仁の乱後に没落する。





岩村土居


左:福田八幡宮を南から、右:同左脇から北側を望む、奥に土塁が見える



左:北東隅の土塁を南東から、右:同左を北西から



左:北縁の土塁を東から、右:同左を西から



左:北西隅の土塁を北から、右:同左を南西から






県道31号線を北上し、福船簡易郵便局の北の筋を東に300m程の所に福田八幡宮がある。この北東側一帯に土塁が幾つか残っている。

建武3年(1336年)の佐伯文書に岩村城の名前が出ているらしいが、詳細は不明。





包末城


左:北西隅、右:西側の土塁



左:北西隅を北中央部から、右:同左土塁



左:北東隅、カーブしている、右:東側から



左:西側の土塁を南西から、右:全体を南西から






土讃線の土佐長岡駅の南南東約1km、広域農道の東脇に馬蹄形に近い土塁が残っている。

詳細不明。





高柳土居


左:北西から北側を、右:北西から西側を



左:東側内部、右:西側内部



左:北側の墓地になっている部分、右:同左の北下、石垣



左:南側から全体、右:北側から全体






県立山田養護学校の東約500m程のところにある。
南側の土塁は無くなってしまい馬蹄形に近い形になっている。残っている部分に付いては高さ1.5m程の石塁であり、めずらしい。

烏ヶ森城主西内常陸の土居といわれている。長宗我部氏の検地当時には西内常陸の子西内佐渡守のものとなっている。





五百蔵城


左:南端から物部川を望む、右:川岸から北東側を望む



左:西側の外堀跡らしき水路、右:南東側にある祠と木立、東側から



左:南東側一帯、西側から、右:北東隅の土塁跡?






香北町役場の西1kmにある五百蔵集落の南東側一帯が城域らしいものの、現在では殆ど何も残っていない。

長宗我部氏の家臣、五百蔵筑後守とその子佐渡守の居城といわれている。





佐岡土居


左:小学校の南側の土塁、右:同左を南西側から



左:小学校の南側の土塁の東側、右:同左土塁の西側の堀切



左:南部平坦部の北西隅、右:南部平坦部の東側



左:南部平坦部中央にある社、右:同左付近にある土塁






佐岡小学校の南側一帯が佐岡土居である。小学校の直ぐ南側に東西方向に土塁と堀切が、またその少し南側にも同様の堀切と土塁らしきものがあり、二重の防御線を持っていたのかもしれない。敷地の殆どは田んぼと宅地になっている。

長宗我部氏の一族の広井甚内俊将が永禄2年(1559年)に築いたものといわれている。





久礼田





左:郭Aのを南西側から、右:同左



左:郭Aの南東側の土塁、右:南側の虎口



左:北東側の虎口、右:南東側の土塁の上、三角点がある



左:郭BとAとの間の堀切と土塁、右:郭B



左:郭Bの北側の土塁、右:郭Bから郭Aを望む



左:郭C、右:郭Cから郭Dを



左:郭Dの西側角部、右:郭Dの南側角部



左:郭Eを上から、埋め込み型の門?、右:郭Eを上から






左:帯状の堀切Fの東南端、右:堀切Fの東側



左:堀切Fの北東側、右:同左を逆側から



左:堀切Fの西端、右:同左を逆側から



左:堀切G、右:同左



左:堀切Hの南東側、右:堀切Hの北西側



左:平坦地Iから掘切H方向を、右:平坦地I



左:塹壕?J、右:同左



左:塹壕?Jの南東側の開口部、右:同左を上から









久礼田小学校付近かと思い探索してみたが、遺構らしきものは見当たらず。代わりに小学校の南西側付近で「久礼田城跡 この北700m」の碑と、史跡案内図という看板を見つける。ただ看板は殆どの文字が読めなくなっており、案内にもなっていない。碑の指示が正しいとすれば、集落の北側にあるゴルフ場の手前にある標高168mの山が城跡かもしれない。

2009.2.8 再訪
時間が余ったので、場所の確認だけと思い行ってみた。かなりのビンゴで驚いた。
場所は南国ICの北東側のパシフィックGCの駐車場の南側。全体を綺麗に刈り込み、散策路がつけられて大変に見やすくなっている。

山頂付近に大小の2ヵ所の郭と、それを取り囲むように帯郭と、更に帯状になった堀切が配置されている。かなり面白い。残念なことに一部がゴルフ場建設の為に削られ全体がわからなくなってしまっているのと、南東側斜面は藪のままで状態が判らないことである。それでも全く削り取らず、また散策が可能なように整備してあるだけでも称賛を送るに値する。
また城域の南西隅に、戦争中のものと思われる塹壕跡らしきものが残っている。ただ付近を見る限りはこれ以外に見られず、本当に戦争中のものなのかは不明である。


碑によると城主は久礼田豊前守定祐とある。




雨が降り始めてきたので、昼飯に道の駅へ立ち寄る。一時は土砂降りになったが、昼食が終わる頃に雨が小降りになる。さすが窪谷さん。





比江山


左:社の付近の土塁?、右:社



左:社付近の土塁?その2、右:社のある高台



左:社の北側の削り取られた部分、右:同左東下のシャベルカー



左:北側の平坦部、右:同左






国府小学校の東500mにある比江山神社周辺が城跡である。
神社までは砂利道がつけられており、雨の中傘を差しながらでも行くことが出来た反面、かなりの部分が工事のために削り取られてしまっている。
土塁などがあったように思うのだが、雨が降っていたために縄張りの確認などはできなかった。

比江山掃部介親興の居城といわれている。比江山親興は長宗我部国親の弟国康の次男と伝えられている。




この時点で雨が酷くなったので早めに予定を打ち切り、離脱ポイントである坂出まで北上する。
山地を越した辺りから雨は急に止み、讃岐平野に入った頃には地面すら濡れていない状態であった。また時間も十分にあったので、行きがけの駄賃として坂出駅から近く、場所を知っていて車で楽に行ける聖通寺城へ立ち寄ることになった。





聖通寺城


左:平山山頂の駐車場の脇に碑が、右:平山山頂部



左:山頂中央部のコンクリート製遺構、右:山頂から瀬戸大橋を望む






瀬戸中央自動車道の坂出北ICのすぐ西側にある聖通寺山とその北西にある平山一帯が城域である。平山の山頂付近は展望台と駐車場、更には結婚式場になっている。山頂中央部には謎のコンクリート製の遺構があるが、何かはわからない。




時間も来たので、窪谷さんを坂出駅まで送り届け、今回の遠征は終了。


梅雨の真っ只中で雨に祟られると思っていたのだが、雨が降ったのは比江山城だけという異常な天気の良さであった。
また悪天候を想定して居館や台場が多かったが、それなりに見ごたえのある場所が多く、満足度は高かった。また2日間でほぼ四国の東半分を一周するという無茶な計画でもあったが、何とかなったのは西側よりも小さくまとまっていたからなのだろう。それでも全行程で550kmも走らされたが。




戦果
	攻撃対象	20城

	うち 棄権	2城

			18城	攻略



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