讃岐阿波土佐遠征

平成22年9月12日〜14日



秦泉寺城の南西側の堀





○9月13日(月)

涼しい時間に、山城を一つ片付けるべく東へ。




介良城


左:山頂の南東下にある潮見台緑地の広場、右:同左


左:広場の北東上の平坦地から広場を、右:山頂部、堀切っぽい気もするが…



鉢伏山の北東にある潮見台団地の西の標高170mの山が介良城であるそうである。ただ大系では西下の川沿いにある標高20m程の小山もしくは、その南の標高140mの山付近を想定して文章が書かれており(桜間城と同じく記述内容が矛盾している)、本当にここかは良くわからない。山頂部も自然地形に近く、辛うじて堀切のようなものが2、3ヶ所あるくらいである。
現在、この山の南面は潮見台緑地となっており、団地の西端から歩きやすい遊歩道が出ている。

横山氏の城。横山氏は鎌倉時代に地頭職としてこの地に入り勢力を広げるが、天文年間に長宗我部国親に攻められ、その軍門に下っている。




横山城


左:北西から城山を望む、右:この先だと立て札に書かれているのだが…


介良城の西麓、朝峯神社の西にある小山が横山城(花熊城)らしいのだが、登り口が見つからなかった。城郭放浪記によると、山の上の横山神社への参道があるらしいのだが、その参道が見つからない。山の東と西を探して見てもそれらしい道も無く、ようやく南西の川沿いの道端に立て札を見つけ、その方向に進むも、南東の山の裾野を進むばかりで一向に城にたどり着かず、諦める。結局1時間弱うろつき、体力を相当に消耗しただけで終わった。



暑さと落胆とで呆然としながら南国市の中心部へ。
そして今日は平日だけあって、市街地の渋滞が酷い。



野田土居


左:北西隅の土塁を東から、右:同左を西から


左:土塁の上から、右:東側の土塁跡?



土佐くろしお鉄道後免駅の北東約500m付近の住宅街に、土塁の一部が残っている。土塁の上には社が建てられている。道は狭く、車を停めるスペースを探すのが大変だった。

長宗我部氏の一族である野田氏の城。



国道55号線に出て、一気に東へ。



姫倉城


左:主郭、右:同左


左:二の郭から主郭方向を、右:二の郭から北西下へ


左:西下へと続く尾根上の堀切、右:北東下の平坦地


左:二の郭の西端にある戦争中の遺構?、右:同左



「月見山こどもの森」の南端にある月見山周辺が姫倉城である。車道が山頂付近を通っており、尚且つ公園化されているので夏でも探索が容易である。山頂とその北東下の2ヵ所に比較的広い平坦地と、山頂から西下へ続く尾根上に複数の堀切が残っている。またこの一帯は戦争末期には本土決戦用の陣地が幾つも造られており、二の郭の西端には陣地の跡らしきものが残っている。



県道221号線を北上し、県道230号線を西へ。



拝原城


左:城を西下から、右:城を南から


左:主郭の西端の土塁?、右:主郭


左:主郭の西下の堀切、右:拝原公民館と城の立て札と登城口



県道230号線沿いにある拝原公民館の東側から城へと続く道が出ている。城域の殆どは畑となっているが、主郭の西端の土塁と、その西下に堀切を確認できる。



野市経由で土佐山田へ。



山田城(楠目城)


左:詰ノ段の南西下の虎口(以下、2010年2月時点の写真)、右:詰ノ段と北東側の土塁


左:詰ノ段の北西下の郭の北東側の土塁、右:詰ノ段の北東下の大きた堀


左:詰ノ段と二ノ段との間の大きな堀、右:詰ノ段下から二ノ段方向を


左:二ノ段、右:同左


左:二ノ段の南にある虎口、右:南西端の大きな堀


左:南西端の大きな堀、右:同左


左:茶ヶ森の郭を南下から、右:茶ヶ森の塹壕跡


左:茶ヶ森頂上部の平坦地、右:北下の戦争中の遺構


左:北西下の塹壕跡、右:同左、内側は石垣


左:南西下にある崩落した壕、右:北側の登山道から北面を



鏡野中学校の北東の山が山田城である。南西から北東に向かって並んでいる茶ヶ森、二ノ段、詰ノ段の3ヶ所のピークを中心にして郭が並んでいる。特に二ノ段と詰ノ段の間と、詰ノ段の北下とに大きな堀がある。また二ノ段は周囲の土塁が綺麗に残っている。そして茶ヶ森は戦争中に陣地が築かれており、塹壕や地下壕跡があちこちに残っている。

山田氏の城。天文20年(1551年)頃に長宗我部氏に攻め落とされている。


比較的良い城だったので無理を言って窪谷さんを引っ張ってきたのだが、実際に歩いてみるとかなり奥行きと高低差とがあり、また蚊も多く、茶ヶ森を見ている最中に窪谷さんがギブアップしてしまい、途中で撤退する。



国道195号線を東へ。途中、スーパーの敷地内にあるワンコインの定食屋で昼食。


初めは国道から脇道に入り、城の西側から寄せようとしたものの道は無く、再び国道に戻って進むと国道脇に看板を見つける。しかし車を停められるスペースが無く、旧国道に入って西へ返り、再び国道へ。短時間ということでバス停のスペースに駐車させてもらう。


雪ヶ峯城


左:北端の堀切、右:神社の鳥居


左:最上段部分、右:国道沿いの登城口



国道195号線が物部川を渡る手前に、轟神社への参道の入り口がある。神社の建つ最上段から南の尾根沿いに郭があるらしいのだが、藪になっており入れるのは神社の敷地だけである。また神社の北下には大きな堀切がある。

山田城の支城といわれている。



再び西へ返す。



小野古城


左:南東にある参道の入り口、右:南下から神社を見上げる


左:最上段の北東側の土塁、右:南東の土塁跡



高知大学岡豊キャンパスの北西にある小野神社が小野古城である。神社を中心に何段かの平坦地と、最上段の周囲に土塁跡らしきものが残っている。
比高こそ無いものの、全て石段というのは疲れる。



国分川沿いに南下。布師田へ。



布師田金山城



高知刑務所の南西の山が布師田金山城であり、城郭放浪記の記述に沿ってJAの裏から墓場の脇を通って登っていくが、途中で生い茂った草に行く手を阻まれる。いつもなら強襲していただろうが、山田城で体力気力共に消耗していた事と、この体力で更に比高70mの夏山を登るのが辛かった事もあり、撤退する。




秦泉寺城


左:主郭、右:主郭の北端の土塁


左:主郭から北下を、右:主郭の南西縁の石垣


左:同右上の石垣、右:西斜面の堀と土塁


左:西斜面の堀と土塁、右:道路脇から進入口を



高知駅のある辺りから北へと伸びる県道16号線の脇に秦泉寺城がある。落石止めフェンスの切れ間から登る事が出来る。凹凸がはっきりと残っており、夏に登るには勿体無い城であった。

吉松氏の城。永禄3年(1560年)に長宗我部元親に攻められて落城し、吉松氏が万々城へ移った後には秦泉寺和泉守を城主とするが、これもまた天正16年(1588年)に元親の怒りを買って攻め滅ぼされ、廃城となったといわれている。



県道44号線まで戻って西へ。



万々城


左:主郭北下の堀切、右:同左が主郭の西下へと回り込んで行くところ


左:北の尾根上の堀切群、右:同左堀切の一つ


左:主郭とその西端の土塁、右:主郭から北下の堀切を見下ろす



万々の北西、熊野三所神社の西の尾根上に万々城がある。藪になっており、主郭とその北側の堀切群くらいしか見る事が出来なかったものの、高知周辺の特徴的な縄張は充分に楽しめた。

吉松氏の城。元々は秦泉寺城の支城だったが、永禄3年(1560年)に長宗我部元親に降伏した後、この万々城へと移された。



今度は鏡川を越えて南へ。県道37号線を南下する。



神田南城



事前に城郭放浪記で調べた際、「案内板に掲載されている縄張図は方角が誤っており、上は北ではなく西である。」という記述には目が留まったものの、その下に書かれていた登城口の案内までは目が行っていなかった。というか、地図上の位置しか調べていなかった。そして方向が違っているのが中世城郭辞典の付図や高知県教育委員会の資料までも全て共通している事にも考えが至らず、おかげで登城口を求めて彷徨う羽目になってしまった。
南の尾根の鞍部で作業をしていたおっちゃんに話を聞くも、城の存在はご存知でなく、ただ北東へと伸びる道を教えていただき北上する。しかし行けば行くほど道は下がり、このままでは東下の集落まで下りてしまうと、断念して来た道を引き返す。しかし正解はそのまま進むで、城郭放浪記によると、その内に鳥居と頂上へと登る参道とが出てきたらしい。
全くもって詰が甘い。おかげで体力消耗に追い討ちをかけてしまう。



国道56号線へ出て西進。土佐市を目指す。



蓮池城


左:主郭、右:主郭から西下を


左:主郭西下の鞍部、右:同左から南東下を


左:南東に伸びる郭から主郭方向を、右:北東部の北斜面


左:主郭北下から主郭方向を、右:北東の登り口から城山を



規模も大きく、斜面が綺麗で、公園化されていて歩きやすい。費用対効果の面では2日目で最も良い城であった。

元は蓮池氏の城であったが、大平氏、一条氏、本山氏と城主が転々とした後に長宗我部氏のものとなり、天正2年(1574年)に元親の弟である吉良親貞が蓮池城主となっている。



仁淀川沿いに北上。波川へ。



波川玄蕃城



事前の調査では山頂付近まで車道があり、また公園化されているということが判っていたので、楽勝ムードで攻め込む。
が、この車道という表記が曲者で、普通車では脱輪しそうな細い軽トラ道であることがわかり、入り口に近い場所で向きを変えて撤退する。



16時半頃に作戦終了。
再び高知市内へと戻り、昨日と同じホテルへ。

日没ギリギリまで粘っての帰還ではなく、体力気力尽き果てての早い時間の敗退であったので日もまだ高く、早々に屋上の露天風呂へ行き、高知城天守閣を見物しながら入浴する。ただ屋上の周辺が目隠しで囲われていた為に、湯船に浸かりながらの天守閣見物はできなかった。

今夜も土佐料理屋へ。昨日食べていなかったメニューを片っ端から注文する。今日もビールが美味しかった。



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