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おいへげえっ

[花の慶次とは?] [花の慶次の魅力] [花の慶次人物伝] [花の慶次悲鳴断末魔リスト]
■花の慶次とは??■
花の慶次1巻 週刊少年ジャンプで1990年37号から1993年33号まで連載された漫画で、戦国時代を舞台にしていた。原作・隆慶一郎、絵・原哲夫という異色のコンビで話題になった。
 主人公は前田慶次。本名は前田慶次郎利益(利…は諸説あり)。滝川一益の従弟とも甥ともいわれている滝川益氏の子として1542年(諸説あり)に生まれる。母が前田利家の兄利久の妻となると共に養子となり、いずれは前田家を継ぐはずだった。しかし、信長の一声で本来家督とは無縁の四男利家が前田家を継いでしまう。利家が信長の寵臣であった事も大きな要因だが、信長の弟信行を担いで謀反を起こした林通勝の一族と利久がよしみを通じていたことが信長に警戒心を与えていたのが決定的となったといわれている。これにより前田利久と慶次郎は1583年までの間、不遇の人生を送り、歴史上にもほとんど登場しなくなった。1583年信長の死後利家が能登に23万3千石を領するようになり、ようやく利久に7千石(うち5千石は慶次郎に)の禄を与えた。この年慶次郎はかぞえで42歳。『花の慶次』ではこの前年1582年に滝川一益配下として登場するので41歳ということになる。1587年前田家出奔の際の「水風呂事件」は史料にも見える逸話だが、40代半ばでの傾きっぷりだ。家督を継いでいたら利家を家臣としていたかもしれない「無念の人」である。

一夢庵風流記  前田慶次郎は今日でこそ有名だが、史料の少なさから知名度は決して高くなかった。その低かった知名度を高めたのは、小説家「隆慶一郎」である。週刊読売で1988年1月3日・10日合併号〜1989年1月29日号まで連載した『一夢庵風流記』で慶次郎は一躍脚光を浴びることになった。ここまで人気が出たのも慶次郎が『傾奇者』(かぶきもの)だったからで、今では『傾く』という言葉は一般動詞として使われるほどである。
 『傾奇者』とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いで人を驚かす者をいい、『婆娑羅大名』佐々木道誉や織田信長も『傾奇者』といっていい。連載終了後すぐに単行本化され、1年後には漫画化までされたのだから、大した人気である。

 ちなみに一夢庵風流記は現在3冊ほど入手可能で、ハードカバー版花の慶次ナイズされた文庫版渋い文庫版が発売されている。
 花の慶次は完全版(愛蔵版)(1)(2)(3)ジャンプコミックス全18巻文庫版全10巻が発売されている。
■花の慶次の見所■
聞こえないシリーズ 『花の慶次』はよく少年漫画誌用にアレンジされ、原作とは全く違うという人がいるが、実はそうでもない。意外に原作に忠実なのだ。後半は原作にはないストーリーだが、特に前半は原作のストーリーを十分に楽しむことができる。隆慶一郎が生前に書いた漫画用の原作(原案?)がどこまでのものだったかにもよるのだが…。『花の慶次』の場合は、原哲夫が隆慶一郎に敬意を表しているというのもあるが、その上で原哲夫お得意の「お笑い」の要素が存分に盛り込まれている。北斗の拳も本来お笑いではないだが、そこは原哲夫マジック。読めば読むほどお笑いなのである(笑)

聞こえないシリーズ。慶次郎は耳が悪い(笑) 少年誌での連載だが、あまり子供を意識した内容ではないと感じさせた。「お笑い」の要素が子供をも惹きつけたのだろうか。(当時若かった人の感想を是非聞きたいです。)
 前田利家と慶次郎の微妙な関係も面白いが、慶次郎が戦国の裏で諸大名と関係をもち、暗躍していたというのが面白い。実際最後は上杉家に仕えた形をとっていたので、十分に考えられることだが、慶次郎、真田幸村、伊達政宗、後藤又兵衛、上杉家の直江兼続、前田家の奥村永福(助右衛門)、そして秀吉が一同に会して山間の温泉に浸かり、天下について語り合っていたシーンには度肝を抜かされた。(奥村助右衛門も慶次郎と同い年の割に若すぎる(笑)→【豪華温泉場面 】)
 ちなみに政宗と幸村は慶次郎より25歳下、兼続と又兵衛は20歳下、6歳上でしかない秀吉は「ご老体」とか「ジジイのくせにスゲー体してるな」といわれている(笑)
 慶次郎は忍術剣術ともに超人的であることも主人公として魅力的であるが、当代切っての教養人というのも面白い。利家や千利休に茶を入れて「んー、うまい」とうなづかせたとおもったら、自ら写本した伊勢物語が鉄砲の流れ弾で穴が空くと泣いて悔しがる。いかにも慶次郎らしい。写本とは読んで字のごとく本を写すことで、この時代増刷といったらこの方法しかなかった。かなり熱心に筆をとらなければならないので泣くのもわからなくはないが、この本のおかげで弾が貫通しなかったのだから周りの者は唖然とするしかない。
 慶次郎は傾奇者であると同時に涼やかな漢でもあった。家康に気に入れられた理由の一つに涼やかで無邪気な笑顔がある。「戦場で傷だらけになったきたねえツラだ」と言ったと思ったら「だがそれがいい」と切り返し、周りを感心させるところは言葉のマジックだ。用法例:アミバ様を見て「狂気に歪んだツラだ だがそれがいい」
 光栄の『信長の野望』シリーズに慶次郎が登場したのも『一夢庵風流記』と『花の慶次』の人気のおかげというのはいうまでもない。んー、どうも語り尽くせないので今回はひとまずこれまでとする。

■花の慶次人物伝■
 『花の慶次』には魅力的な人物が多数登場する。一部紹介しよう。

又左(笑)【前田利家】慶次郎にとっては義理の叔父に当たるが、実は4歳しか違わない。利家は年相応に描かれているので、慶次郎が若すぎるのだ。物語が終わる1600年には58歳だったはずだかどう見ても30前後に見える(笑) 利家は『花の慶次』で一番勘違いされてしまった人物ではないだろうか。若い頃は槍の又左の異名で活躍し、加賀100万石の礎を築いた名将なのだが『花の慶次』では慶次郎を妬み、妻には疎まれ、常にソロバンを持ち歩く計算好きで、最後は必ず慶次郎に出し抜かれるというキャラになってしまった。しかし、最高に面白い男なので、そういう意味では株を上げたかもしれない。




ついには金玉丸出しの刑を喰らう(笑)【四井主馬】北斗神拳創始者シュケンの母シュメとは別人である(爆) 加賀忍軍の棟梁で利家に重用されていた。利家の命令で慶次郎を再三襲うが、負けるだけでは済まず、かなりの恥をかかされるという「美味しいキャラ」である。
 左の写真は、利家が妻おまつが街に出たのを「慶次のところに行くんじゃないだろうな」と勘ぐり、後をつけてきたシーンで、「なにか良い手はないか」と同行した主馬との問答である。
 このシーンの主馬はたしかに口は笑ってないが、目だけでも十分に笑っているように見える(笑) この口の痕は慶次郎の愛馬『松風』に蹴られてつけられたものだが、後々の人気を考えると主馬も感謝せねばなるまい(笑)
「あいとわ」「おいへげえ」など、素晴らしい悲鳴も多く、完全にお笑い専門キャラである。ちなみに実在の侍として記録が残る(上段左から2番目)

よく肥えてます(笑)【徳川家康】秀吉亡き後の天下人であることは誰でも知っているが『花の慶次』によって、大変感じのいい人物という印象を子供たちに植え付けた(らしい(^^;)。ハート様も顔負けの笑顔「にこにこっ」の連発である(笑) 慶次郎とも仲が良く、五奉行の一人前田玄以と慶次郎との喧嘩に介入したり、上杉家が許された理由も慶次郎と家康の会見によるものとしている。ちなみに慶次郎と家康は同い年である。漫画では20歳くらい慶次郎が若く見えるが…(爆)
 隆慶一郎が徳川家びいきなのか、息子の結城秀康も慶次郎と関係を持つことで漢を上げた。家康は隆慶一郎原作漫画第二弾『影武者徳川家康』では主人公である。もちろん顔はケンシロウ顔になり、太ってもいない(笑)(ちなみに背は当時の平均である150cmくらいでウエストは120cmだったらしい!!)

何度もいうが黒王号ではない(笑)【松風】世紀末覇者ラオウの乗馬…でなく、慶次郎の乗馬である。滝川一益による馬狩りを邪魔する悪魔の馬として1巻冒頭から登場する。慶次郎はこの悪魔の馬の討伐を命じられたが、「体のでかい者同士」気が合ったのか、心のふれあいにより、自らの乗馬としてしまった。慶次郎は巨馬にもかかわらず疾風のように駆ける馬を『松風』と名付けた。
 黒王号と違って、慶次郎以外の人間には決して背は許さない。馬銜(はみ)をつけない約束で、慶次郎が「右に曲がって欲しいと思えば曲がってくれる」ので手綱なんかもいらない。
 悪魔の馬といわれていたが、性別についてはよくわからない。途中松風の子が後藤又兵衛の馬狩りによって深手を負わされるシーンがある。松風は慶次郎に槍を持たせて「とどめをさして楽にしてやってくれ」と頼み、涙を流した。又兵衛は感動し、松風親子に頭を下げて謝し、以後慶次郎と交流をもったということにしている。馬はよく涙を流すといわれているが、思わず信じてしまいそうな話である(笑)
 時には慶次郎を窮地から救うなど大活躍を見せるが、なんといっても主馬にくつわの痕をつけたのが一番の功労である(笑)


 他にも武将、そして美人揃いの女達、慶次郎のお供をしながら殺人を楽しむ「たらら〜」な忍者捨丸、同じくお供で足だけで相手の顔を両断する「だんだん鬼じゃなくなっていく」岩兵衛など機会があったら紹介したい。

あいとわ!!!!!