梅雨の四国東半分一周

平成20年6月21日〜22日



偽天守にすら入れなかった日和佐城





一年で最も城巡りに適さないのが梅雨である。夏の暑さはまだ我慢できるが、雨に濡れ、そして足場が悪くなるのはどうにもならない上に蚊も出始めている。こんな時期には普通の旅行をするのもどうかと思うところだが、しかし1年半ぶりの城郭班の遠征は梅雨の真っ只中だった。

それは窪谷さんの一方的都合だった。6月頭に多忙だった仕事が一段落つくので、ストレス解消にどこかに行きたい。とにかく旅に出たい。気分転換をしたい。でもどうせなら現在研究している幕末の台場を幾つかまわりたい、行けるなら居館か車で乗り込める城もまわりたい。と、何時の間にかいつもの城郭遠征になっていた。
初めの案は長崎だったのだが、さすがに梅雨時に九州は時間的にも金銭的にも辛かったので、橋を渡らなくて済む四国にしていただいた。色々と希望を伺っている間に、1泊2日で四国の東半分を一周するという無謀な案になっていたのだ。




○6月21日

JR坂出駅でサンライズで下京して来られた窪谷さんと落ち合う。直ぐに高速に乗り、徳島へと向かう。





沖洲台場


左:北東側から全景、右:防塁



左:一応石塁、右:防塁



左:防塁の西側、右:同左の上部



左:防塁の東側、右:防塁の上から南側を望む






徳島フェリー乗り場の北、市立沖洲幼稚園の南側にある公園に防塁が残っている。沖洲公園の一部かと思われるが、ハッキリとはわからない。公園の南側に、東西方向に高さ2m程の防塁が走っている。一応石塁だが草に覆われて一目ではそれとわからない。元々はここまで海が広がっていたと思われるが、現在は埋め立てが進んで、辛うじて水路らしきものが残っているだけである。

徳島藩が幕末に築いた台場の一つ…だと思う。詳細不明。





津田台場


左:台場公園の東側、右:弾薬庫



左:弾薬庫上部、右:弾薬庫下部



左:公園から北側を望む、右:道路脇の石碑




北東部の火薬庫付近の一部だけが残存しているものの、その他は住宅地に埋もれてしまっている。

徳島藩の砲術家勝浦安右衛門と小出由岐右衛門が藩の命を受けて築城した。文久3年(1863年)から工事が始まり、津田山から土石を採取して南北約110mに及ぶ高台を、翌元治元年には後方の平地に調練場と付属の建物を築いた。備砲は15cm砲2門を初めとする30門で、台場に20門、左右の松原に5門づつを配置し、津田川口の守りに備えた。守備兵は50名だった。オランダ式の高島流砲術で訓練していたが、慶応3年(1867年)から調練が(?)、また大砲も漸次元込め式に変わり、明治3年に廃止された。(以上、公園内の看板の記事を元に記述。一部意味不明の部分あり)





弁天山台場


左:麓の看板、右:山の上の平坦地と防塁



左:平坦部、右:平坦部、段差



左:台場の東部分、右:同左の裏(南側)



左:台場の西部分、右:同左






小松島の町から南東へ2kmにある弁天山が台場跡である。山の上と、東西の左右両翼に石垣の防塁が残っている。ただ西側のそれは神社の施設の一部である可能性もある。

詳細不明。看板は文字が読めなかったし。





仁宇(和食)城


左:仁宇城の碑、右:同左の西側



左:碑のある駐車場、右:同左をさらに引いてみる






蜂須賀氏の阿波九城の一つ。
八十八箇所の太龍寺のある鷲敷町にあるのだが、町のHPでは国道195号線が那賀川を渡った仁宇の集落内にあるとしており、実際に城の碑も建っている。しかしロープウェイ乗り場の南岸にある蛭子神社の境内を城跡としている情報もあり、どちらが正しいのかは良く判らない。ちなみに後者の記事には「東側に空堀が残り,北東隅付近に土橋,南東隅に櫓台,北側の那賀川に面して土塁が残っている」とある。事前に判っていれば回ってみたのだが…。

湯浅対馬守(藤原兼時)の居城。初めは長宗我部氏と対抗していたものの、後に講和し、姻戚関係を結ぶ。天正13年に蜂須賀氏が阿波に入るまで仁宇谷地域を押さえていた。蜂須賀氏の入国に対して仁宇谷衆は一揆を起こすが鎮圧され、仁宇城には一揆を鎮圧した山田宗重を城代として置かれた。寛永15年に廃城となる。




昼、時間も無いのでラーメン。




日和佐城


左:駐車場から、右:偽天守






日和佐駅の東正面の山の上に日和佐城跡があった…らしい。現在は偽天守や施設で跡形も無い。

日和佐肥前守の居城。天正5年に長宗我部氏に降伏。以後配下となった。





牟岐城


左:山頂平坦部、右:同左



左:平坦部隅の土塁跡?、右:周りの平坦地






牟岐駅の南東側にある標高50mの八幡山の山頂が牟岐城である。南側に寺があり、そこから墓への道があるので登りやすい。
山頂の平坦部以外は殆どが墓所であり、現在となってはどこまでが城域なのかはわからなくなっている。

牟岐大膳允の居城。天正3年に長宗我部氏に降伏、配下となった。




次の室戸台場は、当日は結局見つからず諦めて撤退したのだが、後日偶然に発見し探索した際のものである。ただこの時に慌てていたので茨の棘が刺さって流血し、更にこの敷地内で踏んだ犬の糞で車を糞臭くしてしまうなど、散々な目に遭った。窪谷さんを差し置いて台場を訪ねた呪いなのだろうか。




室戸台場


左:台場を南から、右:同左



左:土塁の南東端、右:土塁



左:土塁、右:土塁の上部



左:土塁上部、右:慰霊碑







室戸中学校の北西200mの位置に慰霊碑が建っているが、この裏手の堤防付近に土塁が残っている。詳細は不明。




安芸市内のビジネスホテルで一泊。近くの居酒屋で飲む。美味しいのは美味しかったが、あまり土佐っぽくないメニューが多かった。


夜、雨。これが本来の天気、というか良く1日雨が降らなかったなぁと感心する。矢張り悪魔との契約か…




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