父島 その2

平成17年5月1日〜7日


地下陣地に残る砲





○5月6日

折角の南の島なので、0200頃に一度起きて、外へ星を見に行く。
雲が多少あったものの、切れ間から綺麗な星空を拝むことができた。しかし寒さに負けて、30分もしない内に退散してしまう。

0430に起床。朝食前に中央山付近を探索する。



中央山付近の陣地跡


左:中央山の電探の基礎、右:中央山の展望台



左:見晴台付近のトンネル内部、右:トロッコレール




中央山とその直ぐ北にある見晴台の周辺は、遊歩道や展望台が整備されていて散策しやすい。
中央山の頂上には電探と思われる基礎が残っている。また頂上の東側の平面には、藪に埋もれつつも兵舎と水槽の残骸が残っている。また山頂から少し下がった辺りには無数のトンネルや、トンネルの掘削作業に使ったトロッコレールが残っている。この付近には無数の地下陣地が作られ、中にはトロッコレールの敷かれた地下壕もあるらしいが、崩落の危険があるので内部には入らない方が良いだろう。




旭山付近の遺構


左:地下式発電所、右:発電機関連の機器の残骸



左:電信山遊歩道入り口付近の謎の石垣、右:鉄塔の残骸




旭山付近の車道脇にも幾つかの遺構が残っている。
展望台の近くの壕には、発電所の跡がある。発電機そのものは無いが、付属品や変圧器の残骸などが残っている。また付近には鉄塔の残骸が2本ある。
電信山遊歩道の入り口には、謎の石垣がある。何かの施設跡かと思われるが詳細不明。電信山山頂付近にも砲台跡があるらしいが、見つけることが出来なかった。




一度宿に戻って朝食。昨日と同じくスーパーで買った食材を食べる。支部長は生麺式のバジリコスパゲティをポットのお湯で温めて生卵の黄身を載せて即席カルボナーラを作って、無理やり食べていた。電子調理器と鍋くらい置いておいてくれてもいいんじゃないかと思うが。






左:残り物で作る即席カルボナーラ、右:父島の戦没者慰霊碑


0830、板長の戦跡ツアー(半日)に参加。
慰霊碑で墓参りを済ませた後、旭山の発電所跡と夜明山一帯の陣地跡とを3時間ほどでまわる。1日かかるところを半日でまわったのでかなり忙しく地図を作る暇も無かったが、おかげでかなりの物を見ることができた。
板長さんは30年以上も小笠原の戦跡を探索し続けている方で、色々な話をうかがうことができた。88式7cm高射砲が見つかった時は新品同様だった話や、飛行場近くの壕内に飛行機が残っていた話は驚きだった。飛行機は今はもう影も形も無いが写真が残っているそうなので、また行く機会があったら見せて貰いたいものである。




発電所


左:入り口、耐弾仕様で分厚い、右:発電所外見



左:内部、右:発電機の台座


国立天文台の電波望遠鏡の北側に発電所跡がある。耐弾仕様でかなり頑丈に造られているが、艦砲射撃や爆撃には持たなかったので後に地下陣地へ移設された。戦後の一時期に使用されていた事もあったが、現在は荒れている。




夜明山陣地


左:海軍通信所跡、右:壕内のトロッコレール



左:トンネル掘削用のマグネシウム?、右:地下壕の出入口に造られた銃眼(内側から)



左:露天式のカノン砲座、右:10年式12cm高角砲?



左:観測所、右:塹壕



左:件の88式7cm野戦高射砲、手前は運搬用の車輪、右:10年式12cm高角砲



左:41式山砲、右:通信所壕内、広い





夜明山一帯に、無数の露天・地下陣地が広がっている。元々は露天に築かれていたが、栗林中将の指令によって昭和19年末から全ての陣地が地下へと移設させられた。その為に地上と地下とに二重の陣地がある。前出の発電所や、道路脇の海軍通信所も地下に移設されている。
あわただしく移動した為に、どこに何があってどう歩いたか、さっぱりである。東京都立中央図書館に入っている小笠原村戦跡調査報告書に夜明山陣地の詳細で正確な図面が入っているので、それを参考にしていただきたい。
件の88式7cm野戦高射砲はすっかり錆びていた。発見当時は砲眼もカモフラージュされ、砲はキャンバス地で包まれ、全体にグリースが塗られ、尚且つ近くには実弾が2発程置かれていたらしい。発見後半年で尾栓は抜かれて実弾は持っていかれ、カモフラージュやキャンバス地は取られてグリースも拭われ、あっという間に錆びてしまったそうである。村や船舶振興会などに保存の働きかけをしたものの取り合ってもらえず、今のこの惨状になってしまったらしい。せめてこの1門だけでも自衛隊の武器学校へ保管してもらえていたら、その雄姿を拝めたかもしれないと思うと、何とも勿体無い話である。


とにかく広い。地下壕も縦横無尽なので、ガイド無しの単独探索は大変に危険である。またあちこちに食器や器具が散乱しているが、年々勝手に持ち出されて数が減っていってしまっているらしい。ここは大変に貴重な遺産である。モラルを持って行動して欲しい。





昼飯を食べる時間が殆ど無いので、板長お勧めの店で弁当を購入し、宿で食べる。かなり美味い。





左:父島最後の昼飯(890円)、美味かった、右:乗り込み



左:島総出の見送り、右:夕食のカレー


そして遂に…といっても実質丸4日しか居なかったが、小笠原を離れる時が来てしまった。
来たときよりも多い乗客が順々に乗船してゆく。港では島総出で見送ってくれる。

1400出港。島を離れるまで、漁船からレジャーボートからカヤックまで、小笠原丸の脇を並走してゆく。自分と支部長は早々に船室に降りてしまったが、隊長によると30分くらいは粘っていたそうだ。


1830に夕飯。資金が枯渇してしまった為に、比較的安いカレー(それでも700円)にする。
映画をみたりしながらうだうだして、10時くらいに就寝。





○5月7日

来るときよりも狭い事もあってか、2度くらい起きる。

朝食は、食堂に食いに行く金も無くなってしまったので、出発前にどうにか茹でて貰った卵2個と非常用に持って来たカロリーメイトを食べる。貧乏は悲しい。
映画を見たり、寝たり、駄弁ったりしながら時間を過ごす。

1510、竹島桟橋に接岸。
長かった旅もようやく終わった。


支部長と別れて、隊長と隊長宅へ向かう。翌日に防衛庁資料室で調べ物があるので一泊させて貰う。12時頃就寝。



翌日は平日で、出社する隊長と一緒に出て、時間調整をしつつ恵比寿へ向かう。1日資料室に篭り、時間調整をしつつ東京駅に向かい、夜行バスで広島へ戻る。何とも締まりの悪い終わり方だった。





総括

大変に楽しかった。島そのものも良かったし、戦跡も良かった。
ただ、金と時間とがかかりすぎる。往復と宿泊費で10万円以上かかり、普段だと1週間に1便、GWや年末で2便しかないのは、一般人には行きづらい。自分は無職なので時間は有り余っていたが、金が無いのでどうにもならない。
何度か行ってみたいのだが、戦跡調査の手伝いとか、そういう話は転がっていないだろうか。




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