山陰遠征 その1

平成15年9月20日〜23日





三笠山城(牛尾城)の本郭にて



9月の飛び石4連休で、日本の僻地、山陰を攻めようという御達しが窪谷さんから発せられた。

山陰は不便なところで、新幹線と言う洒落た物などは無論無く、山陰本線と「本線」の大仰しい文字が入った幹線が走っているものの、列車の本数は四国並。道路も極一部で高速道路が走っている以外は国道9号線1本しかない。この裏日本の更に裏、日本国民の半分以上が鳥取県と島根県とどちらが東でどちらが西か、今もってよく分かっていないような辺鄙な山陰地方を、10年前に窪谷さんと薬田さんとが2人して回っている。不便な山陰本線を乗り継ぎ、少ない本数のバスを駆使しての、かなり辛い遠征だったそうだ。

「いつの日か憎っくき山陰に復讐を遂げようと、薬田と二人して胆を嘗めていたのだが。」窪谷さんは言う。
「ここに運良く、君が車を持って神戸に住んでいる。これを天佑と言わずして、何と言おうか?」
…いや、実際にはそんな事はご本人は全く言ってはいないのだが、自分にはそう言っているように聞こえた。これは天佑なのだ。
いい加減に会社を辞めたいと考えている身としては、神戸と言う場所に居るこの機会を逃す術は無い。「是非とも」と即答する。

こうして話は進み、窪谷さんに薬田さん、榊さん、そして自分という、昨年年末の伊那攻めのメンバー4人が、再度揃っての遠征となったのである。



○9月20日(土)

0925に相生着のこだまで西国入りする薬田さんと榊さんを車で迎えに行き、そのまま北上して前日から関西周辺の城を回っている窪谷さんを三日月陣屋付近で1000に回収するという予定の基、逆算して0630には起床し、万全の準備を整えて少し遅れながらも0730には寮を出発する。
何しろ、この一週間前に行われた木崎湖攻めの際に、走行時間の目算を誤った結果、1時間半近くも人を待たせるという失敗を犯したばかりである。同じ失敗を2週続けて繰り返すわけにも行かないと細心の注意を払った筈だったのだが、肝心のこだまの予定到着時刻に相生駅手前5kmの太子バイパス出口付近を走行していた。

自分のルーズさに悔やみながらも、ともかく到着した薬田さんから電話がかかってくるだろうからと、携帯の電源をONにしておくのだが、何の連絡も無い。
慌てて事故しても仕方が無いので焦らないように普通に運転し、駅前に到着したのが予定時刻から15分過ぎ。車を路駐してから大急ぎで駅の改札へと走るのだが、薬田さんも榊さんも見当たらない。
まさか数年前の播磨遠征の時みたいに新幹線が遅れているのではと、確認の為に薬田さんの携帯に電話をしてみるのだがマナーモードで繋がらない。そこで、遅刻してしまったものの取敢えず相生駅には到着した旨を留守録に入れておく。
新幹線の改札は直接には見えず、ダイヤの遅れに関する情報も得られない。いきなり初っ端からこれかいと落胆しながら、一度車に戻ろうとしたとき、ふと腕時計を見てある事に気が付いた。

0845

到着予定時間は0925。…どうやら1時間ほど時間を早く取り違えていたようで、薬田さん達の乗ったこだまが到着するまでにはまだ40分もある。これではいくらなんでも到着できる筈が無い。
1,2分ほどショックで立ち尽くして、ほっとするやら笑うやら。馬鹿な話だが、しかし他人を待たせる方の失敗でなくて、本当に良かったと安心もする。

間に合っている事が分かって安心したので、車を有料駐車場に回して、駅前の縁川商店ヤマザキストアーで立ち読みをして時間をつぶす。駅前のコンビニの筈なのに、何故かファンロードが置いてあったのは、矢張り地方だからなのだろうか。


0925
予定通り、薬田さんと榊さんが到着。
当然に、辻褄の合わない留守電に関して質問され、真相を話したら大笑いされる。

お二人と荷物を載せて相生駅を出発。県道44号線から28号線を北上して三日月に向かう。
0930に相生を出発しても三日月までは30分はかからないだろうと高を括っていたのだが、信号も渋滞も何も無かったにもかかわらず、待ち合わせ時間を5分弱オーバーして「味わいの里三日月」に到着。どうも根っからの時間音痴であるようだ。窪谷さんを拾って、早速に今回の第一目標である長谷高山城へと向かう。




長谷高山城



左:石垣、中:本郭の東端、右:太鼓郭の堀切


※縄張り図はいいかげんなので注意

佐用の町から国道373号線を北上し、中国自動車道と交差する手前の県道を右折して自動車道沿いに東進、トンネルを北へ潜った所に登り口がある。トンネルには獣除けの金網戸が閉められているが、鍵は掛かっていないので開けて入る。
登り口にはトイレと看板がある。道も分かりやすく登りやすい。
初めの分岐を尾根側に折れて尾根筋に上がると太鼓郭跡に出る。そして更に北北東に尾根沿いに登って行くと、10分程で本郭に至る。平坦部は意外と広いが、切れ込みは浅い。南西側の端も東側の端もなだらかで、堀切のような形跡は無かった。

建久2年(1191)に佐用荘の地頭になった山田則景が、隠居した際に築いたとされている。則景の息子家範は赤松村に移り住んで赤松姓を名乗り、それから四代目が赤松則村(円心)となる。しかし高山城そのものは、則景から三代で絶えてしまう。天正5年(1577)に尼子勝久がここに拠った事から、尼ヶ城とも呼ばれている。


雲行きも怪しいので、車に戻って国道373号線を北へ。


竹山城


左:馬場から西の丸、右:太鼓丸から本丸




国道373号線と国道429号線が交わる中町の西にそびえる標高420mの山が竹山城である。頂上のテレビ塔まで車道が通じているので、登るのは易しい。
西の丸と太鼓丸にテレビ塔が建っているが、他の郭は比較的良く残っている。公園として整備されて木も切り払われているので眺めもいい。
新免氏の居城。記録には延文5年(1360)から載っている。
応仁の乱が始まり、美作守護山名政清が上京して留守にしている間に、赤松政則は山名氏の城を攻略して行き、竹山城には一族の宇野入道が入る。明応2年(1493)には新免貞重が竹山城に入城。しかし天文23年(1554)に尼子晴久が美作に侵入した際に尼子氏の武将川副久盛に攻め取られてしまう。弘治3年(1557)に漸く奪回に成功する。それから浦上・宇喜多氏が勢いを持ってくると、新免氏はそちらに寝返る。そして関が原の戦いで宇喜多氏が没落すると、新免宗貫は筑前へ逃れて黒田長政に仕え、それによって竹山城は廃城となった。


西の丸の駐車場から車を出す際に、バックさせて向きを変えようとしたところ、ギアを誤って一速(ロー)に入れてアクセルを勢い良く踏んでしまい、危うく崖からダイビングしそうになった事は秘密である。


昼時になったので、麓にある武蔵の里で昼食。
更に雲行きが怪しくなるので、国道373号線をさっさと北上する。



景石城


左:本郭西の石垣、中:本郭東の石垣、右:南の郭南側の石垣




智頭で国道53号線と合流して尚北上。用瀬の町の西にある町役場の裏手の道を進み、途中から地図に載っていない細い脇道に入って2,300mで登り口と駐車場とが現れる。
途中で井戸経由で本丸へと向かう道との分岐点があるが、今回は往復共に尾根筋に登る道を選択した。徒歩で15分程。
尾根沿いに幾つかの郭が、かなりの段差で続いており、これらを結ぶ登り道には、当時の物と思われる石段が残っている。頂上の平坦部は狭いが、至る所に石垣が顔を覗かせており、郭の周囲が全て石垣で固められていたようである。積み方を見ると、織豊期とそれ以前とのちゃんぽんの様に思われるが、こちとら素人に毛なので確証は出来ない。
頂上からの眺めも良く石垣も多いので、石垣付近の草刈をやってもらえれば客も付くのではないかと思われる。

太平記の延文年間(1356-61)に記述が見える。天正8年(1580)の羽柴秀吉の第一回鳥取城攻めの際に羽柴方の勢力下に置かれ、磯部康氏がこの景石城に入る。幾度か山名豊国に攻められていたが、磯部康氏が留守の際に攻められて落城した。しかし天正9年に再び行われた鳥取城攻めで軍功を挙げた磯辺康氏は、再びこの景石城に入るものの、関が原の戦いで西軍についてしまったために流浪し、後に京都で病死する。
その後若桜城主山崎左馬允の家来がこの城に入るが、元和(1615‐24)の初めに池田光政が因幡・伯耆を領有した際に、端城禁制となって廃城となった。

下り道で、大きなマムシを見つけた。


国道53号線を再び北上。小雨もぱらついてきたので、雨でも攻略が楽である、河原城へと向かう。

河原城(丸山城)


左:全景、右:丸山城縄張図




河原町の南東部に位置する高台の上に、見るも綺麗なコンクリート製天守閣がそびえているのが河原城である。元々、羽柴秀吉が鳥取城攻めの際に陣を置いたとされる丸山城の城跡を削って、その上に観光用として築かれたもので、その為に元の丸山城の面影は全く残っていない。ただ、河原城築城の際に、丸山城の発掘調査だけは行われており、多少の心遣いはあったようである。
歴史的なものは全く無い。


再び国道53号線に戻って北上。鳥取市街へと入る。


鳥取城(麓のみ)


左:修復の進む石垣、右:吉川経家像




いつ本格的な雨が降るとも分からない天候と、比高150m超の山城を2つも落としてきた事による疲労とで、城山には登らずに麓の石垣を見るに留める。
窪谷さんと薬田さんとは、平成4年の山陰遠征以来12年ぶりの鳥取城で、交通手段が鉄道とバスしか無かった当時の苦労を聞きながら、石垣を見て回る。当時と比べて大分修復がなされているようで、南東端では現在も石垣の修復作業が続けられていた。
堀の南端付近には、開城の際に切腹した吉川経家の銅像が建てられている。これは尼子氏・山中鹿介贔屓の因幡・伯耆では珍しい事である。


午後4時半を回って空も暗くなり、雨脚も強くなる中、ともかく一つでも落とすべしと、鳥取城の北西に連なる雁金城を攻めに行くも、とても城攻め出来る状態でない程までに雨脚が強くなり、結局本日は鳥取城までで撃止めとなる。


国道9号線バイパスに入り、本日の宿泊地である岩井温泉へと向かう。
午後6時前には宿に到着。チェックインを済ませて部屋に入り、温泉でさっぱりと汗を流して夕食。安い割に凝ったメニューで良かったが、個人的には田舎臭くて地方色の濃いメニューの方が嬉しかった。
飯の後、温泉街にある共同浴場へ行って湯かむりをしようと思ったものの雨が激しく、また翌日からの作戦行動もあるので、諦める。
持っていったカルカソンヌを広げ、酒を飲みながら2回ほどプレイして、簡単な作戦会議を開いてから午後11時過ぎには就寝する。

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