山陰遠征 その2

平成15年9月20日〜23日



○9月21日(日)

二日目。午前5時半に起床。
既に足が痛く、その上に風邪気味である。
ただでさえ今日の午前中には比高150m超の山城が3つも控えているというのに、大丈夫か自分?と不安に襲われるものの、そこに城がある限り登らなければならないのである。


まだ多少薄暗い午前6時過ぎ、各自軽装で出発する。宿の朝食は、午前7時から8時までしかやっていないので、7時半頃までには戻らないと朝飯代が丸々無駄になってしまう。自然と緊張が走る。

国道9号線を西に少し戻り、新井の町から県道155号線をこれまた少し北上。山陰本線岩美駅の真西にある、岩美中学校を目指す。



道竹城


北へ抜ける切通し、道を塞ぐ藪



岩美中学校の手前に車を停めて、裏手から北西へ抜ける道を歩く。丁度給水タンクの工事の為に、砂利道ではあるが途中まで道が拡張されていた。
それから北西へ尾根を超える切通しの手前で南南西へ伸びる道があるのだが、少し進んだところにある石碑への道との分岐付近で藪に塞がれてしまっており、それ以上は進む事が出来なかった。もう少し経って下草が枯れてきたら強行突破できるのだろうが、朝方まで雨が降って足元が濡れており、強行突破は諦める。

ただ、もしかしたら別の峰が城かも、もしかしたら他にも登り道が、と神社を登ってみたり地元の人に聞いてみたりしたが、どうも藪で行き止まりになっていた道が正規のルートらしい。

(2004.1.9追加:岩美中学校のプールの南西辺りに、登り口があるらしい。鳥居が目印との事。)

文正元年(1466年)に、因幡国守護山名勝豊が本拠を二上山城から天神山城へ移った後、空白になったこの地域の治安が乱れた。そこで但馬山名家から守護山名祐豊の弟である三上兵庫を迎えて二上山城守としたが、二上山城は比高が高く不便だった為に新しく新井に道竹城を築いてここに移った。
しかし永禄5年(1562年)に鳥取城定番だった武田高信が謀反を起こした際に三上兵庫は武田方に与し、その為に守護代山名豊数によって永禄7年(1564年)秋に道竹城は攻められ落城。三上兵庫は討死し、道竹城も廃城となった。



そのまま県道155号線を北上して、浦富海岸へ出る。



浦富台場


変則W字の分厚い胸牆



はっきりとした看板が出ておらず、初めは砂浜のすぐ南の土塁を台場跡と勘違いして、ただの土盛を写真に撮り捲り、挙句の果てには一周パノラマ写真まで撮ってしまったのだが、国道178号線を挟んで南側にしっかりとした遺構が存在していて大恥をかいてしまう。
それはともかく、素晴らしい。越前で見た幕末の台場とは違った濃厚さがあり、形も変則的なW字をしており、胸牆も分厚い。更には整備も良い。後はもう少しわかりやすい看板を出してくれれば満点である。
文久3年(1863年)に鳥取藩が造った11の台場の内の一つである。築城には付近の農民が駆り出されたが、守備も農兵が訓練を受けて、これに就いた。またこの台場の西400mにも台場が存在したが、現在では何も残っていない。



午前7時半近くなったので、慌てて宿へ帰る。
朝食はバイキング形式で、体調を崩して胃が悪い身としては大変にありがたかった。お粥とタンパク質控えめなメニューでもって、あっさりと戴く。

それから支度をして午前9時頃出発。
尚、この宿(カンポの宿)にはこんなものが設置してあった。



こういう心配りはなかなか無い事だが、いざ火事で慌てている時に、梱包からマスクを取り出して装着できるかどうかは難しい。またフードが無いので、目に煙が入って視界を無くして非常口までたどり着けないかもしれない。しかし有るのと無いのとでは大違いであり、是非とも他の宿の経営者も見習って各部屋に装備して欲しいものである。



二上山城


一の平、階段、一の平からの眺め




国道9号線を新井まで進み、そこから県道37号線を南下。岩常の集落に入った辺りで真正面に見えてくる凶悪な山が、二上山である。登り口にパラダイスパークという植物園があるので、そこを目指して行けば良い。
標高100mくらいの所までは車道が上がっているので、そこから登ると比高250m弱くらいしか無い…いや、それでもまだ250mもあるのであるのである。これは、本当に凶悪である。予め地図の等高線によってかなりところであるとは覚悟はしていたのだが、相当に堪えた。
何が一番きついかというと、きつい斜面に親切のつもりで付けられた階段。同じ傾斜でも、山の斜面を九十九折に登っていくのと階段を一気に登るのとでは、足腰に掛かる負担が全く異なってくる。それに木の階段だと雨天で滑りやすくなって危険でもあり、こういう階段の設置には感心できない。城の南側の尾根から回りこむルートで登った方が、遠回りではあっても楽に登れるのかもしれない。
またこの時には強い北風が吹いており、汗を掻いた体から体温を奪って行き、頂上に着く頃にはすっかりと体調を崩してしまった。

遺構であるが、主な郭については藪も刈られて歩き易くなってはいるものの、そこから一歩でも外れると、藪だらけで何も見えない。帯郭や大系に写真の載っている本郭下の石垣は確認ができなかった。
この他に北と南に出城が確認されたらしいので行って見たかったが、時間も体力も無いので余計な事は止めておく。それにしても、比高が高くて体力を消耗させる割には、淡白な城であった。

文和年間(1352-1355年)に山名氏によって築城されたといわれている。それから文正元年(1466年)に天神山城に移るまでの約110年間、因幡の守護所が置かれていたとされている。(ただし、確証は無いらしい)。その後三上兵庫頭が二上山城に入るが、余りにも不便な為に、北に道竹城を新たに築いて移っている。廃城の時期は定かではないが、関が原の戦いの頃まで存続したのではないかと見られている。



登り降りと階段で、足も腰もガクガクにされながらも、更に前進。

県道を北上して、もう一度新井の町に入り直す。道竹城をそのままにしておくのも何だったので、近所の人に登り口を聞いて回るが、どうも朝に行って失敗した所が唯一の登り口らしい。結果、道竹城は諦める事にする。



桐山城


本丸から浦富の町並、南東部の郭群、二の丸辺り?




桐山城も山はすぐに判ったのだが、肝心の登り口が判らなかった。山を南からぐるっと回ってみたものの、それらしい場所も無い。
「こういう時は大手口、つまり城下町や屋敷方向を当たって見るものだ」と経験豊富な窪谷さんの指示に従って、浦富の町に入る。狭い道を車幅を気にしながら走り、屋敷らしきものを探してみたのだが、看板すら見つからない。何時の間にか海岸まで出てしまったので、目の前にあった交番横の観光案内所で聞いてみたところ、運良く登り口を教えてもらえる。あの狭い道を右往左往するのも嫌だったので、車を海岸の駐車場に残して徒歩で移動。

登り口はすぐに発見できた。ここには登山用に杖が何本か置かれており、利用させてもらう事にする。マムシ除けにもなるので、かなり重宝する。
北から尾根をぐるっと回りこむ形で登る。所々に郭らしい平坦部があったが、実際に郭かどうかは不明である。
郭は北から南に伸びており、南の斜面には更に数段の郭があるが、下のほうまでは確認できなかった。木は適度に切り払われているので、眺めは良い。

南北朝時代に塩冶高貞が築いたとされているが、詳細は不明。永禄・元亀の時代(1558-73年)頃に、廃城となっていた桐山城を山中鹿之助が砦を築いてしばらくの間住居としていた。
天正8年(1580年)の鳥取城攻めの際に、桐山城に垣屋光成を入れて但馬との繋ぎの城としたが、因幡平定後には垣屋光成を巨濃郡1万石で桐山城に配している。しかし垣屋氏は関が原の戦いで西軍に付いた為に断絶。その頃に廃城となったものと思われる。


それにしても、道竹城といい桐山城といい、町の観光案内には城名が記入されているにもかかわらず、登ろうと思っても看板も案内も無い。それとも城は登るものにはあらずして、下から眺めるだけのものなのか。


国道9号線までもどって、鳥取市街へと西進する。



丸山城


右のコンクリートが登り口の階段



国道9号線を覚寺で降りた時に、左手に見える小山が丸山城である。
少し前までは山頂に弘法寺という寺がが有ったらしいが、現在は廃寺になっているらしく、登り口も雑草が生い茂ってとても登れる状態でなかったので、諦める。


ガソリンを補給した後、国道53号線を南下して、昨日行きそびれた雁金城へと向かう。



雁金城


鳥取城を望む、郭らしき物?



昨日と同様に東側のトンネル手前から入る。道はなだらかで楽ではあるが、遺構は殆ど何も残っていない。城跡の真中には平和記念塔が建っており、眺めだけは良いものの情緒もへったくれも無い。
天正9年(1581年)に吉川経家が鳥取城に篭城した際、出城である丸山城との繋ぎを付ける為に築かれた。しかし鳥取城との間にある天徳寺越えから攻められて落城し、鳥取落城のきっかけになってしまった。


ファミレスっぽい、うどん屋で昼食を摂り、東へと向かう。


天神山城


平坦部、井戸跡、北東の郭群




鳥取県立農業高校があったが、平成15年の3月いっぱいで廃校になってしまったらしい。その廃校の西側の小山が中心であり、三層の天守も建てられていたといわれている。元々は北は現在の湖山神社から南は布施総合運動公園の北端までの広大な城域を誇っていたが、現在城として残っているのは、この小山だけである。
整備が行き届いており、かなり大きな井戸跡もある。出来る事なら立ち木をもう少し切り倒して、土塁や空堀を見れるようにして欲しいものである。

文正元年(1466年)に因幡守護山名勝豊が二上山城からここに本拠を移してから、山名豊国が天正元年(1573年)に鳥取城に本拠を移すまでの100年間、因幡の国の中心として栄えた。しかし天文15年(1541年)に但馬山名氏と争って山名誠通が討ち死にし、天神山城も焼かれてしまうと、有力家臣武田高信の反乱等により因幡一帯は混乱が続く。元亀3年(1572年)に山中鹿之助の援助で武田高信を鳥取城からやっとの事で追い落とし、どうにか因幡の主導権を取り戻した。その際に鳥取城に本拠を移し、天神山城は廃城となった。


湖山池を南からぐるっと回り込む。



丸山城


縦堀、一応郭の段差、登り口


詳細図は、あくまでも参考図(いい加減である)

吉岡温泉の北、六反田にある小山が丸山城である。登り口は西側の中程に、神社へと登る道がある。神社とその裏一帯に城の縄張りがある。小さな豪族の城に良くある、小さいながらもメリハリの利いた造りで、大きな縦堀も何本かあるようである。ただ手入れは悪く、写真を撮っても何が写っているのか良くわからない状態である。
吉岡将監の父、春斎入道の居城で、吉岡氏代々の城といわれている。吉岡氏はこの丸山城から蓑上城、さらに防己尾城へと移り、そこで滅亡している。



防己尾城


二の丸の北東端、本丸と二の丸の間の町屋跡、本丸の石碑




松原から県道190号線を北上する途中にある、湖山池公園が防己尾城である。本丸、二の丸は整備されているが、三の丸は林のままである。

天正6年(1578年)頃に吉岡将監定勝の築城といわれている。天正9年(1581年)の鳥取城攻めの際、吉岡将監父子ならびに舎弟右近らは毛利側に立ち、鳥取城を包囲する秀吉勢の後方を撹乱した。そこで秀吉は防己尾城を攻める事になったが、湖から攻めた先陣の多賀文蔵が待ち伏せを受けて討死し、多賀に預けていた千生瓢箪の馬印を吉岡将監に奪われてしまった。その後、亀井茲矩が陸側から攻めるものの一向に埒があかず、兵糧攻めにして漸く落城した。


県道21号線を南西へ。



鹿野城


本丸、堀、堀



大分、日も落ちかけていたが、強襲する。整備が行き届いて足場はしっかりしているが、比高は150mもあるので結構きつい。

元は志加奴氏の居城であったといわれている。志加奴氏の本姓については明らかではないが、古い国侍で山名氏の武将であったらしい。因幡の西の防御拠点、毛利氏の人質収容所といった役割を経た後に、鳥取攻めで功績の有った亀井茲矩が気多郡1万3千石で鹿野城に入った。関が原後に亀井氏は津和野に転封され、代わりに池田氏が入ったが、元和の一国一城の制で破却された。



丁度日が暮れてしまったので、大急ぎで三朝温泉へと向かう。

午後7時には宿に到着。やたらと狭い駐車場に四苦八苦しながら駐車する。宿は古い旅館で、自分はこの雰囲気が好きなのだが、他の3人の先輩方には受けが悪かった。
遅い夕食を食べた後、鍵湯と河原の露天風呂を回る。それなりにレベルの高い場所を紹介したつもりだったのだが、他3人の先輩方には宿同様に余り受けが良くなかった。
部屋に帰って、昨晩と同じくカルカソンヌを酒を飲みつつプレーした後、寝る前に宿の内湯に入って寝る。

ここから以下のページへいけます。