父島

平成17年5月1日〜7日


二見湾、境浦の沈没船と夕日



三宮のジュンク堂で、待島亮著の「小笠原戦跡一覧」を立ち読みしたとき、大きなショックを受けた。多くの地下陣地と各種の銃砲が今も父島と母島に眠っているのである。それまでにも明治期や昭和期の要塞や陣地跡をまわっていたが、特に地下式の陣地はお目にかかれなかった。
行きたいと思ったが、しかし同時に小笠原諸島の交通の不便さも良く知っていた。何しろ週に1回だけの船便しかないのである。また現地に行ったところで、南方のジャングルに近い山の中に入るのも危険である。駄目か、と半ば諦めていた。


それから2年ほどして、隊長から「GWに小笠原諸島に行かないか」と誘われた。支部長と3人だ。隊長と支部長は自分のような軍事オタクではないので引きずりまわす訳には行かないが、しかし下見として一度行っておくのも良いのかも知れないと思い快諾した。仕事を辞めて1年近くが過ぎ、株取引の失敗などもあって貯金残高は殆どゼロに近かったが、しかし下手をするともう二度と行けないのかも知れない。

準備を進めていくにしたがって、島内での観光ツアーの中に戦跡巡りというものがある事が判った。これだ。さすがに1日のツアーは無理にしても、半日のツアーくらいなら大丈夫だろう。ああ、これは何としても行かなければならない。

ところが、余りに直前に小笠原行きを決めてしまったため、まず船のチケットが取れなかった。ゴールデンウィーク、増便があるにしても東京から観光客が大挙して訪れる時期である。しかしそこは行動力の隊長。支部長と協力してあらゆる手段を行使して、そして運良くキャンセルが発生したおかげもあって、3人とも行くことが可能になった。
次に宿である。これも厳しかったが、無職の特権を活かして父島と母島内の殆どの宿に電話をかけまくり、どうにか母島1泊、父島2泊、計3泊分の宿を取ることに成功。
こうして何とか無事に小笠原諸島へと向かうことが可能になったのだった。




○5月1日

無職で金が無い。飛行機どころか新幹線も却下で、残るは地獄の深夜バス。広島駅に着いた頃になって、シュノーケリング用のコンタクトレンズを持ってくるのを忘れてしまった事に気がつく。もうどうにもならない。
2000発の東京駅行。横のオヤジがウルサイ上に、酒臭と口臭がすざまじい。濡れタオルでもかぶしてやりたくなる。余り眠れないままに東京に着いた。



○5月2日

0730に東京駅着。山崎で事故渋滞があったものの、何とか辿り着く。浜松町に移動して、駅前のコーヒーショップで朝食。それにしても東京に来ることが余り無かったのだが、知らない間に地下鉄で大門駅なんていうのが出来ていた。そうこうしている内に雨が降ってきた。旅の行く末が心配になる。




左:搭乗、長い列が、右:2等船室の様子


0900、竹島桟橋に集合。30分頃から搭乗が始まる。座席…というか寝床は後部側、一人当り200cm×50cm程の面積しかない。初めは広い場所のど真ん中だったが、別の団体さんと交渉して、出入り口付近の通路脇に換えてもらう。1000には出港。
東京湾を出るまで、デッキにあがって景色を楽しむ。天気こそ悪かったが、レインボーブリッジや第二海保、横須賀沿岸を見れた。12時前に食堂へ。奮発して特製塩ステーキ980円(ご飯、味噌汁は別)を食べる。乗船実習の時に食べたステーキを思い出す。



左:陸地はもう見えない、右:ビュッフェ式レストラン



左:塩ステーキ、右:塩ラーメン


室内では映画の上映等をしているのでそれを観たり、寝たりしながら時間を潰す。1800になったので早々に食堂で夕食。今度は塩ラーメン680円。
酒飲んだり、駄弁ったり、また甲板に出て外を眺めたりして時間を潰す。晴れていれば満天の星を眺められたのだろうが、生憎の曇天。10時くらいには就寝する。




○5月3日

0700に朝飯。ビュッフェスタイルで、色々と取っていたら1000円を越してしまう。




左:父島に接岸、右:亀定食(煮付、刺身、唐揚、結構臭い)

1130に父島に入港する。
我々はそのまま1330発の便で母島に行くので、2時間程時間が余ってしまった。近くの食堂で海亀定食を食べた後、付近を散策。自分は港の直ぐ傍が大神山陣地ということを知っているので、隊長達に荷物を預けて一人カメラを片手に大神山に入る。





大神山陣地


左:展望台にある洞窟砲台、右:左の内部、遊歩道のトンネルになっている



左:頂上付近のトーチカ、右:麓の南東側にある洞窟陣地内部





現在は大神山公園として整備されている。戦跡一覧にあった平射砲陣地は見つけられなかったが、山上の遊歩道沿いに幾つかの遺構を見つけることが出来た。ただ多くは危険の無いように手が入れられており、まともに入れるのは遊歩道のトンネルに改造されている展望台の洞窟砲台くらいである。恐らく野砲か何かが置かれていたと思われるが詳細は不明。
また山裾にも幾つか洞窟陣地が掘られている。その1つはかなり大きく、車が余裕で入る大きさである。入り口は鉄格子がつけられており、中には双胴式のヨットが収められていた。




1330に母島丸出港。500tの小船だったが、海はそれほど荒れておらず酔うことは無かった。途中で鯨が泳いでいるのを見つけたが、突然だったので撮影は出来なかった。




母島へ




○5月4日

再び父島。1600頃に到着。

まずは宿にチェックイン。安宿なので4人1部屋の相部屋だ。
荷物を整理して買い物を終えた後、三日月山の展望台へと向かう。





大村第二砲台


左:油脂庫、右:砲座間にある観測所



左:砲座、右:弾薬庫





船見山の展望台へと向かう道の途中にある。砲座2基の内の1基と、観測所、弾薬庫等の施設跡が残っている。遊歩道や看板が設置されているのだが、肝心の砲座が藪の中というのは何とかならないのだろうか。戦跡一覧では近くに地下式砲座もあると書かれているが場所はわからなかった。

海軍からの要望により大正9年(1920年)8月、父島に築城部を開設し、大正10年7月から大村第1〜第4までの砲台の工事が始まったが、ワシントン軍縮会議によって大正11年2月に工事中止となる。しかし軍縮会議の失効後、太平洋戦争に備えてそれぞれ工事が再開され、第2砲台は昭和15年(1937年)8月に45式15cmカノン砲2基が配備された。






左:三日月山の展望台、右:沈む夕日


三日月山の展望台から、太平洋に沈む夕日を眺める。雲が多く水平線に沈むところは見れなかったが、本土に居ては見れない景色は素晴らしかった。




左:船見山から町を見下ろす、右:焼肉


日も暮れたので、町に下りて夕食。
島の物を食べようと店を探していたのだが、何故か焼肉屋に入っていた。座席で野良猫が寝ていた。

23時前に就寝。





○5月5日

0700頃起床。スーパーで買ってきたアメリカンな豆の缶詰と食パン、牛乳で朝食。目玉焼きにしようと思って買ってきた卵は、調理器具が無かった為に茹でることすら出来なかった。



今日はシーカヤックの1日ツアー。迎えにきたワゴンに乗ってコペペ海岸へ。小港で一通りの操船を教えてもらい、ジョンビーチとジニービーチへと向かう。




左:移動中、右:ジョンビーチにて休憩中



昼飯の弁当、無駄が無いメニュー


かなり面白かった。残念ながらコンタクトを忘れてしまったので潜っても余り面白くなかったが、快晴の天気の下で一日体を動かしてシーカヤックを漕いで、シュノーケリングして、山に登って、美味しい昼飯を食べて、南の島を十二分に実感できた。ただジニービーチへ上陸する際に、失敗して海に落ちてずぶ濡れになってしまったのは恥ずかしかった。
1600に解散。



宿に戻り、近所でレンタルバイクを借りようとしたらGW中ということもあってどこも在庫が無くて借りられなかった。これでは何も出来ないので、案内所まで行ってレンタカーの空いている所を紹介してもらい、ようやくレンタカーを借りることが出来た。
それに乗って、境浦へ夕日を見に行く。





左:境浦からの夕日、右:扇浦からの夕日

境浦の沈没船付近で撮影スポットを探す。一通り撮った後で、更に扇浦まで南下して、そこで水平線に沈み行く夕日を撮影する。今日は水平線にガスも無く、水平線の上の夕日を撮影することが出来た。ただカメラの性能が悪いので、余りきれいには撮れなかったのが残念である。
ついでに扇浦付近の遺構も探索。




扇浦付近のトーチカ等


左:道路の南側にあるトーチカ、右:浜の東側にある銃眼



左:浜の東側にあるエンジンの残骸、右:何らかの機械の残骸


島内の浜という浜の周辺には、どこかしらトーチカや砲眼が造られているが、ここもご多分に漏れずにあった。詳細は不明。
また浜には戦車か大発か何かの、エンジンと動力周りの部品らしき物の残骸が転がっている。



一度宿に戻って、昼間のインストラクターの方に紹介してもらった、おでんのふくちゃんという居酒屋で夕食。やっと島らしい物を食べた。
2000頃帰り、昼間の疲れや酔いもあってか、すぐに就寝。



父島その2




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