| 三国時代は正確には魏が後漢から禅譲されて独立した西暦220年から呉が滅亡した280年までで、三国鼎立していたのは呉が独立した229年から蜀が滅亡する263年の34年間と中国の長い歴史上の中では短いものです。 とは言っても、三国志の主人公曹操は220年没で、魏が後漢に成り代わったのは息子の曹丕、蜀が独立してから劉備が没するまでわずか2年なので、史実としての三国時代と考えるのは現実的ではありません。
三国時代と言うより三国志の時代とするほうが現実的なので、黄巾の乱が起きた184年から呉が滅亡、即ち晋(西晋)が統一する280年までの96年間とするのが正しいでしょう。 北斗神拳は黄巾の乱の頃に誕生し、当時の天子だった後漢皇帝を守護し、三家拳は曹操が袁家を滅ぼし、華北を統一した207年頃からその原型が出来上がり、劉備が蜀の劉璋を滅ぼし、実質三国体制となったところで派遣されたのだと思います。遼東の公孫家を燕国として四国とする考えもあり、袁術も皇帝を自称したこともあることから、いつどこで誰が皇帝を名乗るかわからない時代だったので、北斗の高僧も色々と苦慮した結果だったのでしょう。 この時点ではまだ魏呉蜀ともにまだ皇帝でなく、あくまで後漢の下にあったので、「次の正統王朝はどこなのか」と迷ったあげく、それぞれの地に三家拳の拳士を派遣し、三国鼎立後も守護し、滅亡後は土着して、それぞれの拳を進化させて行ったのでしょう。元々三家拳は同じものだったと考えていいと思います。無論北斗神拳は一子相伝なので北斗神拳ではありません。 一方、一子相伝の北斗神拳伝承者もちゃんといるので、正統王朝とされる後漢から魏、晋(西晋)の流れで守護していったはずです。つまり曹家を守護した拳士に限っては魏の滅亡までではなく、曹丕が皇帝になるまでだったわけです。呉や蜀は正統王朝ではないので、守護する拳士も曹丕が皇帝になった以降は必要なかった…というわけではなく、魏が正統王朝と名実ともに認められているのは魏から禅譲された晋が正統王朝だからなので、呉と蜀も滅亡まで守護拳士を置いていたのでしょう。
だから魏拳・呉拳・蜀拳でなく、曹家・劉家・孫家としたとも考えられます。
まとめ。 北斗神拳 184年後漢皇帝の守護->220年魏皇帝の守備->265年晋皇帝の守護 曹家拳 実質三国体制となった214年頃から曹家を守護->魏が後漢から禅譲に至り220年失職。 劉家拳 実質三国体制になった214年頃から劉備の劉家を守護->蜀滅亡により263年失職。 孫家拳 実質三国体制となった214年頃から孫家を守護->呉滅亡により280年失職。
年表 184年 黄巾の乱。(北斗神拳成立) 196年 曹操後漢皇帝を奉じ、司空に昇る。 198年 孫策呉侯に封じられる。 200年 曹操官渡で袁紹を破る 207年 曹操華北を統一。(三家拳発祥) 208年 曹操後漢の丞相に昇る。 212年 曹操魏公に昇る。 214年 劉備が劉璋を滅ぼし蜀を領地化。(三家拳派遣) 216年 曹操魏王に昇る。 219年 劉備漢中王を名乗る。 220年 後漢滅亡。曹丕魏初代皇帝となる。(北斗神拳が魏の守護に。曹家拳失職) 221年 劉備蜀皇帝となる。正確には漢だが蜀漢、蜀と記す。 221年 孫権が魏に臣従し、呉王に封じられる。 229年 孫権呉皇帝となる。 263年 魏の司馬昭晋公に昇る。 264年 魏の司馬昭晋王に昇る。 263年 蜀滅亡。(劉家拳失職) 265年 魏滅亡。司馬炎晋初代皇帝に。(北斗神拳が晋の守護に) 280年 呉滅亡。晋が統一。(孫家拳失職)
というわけで、劉家秘伝は後漢帝国の劉家とするのが正解(笑) その後分裂の時代に再び分かれることがなかったのは、この時代の三家拳が空回り終わった教訓からでしょう。正統王朝を見極め(清代には中原を制する王朝という意識があった)、該当する国がない場合は守護せず、静観していました。
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