山陰遠征 その3

平成15年9月20日〜23日



○9月22日(月)

朝食前に1城という事で、三朝温泉を抜けて倉吉市まで出向く。オムロンの倉吉工場のすぐ東北の小山が田内城である。工場の警備室に車を停めさせてもらっても良いかと尋ねたら、いいですよと気軽に許可してもらえた。不審者と間違われないように一声掛けた方が良い。

田内城


本丸の偽天守、北側へと下る道と郭群、オムロンの工場と倉吉市街




初めの看板にある登り口は本来の登り道でない上に辛く、足場も悪い。北西側にある墓地まで回りこんで登った方が、郭群等も見れて良い。
比高30m程にある本丸には、ありがちな偽天守が建てられている上に、ブランコや滑り台というものまで置かれている。崖も急峻なこんな場所を遊園地化したら、危なくてしょうがないのではと思うがどうなのか。
興国年間(1340年〜1346年)頃に、山名時氏が伯耆支配の拠点として築城し、嫡男の師義を配した。しかし延文年間(1356年〜61年)にはすぐ南の打吹山に移した為に、廃城となった。


宿に帰ってから飯。ごく普通の宿の朝食。まあそれほど高くも無いので、こんなものか。


再度倉吉市に入って、打吹城へと入る。


打吹城


本丸の石碑の脇にて、本丸北東部の石垣、本丸北東部の土橋



歴史民族資料館の駐車場に車を停めて登る。比高は150m強もあって、3日目の疲れた体には辛い。城というよりもただの山で、所々に遺構らしきものが見え隠れしているのだが、荒れるがまま打ち捨てられているような状況で見晴らしも悪く、苦労して登った割には感動の無い所だった。
山名師義が田内城からここ打吹城に本拠を移してからは山名氏の伯耆支配の拠点となっていたが、応仁の乱後には伯耆での山名氏の支配力も弱まり、更には大永4年(1524年)5月に尼子経久が伯耆に乱入すると、この打吹城を含めて米子城や岩倉城、羽衣石城といった諸城が落城した。これを大永の五月崩れという。尼子氏の後には毛利氏の、毛利氏の後には織田氏・豊臣氏の勢力範囲となり、関が原の戦いの後には中村氏の支配を経て、幕府の直轄領となり、元和の一国一城令で廃城となった。


県道38号線を南下し、岩倉へ。


岩倉城


二の郭、一の郭と二の郭の間の郭群、雑木に埋もれた登り口の看板を捜索中




風邪で体調を崩してしまい、岩倉城に登ろうかどうか迷ったが、こんな辺鄙な場所に来る事も、もう余り無いだろうと意を決して登る。辛かったが、それに負けない良い遺構を拝ませてもらった。
「お城の旅日記」を参照に梨園を探したのだが、現在では全て切り倒されており、山肌に点在する切り株が元の梨園であるということに気がつくまでに5分、更に雑木に覆われた登り口の看板を見つけるまでに更に15分もかかる。
比高は150mあるが、道はなだらかで登りやすい。逆に守りにくいのではと心配になる。山頂の遺構も丁寧に手入れされており、眺めも良い。打吹城に登るくらいなら、タクシーを拾ってでもここを登った方が断然に良い。
平安末期に築城されて以来、小鴨氏の累代の城であった。大永の五月崩れで尼子氏に奪われるが、尼子氏滅亡の後に毛利氏の援助によって回復。その後も何度か攻められ、落城を繰り返すが、小鴨氏が関が原の戦いで西軍に属して滅亡した後に廃城となった。

県道をうねうねと北西へと進み、「名探偵コナン」の町である大栄町をわき目に見ながら、道の駅大栄の西にある御台場公園を目指す。


由良台場


全景、分厚い胸墻、両脇は段差が高い




公園の敷地内に芝生で覆われた土塁のような物が有り、それがアスレチックランドになっていたので冷っとしたが、公園の一番西の端に手付かずのまま、綺麗に芝生を植えられた台場跡を見つけてほっとする。ただ、車を置いた駐車場からここまで500m近くあり、せっかちな性格の為に余計な苦労をする。
とにかく大きい、綺麗、わんだふぉーに尽きる。コペンハーゲンみたいに、この場所に復元した大砲を配列して欲しいものである。
文久3年(1863年)に築かれた台場の一つで、最初に構築された。備砲は36kg、15kg、18kg(弾の重量)、それに口径15cmの4門だった。



槻下豪族館跡



堀、堀(コーナー部)、遠景



大系にも載っていないマイナーな館跡。窪谷さんが教育委員会の発掘調査か何かが行われているという情報をWebで発見し、発掘調査を行っているなら見に行くと余計な藪や雑木が切り払われて見ごたえがあるだろう、という憶測の元に急遽追加される。
しかし、細かい場所が判らない。とりあえず槻下の集落まで行ってみたものの、皆目場所の見当が付かない。15分程回ってみたが、発掘現場にありがちなブルーシートも見当たらず。仕方が無いので近くの人を捕まえて聞いてみたところ、何とか判明する。発掘調査はまだのようで、向こうが見えない程の深い竹薮に埋もれていた。
しかし、遺構の状態は良く、東西2つの方形の土塁と堀とがハッキリと残っており、北側にも堀と土塁が幾分か連なっていた。ただ、薮蚊の大群に付き纏われた為に落ち着いてみる事も出来ず、5分もしない内に嫌になって撤退する。車に戻って確認してみると、10数箇所も噛まれていた。行くのなら、蚊のいない季節が良いだろう。
鎌倉時代の武家屋敷の跡。看板には歴史的なことはそれしか書かれていなかったので、これで勘弁を。



午後12時を回って腹も空いてきたので、昼食の摂れそうな店を探しながら国道9号線を西進する。夏の初めに国道9号線を逆走して鳥取に向かった際には碌な店が見つからずに苦労したのだが、ここではあっさりと良さそうな店を発見する。
東伯町か農協かの直営店で、焼肉屋と普通のレストラン、それに名産品の販売店が一緒になっている。一応連休の中休みの平日なので、昼のランチが安い。窪谷さんと薬田さんは焼肉屋のランチを、自分と榊さんとはレストランのカレーセットを希望するが、店が違う。しかし店員さんが気を利かせて、焼肉屋でカレーセットも食べられるように手配してくれた。
680円のカレーセットに付いていた東伯牛のメンチカツは、揚げ立てでアツアツ、衣はカラッと揚がりつつも、箸で切り分けると肉汁が次から次へと溢れ出してくる。こんなに美味しいメンチカツを食べたのは本当に久しぶりだ、というくらいに出来の良いメンチカツが食べられて大満足…の筈だったのだが。
向かい側に座った窪谷さん・薬田さんコンビの1080円の焼肉定食は、東伯牛の霜降り高級ロース、高級カルビ、上タン、上ハラミ、そして地鶏が2切れづつ入った、スペシャルゴージャスなメニューだった。特に霜降り高級ロースのその脂の載り具合といい、軟らかさといい、どう考えても1000円ちょっとのランチに出て来るような肉質では無いのだが、それに加えて同じく軟らかい上質の上カルビに上タン…思い出すだけで腹の立つくらい、美味しそうな肉がてんこ盛り。…ぁぁ、どうして400円ぽっちをケチって、この好機を逃してしまったのか。頭の中にカレーが食べたいという邪念が混じっていた事も確かだし、これまでに幾度と無く食して来た焼肉屋での苦い経験が邪魔したのもある。しかし…、しかし…、見本に盛られた肉の種類と量、そしてそもそもこの店の東伯牛の宣伝用アンテナ店という出店目的とを考慮すれば、自ずと焼肉定食以外に選択肢等無かったのは明白だった筈なのに…余程疲労と空腹とで思考力が低下していたとしか思えない。とにかく、いつの日にか平日に有給休暇を取ってここに取って返し、この焼肉定食に挑まなければならないことだけは確かである。
悔しかったので、隣の物産販売店で地ビールを人数分だけ購入してから店を出る。


国道9号線を更に西進。県道への入り口を見逃して往生するが、何とか石井垣城へと到着。


石井垣城


神社にある分厚い土塁?、藪の中の土塁、空堀があの辺り




南側の一角が、春日神社となっている。遺構そのものはかなり広い範囲を占めているのだが、神社になっている部分以外は藪と雑木に埋もれ、とてもではないが見て歩ける状態にはなっていない。藪を刈って木を切って芝生を植えて公園にすれば、それなりに人が呼べるのではと思うのだが、過疎地の一町村にそんな事を期待するのも酷な話でもある。
箆津敦忠以来の累代の城。正慶2年(1333年)に名和長年らの後醍醐天皇軍に攻められた事があると古い記録にあるらしい。


更に国道9号線を西進し富長城を目指すが、道が狭くてややこしく、地元の人に道を聞いたりしながら、漸くたどり着く。


富長城


東側の深い堀切、土塁、神社の正面




富長神社になっている。東側には深い堀切、また北側を除く三方には土塁が残っているが、その他は殆ど何も残っていない。北側の藪を刈ってくれたら眺めも良いのだろうと思うのだが。また、この付近は道が狭く、車を置くスペースが余り無いので注意を。
元弘年間(1331〜34年)に名和氏に協力した荒松氏が築いたとされている。



淀江台場


正面、胸墻跡、看板




東側(海側)に駐車場があるのでそちらに回ると良い(もちろん我々は知らずに裏に無断駐車)。公園になっており、トイレもある。
元々は由良台場と同様な台場だったのだが、小学校を建築する際に両翼の土塁と砲車を上げる為のスロープ部分を削り取ってしまった為、現在ではただの大き目の土塁になっている。そのまま小学校の壁に利用しておけば…等と残念に思うが、まあ狭い漁村でそんな事も言ってはいられないだろう。
由良台場と同様に、幕末に築かれた台場の一つであり、備砲は18斤砲、5インチ砲が各1門づつである。


米子市に入り、県道53号線を南に向かうが、ここも場所が判らずにうろうろする。


尾高城


変な看板、中の丸の西の堀から本丸を望む、南大首郭




現在は米子勤労総合福祉センターになっている。中の丸、南大首郭は整備されているが、本丸と二の丸は森林で、藪が深くて寄せる事も出来なかった。変な看板を建てる暇が有ったら、本丸を手入れして欲しいものである。ちなみに大系の絵地図は方位が間違っており、正確には北は右側になっているで(おかげで事前の位置同定が出来なかった)。
発掘された出土物から、13世紀頃には既にあったとみられる。戦国時代には行松氏が拠っていたが、大永の五月崩れで尼子方の手に落ち、永禄5年(1562年)に毛利氏の援助で回復するまで、尼子方の手に有った。しかしその2年後には行松正盛が病死した為に毛利氏は杉原盛重を尾高城に配す。その後、天正11年(1583年)に内紛で杉原氏が滅亡した後は、吉川元春が居城。関が原の戦いの後には中村一忠が入城。吉川広家が築城途中だった米子城が完成すると米子城に移り、その際に廃城された。


窪谷さんと薬田さんが10年前に山陰遠征を行った際、時間の都合で松江城の天守閣には入れなかった。窪谷さんは出張の折に天守閣に入ったものの薬田さんは未だ登城出来ておらず、「是非とも松江城だけは…」との強っての希望で松江城へと向かう事になる。
しかし松江城の夏の開館時間は1830までで、入館締め切りは1800。尾高城から松江市街までは30kmも離れており、平日の市街地は渋滞が予想され、2時間以上はかかる。尾高城を落とした時点で午後4時を回った所であり、当にギリギリの時間である。
今回、山陰は初めての榊さんと自分は、別にそれほど松江城に入れ込んでいる訳でもなく、至って冷静。窪谷さんは登城済み。よって最後の1城までの道のりは、薬田さんだけが気を揉むドライブとなった。

ともかく、国道9号線の有料バイパスを走って松江市街へと突っ込み、県道21号線から国道485号線を北上。それなりの渋滞はあったものの、午後5時半過ぎには松江城へと着く事が出来、薬田さんの念願も、ここに漸く適ったのだった。


松江城


天守、天守内、本丸の表門




夏時間と言えども、秋の初め。午後6時前というと日も大分落ちて来ており、大急ぎで見て回る。城域は広いのだが、半分も見る事が出来ないうちに時間切れとなる。
城は、近代城郭の比較的良く残っている方だが、いかんせん、暗いのと時間が無いのとでゆっくり出来なかった。
関が原の戦いの勲功で出雲・隠岐24万石を得た堀尾吉晴が、富田城に代わる本拠として、慶応16年(1611年)に完成させる。以上。


渋滞する市街地を抜け、県道53号線を南下。今晩の宿泊地である熊野温泉へと向かう。
午後7時過ぎに到着、食堂で遅い夕食を戴く。温泉に入った後で、昼間に買っておいた地ビールで乾杯。この日はカルカソンヌはやらず。
夜、雨が降っていた。



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