母島

平成17年5月1日〜7日


鮫崎海面砲台付近



○5月3日

1600頃に母島に入港。迎えに来ていた宿のおばちゃんに連れられて移動、チェックイン。荷物を置いた後に早々にレンタカーを借りて島内探索へ出発する。



まずは母島の最北端の北港を目指す。道は人口密度を考えるとかなりしっかりしたものがついている。途中で雨が酷くなって来た。



左:北港、右:倉庫跡


今でこそ人は誰も住んでいないが、北港は漁業で栄えていて、戦前には何百人も住んでいたそうである。倉庫跡や小学校跡が残っている。


東港もついでに見た後、六指地蔵付近の砲台と探照灯格納庫へと向かう。





六指地蔵付近の防空砲台


左:10年式12cm高角砲その1、右:同左を引いて撮影、円形窪地内にある



左:12cm高角砲その1を前から、右:高角砲その2





六指地蔵の近くに防空砲台があり、2門の高角砲が残っている(他に1門砲架だけ残っているらしい)。道路脇に判りやすい看板が設置され、陣地跡へは遊歩道が整備されている。
雨で光量が殆ど足りず、また雨で足元が泥濘状態になっていたので簡単にしか探索できなかった。3門の高角砲は直径5m程の円形窪地内に配置され、連絡路と思われる溝や、兵舎跡と思われる平坦地が付近に残っている。

海軍の特別根拠地隊第309設営隊が設置した高角砲6門の内の3門が六指地蔵付近に配置された。他に北港・赤石浜に1門、北村・衣館に2門が配置されている。




六指地蔵付近の探照灯格納庫


左:探照灯(96式150cm探照灯?)、右:同左下部



左:発電車、右:壕の入り口


六指地蔵の南側に、探照灯格納庫への入り口がある。格納庫の中には探照灯と発電機を載せた貨車の残骸が残っている。探照灯は96式150cm探照灯かと思われるが詳細不明。壕の外までレールを敷いて引き出せるようにしてあったのだが、現在は壕の入り口に土が溜まってしまい、レールがどのように敷かれていたかは不明である。





島の中央部に戻る。
その内に雨が上がる。


晴れてきたので眺めの良い所に行こうと、機銃砲台もあった小剣先山を目指すのだが、場所が判らない。玉川ダムの辺りまで行ってみたものの結局見つからず、といって日没も間近になってきたので適当な場所で車を止めて景色を眺めて終わりにした(後で調べたら、小剣先山は歩いてしか行けなかった)。




左:夕食、シンプルだが量はある、右:夜の港


民宿に戻って夕食。他の泊まり客数人と一緒の食事である。自己紹介から始まって観光情報の交換、また民宿のおばちゃんから母島に関する色々な話等を聞くなどしていたら、2時間近くがあっという間に経ってしまう。
部屋に帰ってからもしばらく駄弁って、それから就寝。





○5月4日



朝飯


0700朝飯。本日は南崎付近を散策し、後は出港するまで港付近を探索することにした。


まずはレンタカーで行ける限り南下し、そこから先は徒歩で南崎の小富士を目指す。徒歩で30分くらい。



左:小富士からの景色、手前鰹鳥島、奥平島、右:小富士を南崎の浜から望む



雨上がりで足場は滑りやすかったが、何とか到着。最後に鉄梯子を登るので注意。小富士頂上からの見晴らしは最高である。もう少し晴れてくれれば更に良かったのだが。




南崎付近の銃座と海面砲台


左:小富士頂上に残る円形窪地、右:内部の残骸



左:小富士直下にある平射砲台の地下壕奥、右:同左の手前




小富士の頂上部には見張り所もしくは銃座とおぼしき円形窪地が3ヵ所程と地下壕がある。円形窪地の1つには、銃架か何かと思われる部品の残骸が転がっていた。北側の少し下がった辺りに地下壕への入り口があったが、中には入れず。
小富士の直下には海面砲台の地下壕がある。前述の鉄梯子のすぐ東脇に下りる道がかろうじてあり、壕の入り口へと続く。ただ雨上がりだった為か内部は水浸しで入れなかった。海軍の安式15cm砲が2門残っているらしいが、当然に確認できなかった。長靴があれば…



車で北に移動。南京浜へ。





南京浜付近の陣地


左:展望台から南京浜を望む、断崖には銃眼が覗く、右:遊歩道脇の地下壕入り口と塹壕



左:遊歩道脇の塹壕、右:展望台




南京浜から西側へ遊歩道が伸びているが、この遊歩道沿いには塹壕らしき溝と地下壕への入り口らしき穴が何ヶ所か残っている。
また御幸之浜の展望台の下側の断崖にも銃眼があり、地下陣地への入り口を探してみたが見つからなかった。

詳細は不明である。




一度民宿に戻って荷物を整理し、出港までの時間を港の周りの探索で過ごす。港の傍の観光案内所で、静沢周辺の砲台跡の案内図を発見したので、一通りまわってみることにする。




沖港防備衛所


左:何かの施設跡、右:兵舎跡



左:タンク跡、右:建物の基礎




沖港防備衛所は海軍の施設で、潜水艦探知の為に建設された。現在はコンクリート製の基礎や建物の残骸がジャングルの中に残っている。ぐるりと一周できる遊歩道が設けてあるので藪漕ぎの心配は無いものの、藪に飲み込まれている遺構が多数存在して写真撮影は辛い。




鮫崎海面砲台


左:砲眼へと続く道、右:南側の15cm砲、錆びて朽ちつつある



左:内部、右:腐らずに残っている木製品


沖港防備衛所の南西端から、鮫崎海面砲台へと続く道があるのだが、現在は立ち入り禁止になっている。といってここまで来て帰る訳にもいかないので、自己責任で突入。砲眼までの道は絶壁上の細道で一歩間違えれば崖下に落ちてしまうので注意が必要。
2門の安式15cm砲と側防用の野砲らしき砲の3ヶ所の砲眼室と、それを結ぶ通路で構成されている。本来の出入口は落盤で塞がっている他、野砲らしき砲の部屋は水浸しで入れない。また懐中電灯は必須である。いつ落盤して埋まってしまうかもしれないので、あくまでも自己責任で。

海軍の設営隊日誌によると、昭和20年の初め頃に母島砲台にあった4門の安式15cm砲の内、2門をここに移したとある。




母島砲台(機銃防空砲台)


左:弾薬庫、右:弾薬庫の内部



左:砲座脇の弾薬庫、右:25mm連装機銃の銃架


沖港防備衛所の北の尾根上に、海軍の母島砲台がある。
安式15cm砲4門を露天砲座に配置したもので、2門ペアで配置されている。現在は砲座らしき平坦地が2ヶ所と、砲側弾薬庫が2ヶ所、弾薬庫、他に行っていないが門柱が残っている。弾薬庫の内部には25mm機銃の弾薬箱が散乱している。昭和16年6月から工事が始まり、昭和17年3月に備砲が完了したとある。
15cm砲が鮫崎と南崎へ移動させられた後は機銃砲台となったらしく、砲座周辺に幾つかの銃座が造られている。25mm連装機銃の銃架2基と射撃式装置の架台らしきもの1基を見つけたが、射撃式装置の架台らしきものは写真に撮り忘れてしまった。




静沢高地防空砲台


左:防空砲台跡から沖港を望む、右:コンクリート製の何か



左:12cm高角砲、右:同左


静沢砲台の更に北側の尾根上には、静沢高地防空砲台跡がある。
10年式12cm高角砲が3基残っているが、まともなのは1基のみであり、他の2基は砲が砲架から外れて落ちてしまっている(2基の内、1基のみ確認。もう1基は藪の中か)。
観光案内所の地図にある遊歩道の一部が藪化してしまっており、迷って沖村墓地へ迷い込んでしまう。遊歩道のあちこちに架台らしき残骸や、測距儀もしくは探照灯、射撃式装置等が配置されていたと思われる円形窪地やコンクリート構造物等が点在しているが、時間が無かったので詳細な調査は出来なかった。



本当なら出港ギリギリまで砲台をまわっていたかったが、隊長と支部長とに悪いので以上で打ち切る。






左:特産の柔らかい石を使った生活用具、右:母島丸


昼飯を食べる場所を探しに集落に入ったが見つからず、郷土資料館があったので、情報収集を兼ねて入ってみる。
受付をしていた人に話を聞くと、近くに唯一の食堂である寿司屋があるらしいのだが、その日は閉まっているとのこと。仕方が無いので食料品店でビールとつまみとを買って母島丸で食べることにする。





左:出港の風景、右:船上の昼飯



左:荒れた海、右:荒れた海その2


丸1日も居なかった、母島を離れる。総出での見送りは感慨深いものがある。

出港してしばらくして、昼飯を食べ始める。天婦羅や肉団子でビールを飲む。
自分は胃腸が悪かったので更に飲むヨーグルトを500ml追加。



ところが海は大荒れで、まるでジェットコースターにでも乗っているかのように、上へ下へと揺れまくる。調子に乗って食べ過ぎた上に、油断して酔い止めを飲んでいなかった事もあって、あっという間に酔ってしまう。
気分が猛烈に悪くなり、吐きそうなのだが吐けずにトイレでうんうん唸っていると、支部長がつかつかと入ってきてゲロっと吐いて出て行った。しかし自分は吐く事が出来ないまま、1時間以上油汗を流しながら唸っていた。この時ほど直ぐに吐ける人が羨ましかったことは無い。


少し遅れて、1600頃に父島に到着。



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