加賀能登遠征

平成21年 9月19日〜22日


荒山砦の夕焼け





・9月21日(2日目)


午前7時起床。午後8時に金沢から来られる保科さんと合流し、国道159号線を一路北へと向かう。
途中で国道249号線へ入り北上、富来に入ったら県道23号線から県道51号線。



木尾嶽城


左:主郭から富来の町(西方向)を望む、右:主郭の土壇



左:主郭から東下を見下ろす、右:主郭の東に続く郭の土橋



左:主郭の東に続く郭、右:東から来る林道の終端点、三角点はまだ向こう



左:林道終端点北側の殿様池、右:登山道の途中にある馬場跡の看板




東小室の北東にある標高140mの山の南西に伸びる尾根上に幾つかの郭がある。また主郭に至るまでの登山道の途中にも幾つかの平坦地があったが、城の遺構か後世の畑かは良くわからない。
南北朝時代には既に築かれていたらしい。天正4年(1576年)に上杉氏が七尾城を攻める際に廃城となっていた木尾嶽城を修復し藍浦長門を入れるが、関東の情勢が悪くなり主力が撤退。失地回復に動いた七尾城の畠山氏に攻められ落城した。


そのまま富来の町を挟んで西側の緩やかな丘陵地帯へ。



富来 陸軍超短波警戒機陣地


左:オートキャンプ地入り口付近から南を望む、右:この藪の奥にあるはずだったが…



右:米軍の航空写真(M958-8、国土地理院)

防衛省戦史資料室の資料(陸軍対空電探現況要図、本土-全般-053)によると、富来に陸軍の超短波警戒機の陣地が置かれ、2セット(内1セットは工事中)のタチ6が配備されていたとあるが詳細は不明である。戦後の米軍の航空写真から西海地区北の丘陵地帯にあったのではと行って見たところ該当地区一面が若い植林地帯であり、丸1日藪こぎをすれば何らかの発見は可能だったかもしれなかったものの、後に予定が詰まっていた為に諦める事に。
基本的にタチ6は送信機と受信機の置かれた4ヶ所の方形土塁(内部にコンクリート製基礎がある場合がある)と、兵舎、発電所、貯水池及びポンプ所などの施設で構成されているが、航空写真を見る限り受信所の内の1ヵ所と兵舎の有ると思われる場所は削られて道路になっているようである。
何とか探索したいところだが、さすがに能登は遠い。


暑い中、車で待ってていただいていた4人と合流して、国道249号線を北上。
門前町浦上から県道38号線へ、更に県道266号線へと入り、門前町皆月を目指す。皆月にある青少年旅行村跡の裏から林道へと入り更に奥へ。




皆月 海軍特設見張所


左:兵舎跡の窪地、北側、右:兵舎跡の窪地、南側



左:貯水槽と冷蔵庫?跡、右:冷蔵庫跡?内部



左:発電機用冷却水槽、右:展望台



左:展望台から南西方向を望む、右:展望台から北東方向



左:展望台の南東下の平坦地、右:同左の北西端の壕跡?



右:駐車場脇の看板


明治期には望楼が、太平洋戦争中には特設見張所が置かれた。現在は公園として整備され、林道脇の駐車場から遊歩道が展望台までつけられている。
遺構としては2ヵ所の窪地と大小2基の水槽と冷蔵庫?(説明板による)くらいしか残っていない。草むらの中を探せば電探の基礎や生活用水用の水槽くらいは見つかったかもしれないが、他の方々を待たせるわけにも行かなかったので諦める。展望台のある平坦地の南東下の窪地から展望台方向に地下壕が掘られていたような形跡があったが、あまりはっきりとしていない。説明板によると、ここと兵舎の窪地の間に防空壕が掘られていたとあるが、電探の地下室のことかもしれない。
装備品は不明。説明板によると40人の兵が配属されていたらしい。舞鶴警備隊の戦時日誌では昭和20年4月から電探の工事が始まり7月時点でも工事中とあるので、終戦までに装備できなかった可能性もある。
また同じく説明板には終戦後には米軍のレーダー部隊約10名がここに駐屯し、一冬を過ごしたとある。


国道249号線まで戻って再び北上し、国道51号線を南下。




天堂城?


左:本丸?、東方向、右:本丸?、西方向



左:本丸?の3本の溝の1本、右:兵庫屋敷?



左:林道脇の看板、しかしその先には何も無い…、右:斜面にあった平坦地、田んぼの跡か?



薄緑色は高井勝己著『石川の城』による遺構の配置図より

一応看板に沿って探索してみたものの明確な城跡らしきものは確認できなかった。
林道の終点手前に本丸と兵庫屋敷と書かれていたので、藪こぎをしながら本丸を探索してみたものの自然の尾根に近く、石川の城の付図に書かれていた3本の溝も薄っすらと確認できたものの尾根に対して斜めに走っているので堀切とは思えない。兵庫屋敷付近の地形も実地形状に合わず、上記写真も推定部のものである。それでは余りに悔しいので林道を下る途中にある殿様屋敷等の看板の指した辺りを探索してみるが、こちらも明確な遺構は発見できず。山の斜面に作られた田んぼ跡らしきものくらいしか確認できなかった。結局これといったものも見つからず、貴重な1時間半と体力とを失ってしまった。
一応輪島市指定史跡なのだから、一度しっかりとした発掘調査をしてもらいたいものである。

温井氏の城。詳細不明。


一度国道249号線に戻ってから県道7号線で穴水町へ向かう。




穴水城


左:本丸、右:本丸から二の丸



左:二の丸の北下の郭、右:三の丸




公園として整備されているのでアクセスは容易である。ただ、整備されているのが本丸と二の丸周辺だけで、東側半分は畑や山のままである。

長氏(長谷部氏)の居城。上杉氏の能登攻略の際に何度も戦場となる。


七尾湾沿いに国道249号線を南下する。途中、ツール・ド・能登のコースとダブってしまったために、移動に余計に時間がかかってしまうものの、すぐ傍で自転車レースを観戦することが出来て面白かった。








田鶴ヶ浜館


左:得源寺、右:寺の裏手(南)の土塁もどき



左:寺の駐車場北側の土塁、右:東側の筋




田鶴浜町にある得源寺の寺域が田鶴ヶ浜館である。資料には裏手にあるものも土塁としているが、寺の関係者(自分たちが裏手をうろうろしていたので不審がって出てこられた)の説明によると、裏手の土盛は土を削り取って出来た残土のようなもので、土塁ではないとのこと。本当の土塁は寺の駐車場の北側にちょこっと残っているだけである。

長連龍の隠居所。


そのまま狭い道を南東へ移動し、田鶴浜道路を潜って高田町へ。




高田館


左:土塁跡とあったが…、右:城域



左:道路の右側が城域、右:城域、奥の方に土塁があるらしいのだが、さすがに入れず




高田保育所の南西側の高地が高田館だったそうだが、はっきりとした遺構は残っていない。資料によると北東側に土塁や空堀が残っているらしいのだが、明らかに私有地だったので諦める。

高田氏の居館。詳細不明。


大分日がかげってきたが、またも窪谷さんの押しにより、荒山砦も落としておくことになる。
県道18号線を南下し、国道159号線に合流、そして再び県道18号線で分岐して富山県との県境へ。




荒山砦


左:主郭、右:主郭



左:主郭から北下の二の郭を見下ろす、右:主郭から北西下の腰郭を見下ろす



左:腰郭の一つ、右:同左の更に下の郭




地図を見ると辺鄙な場所だが、案外と道路の状態が良くて驚かされる。余りに驚いてしまった為に、駐車場を一度行過ぎてしまった。
荒山峠の手前から石動山へとスカイラインが出ており、スカイラインへと分岐してすぐに荒山砦の駐車場が右手に見えてくる。そこから主郭まで徒歩10分ほど。
季節がら、あたり一面草に覆われて移動が難しいが、良く整備されており眺めも良い。時間があれば北下に延びる二の郭、三の郭へと降りることが出来たのだろうが、草が深かったのと時間が遅く暗くなってきた為に諦める。

一向衆の城といわれている。本能寺の変の後に上杉氏は能登奪還の為に、荒山砦とその東にある石動山に畠山氏の旧臣を入れるものの前田利家と佐久間盛政によって攻め落とされる。佐々・前田の戦いの際には佐々側の拠点の一つとなる。




以上で2日目の日程終了。
羽咋市まで戻り、金沢に帰る保科さんと駅で別れた後、昨日のスーパーで買い物をしホテルへ。
今日は近所の居酒屋も開いており、人の少なかった方の店で飲む。
午後11時頃には就寝。




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