西播磨攻城記

平成11年10月31日〜11月3日


○11月2日
同じく朝食を部屋で済ませて7時すぎに出発。
鉄道による機動を行なっていた頃のように、夜明け前に出発、
始発列車に乗り車内で朝食をとる、というようなことが無くなって、嬉しいやら悲しいやら。

姫路市内から県道67号線に乗り、北上。
初めは御構(屋敷)跡を見ようと、宮置の集落付近をさ迷うものの、
どこがどうだかさっぱり分からず、仕方なく橋を東に渡って置塩城へ。

置塩城



登り口から25分、比高250mほど。
置塩城は嘉吉の乱で一時赤松氏が滅亡した後、赤松政則が赤松氏を復興、
その時置塩城を築いたのが始まりであり、この後秀吉による城割までの約100年を
赤松氏の本城として機能した。
そのため規模もかなり広く(写真左)、石垣も多い(写真右)。

遺構は本丸を中心とした部分と、尾根鞍を一つ隔てたにの丸を中心とした広い部分とに別れており、
このことから元々は本丸を中心とした部分だけだったようである。
また、この城は織豊期の改修を受けておらず、
そのため織豊期以前のこの地方の築城技術を見るのに良い城でもある。

県道67号線をそのまま北上し、前之庄で左折し、中国自動車道沿いに山崎の町に入る。
揖保川の東側の、河東農協裏から愛宕神社へ。

聖山城



もともとは後述の篠の丸城の出城だったらしい。
1580年の秀吉の長水城攻めの時、まずこの城を落して本陣として使用したと言われている。
麓から徒歩で5分ほど、比高50mほどの小さな城である。
本丸は雑草が生い茂っており、本丸から一段下がった場所にある、
元愛宕神社辺りからの方が眺めが良い(写真)。


本日のメインイベントである長水城で昼食をとるべく、山崎町内のコンビニで食糧を調達。
進路を北西に向けて長水城へと向かう。


長水城




伊水小学校の裏手あたりには、屋敷跡と思われる石垣などが残っおり、
その脇の道を登っていく道が大手筋である。
この道には季節柄、「キノコ山、許可無く立ち入りを禁止する」という旨の掲示がしてあり、
しかもご丁寧に縄まで張ってあったのでどうしたものか迷っていたところ、
どうも見張り小屋らしきものがあるのを発見。
中を見るとヨボヨボの爺さんが一人ラジオを付けっぱなしにして寝入っている。
なかなか起きないのを無理して起こして、これから山に入ること、
城を見に行く為で決して松茸を取りにいくわけ出はないことを説明するも、
爺さんは自分は見張りなんかではなく、この道を奥に入ったところに住むものであり、
こうしてここにいるのは小学校に通う孫娘を待っている為だとの説明を受ける。
とりあえず見張りがいないことが分かったので、縄を潜って道を奥に入る。
徒歩10分弱ほどアスファルトの道が続くが、途中から険しい山道に。
さらにそこから30分ほどで山頂へ。比高400mほど。
山頂に着いて驚いたのは、比高400mを越した山の頂上に民家があったこと(写真右)。
この民家の住民に話を聞くと、本丸にある寺の住職一家が昭和9年頃からここに住んでいるらしく、
先ほどの爺さんは2代目の住職。電線は麓から引き、水は天水。
生活必需品は徒歩10分ほどまで来ている車道まで取りにいくとのこと。
どうやら山の北東を通る車道を辿れば、徒歩10分ほどまでに寄せられたらしい。
余計な苦労をしてしまう。

とりあえず本丸付近の長めの良いベンチで昼食を取る。
この長水城は赤松則祐が1346年頃築いたのが初めとされている。
その後、赤松氏の一族で一時は10万石余りを有していた宇野氏の本城となり、
1580年に秀吉によって攻められ落城している。

昼食後、二の丸三の丸を廻った後、もと来た道をひきかえす。
麓の小学校裏の小屋には、まだあの爺さんがおり、話をすると、
この孫娘は山頂の家からこの小学校まで片道2時間をかけて歩いて登校しているとこのこと。
感心するやら呆れるやら。
将来は有名な女性登山家になるかもしれない。


元来た道を引き返し、山崎町内へ入り、最上山公園へ。
公衆トイレのある辺りに車を停めて、残りの山道は歩いて登る。

篠の丸城



比高100m、トイレから徒歩15分弱ほど。
城跡は公園になって整備が行き届いており、遺構も良く残っている。
見晴らしも良く、ここから聖山城や遠く長水城が見える。

赤松氏の分流釜内範春が南北朝期の初めに築いたのが初めとされており、
一度嘉吉の乱で山内氏に攻められ落城。
その後、赤松氏が復興して長水城に宇野氏が入ったとき、
同じく宇野氏の配下が入るものの、またも播磨に侵入してきた尼子氏に攻められ落城。
尼子氏が去ってからまた宇野氏に復帰するものの、秀吉に攻められて3度目の落城。
その後は中津に転封するまで黒田官兵衛がここに本拠を置き、転封後山崎城が出来、
ここは廃城になる。

まあ、交通の要所、山崎町の盆地を見下ろす絶好の位置に存在するので、
これだけの回数落城するのもうなずけるような気がする。

どうでもいいことだが、この城跡の公園で、
先日下見の際に出会った変な爺さんにまたも出会ってしまう。
相変わらずの調子で話かけてくるが、どうやら私のことは覚えていないようだった。

山を降り、山崎町役場の裏あたりに車を違法駐車し、山崎中学校を目指す。

山崎城



現在遺構が残っているのは、石垣と(写真、これも本当は怪しい)門のみ。
後はすっかりと公共施設に埋もれてしまっている。
その敷地のほとんどは山崎中学校と山崎小学校になり、余り面影は残っていない。

関ヶ原の戦い後、姫路に入った池田輝政の四男輝澄が宍粟郡3万8千石を与えられて
ここに築城したのが始まり。
一時は佐用郡2万5千石を加えて6万3千石になるが、お家騒動で領地没収、
のちに宍粟藩はお取り潰しになる。。
それからしばらくして本多政貞が1万石で移封され、城は陣屋になり、
明治維新まで本多家9代がここを治めた。

女子中学生のクラブ活動風景でも眺めようとしたものの、いまいちピンと来なくて、
諦めて平城をもう一城稼ぎに国道29号線を北に登るのであった。


構ノ城



長水山の西、五十波の老人ホームが構ノ城である。
土塁などそれらしきものは残ってはいるものの、すっかりと老人ホームと化している。

いつ頃築城されたかは分かっていないが、
長水城の溺め手の守りとして使用されていた。

ぐるぐると歩き廻ってみるものの、どうみてもただの老人ホームで、
これ以上いてもただの不審者と思われるのが落ちであり、
また日も落ちて辺りも暗くなってきたので、今日はこれを以って撤収することにする。

姫路市内に戻って車をレンタカー屋に返却し、今日こそはとそれらしい飲み屋を探す。
が、見つからず、結局普通の居酒屋に入って普通に飲み食いする。
本当に普通に(笑)。
何か姫路名物とか姫路名産を食わしてくれるような姫路でも有名な店とかは無いんか!?
その後、酔った勢いで何故か古本屋に突入。
田中雅人の漫画か何かを買ったような気もするが、何せ半年も前のことで記録もなく、
良く覚えていなかったりする。


○11月3日
最終日。6時50分頃姫路駅発の列車に乗り込んで朝食を取る。
最終日にしてやっと本来の城郭班らしくなってくる。
1時間ほど姫新線に揺られて、本竜野駅下車。
駅から歩いて15分ぐらいで龍野城(新)へ。

龍野城



どう見ても復元っぽい櫓と門の龍野城で、メインの龍野城(旧)の情報を得ようと
資料館に入ったが、鶏籠山には獣道みたいなものしか残っていないとの話を聞く。
これは大変なことになるかと思いつつ、登り口を求めて鶏籠山の西にある峠道を登る。
すると丁度峠になっている辺りで、東の鶏籠山方向へ伸びる尾根道を発見。
何のためらいもなく登る。
途中道が消えかけそうになっていたりしたが、峠から5分ほどで遺構らしき場所に至る。
比高は80mほど。
長さ300mほどの広い範囲に、かなりの遺構が残っている。
織豊期の石垣も多く、当時大々的な改修が行なわれたことが伺われる。

赤松氏を再興した赤松政則が庶子村秀に与えたのが初めとされているが定かではない。
その後100年近く、龍野赤松氏の本拠として栄えるが、
四代目の広英は1578年に播磨攻めに来た秀吉に戦わずして降伏している。
それから1672年に脇坂安政が5万3千石で転封して来るまで、さまざまな大名がここに転封される。
脇坂安政は麓の新龍野城の改修と造営を行ない、その後明治維新まで脇坂氏の居城として機能した。

駅に帰り際、城下町の商店街で醤油饅頭なるものを発見、つい買い求めてしまう。
いくら某有名醤油メーカー発祥の地だからといって、こんなもの作るなよ、
と思いながら食べてみたが、皮の醤油味が中の漉し餡とマッチしてなかなかおいしい。
いつか食べた長岡の醤油パンに似たものがあった。


駅まで歩いて戻り、電車で姫路まで戻る。
昼飯を軽く済ませて、今回のツアーの大目玉、姫路城へと向かう。


姫路城



言わずもがな。余りに有名なので説明は省略。
普段は関ヶ原以降の城は市役所みたいなもので面白みが無いだのなんだのほざいてはいたが、
ここはやっぱり素晴らしい。市役所結構!(笑)

世界文化遺産になったせいか、色々とパワーアップしていた。
タの渡り櫓から延々と、化粧櫓を経てロの櫓辺りまで(うろ覚え)、
建物の中を歩いて通れるようにしてくれていた。

この前偶然見た「007は二度死ぬ」では、天守閣前の本丸で忍者が訓練をしているシーンがあったが、
よく国宝を貸し出したものだ。
…ん?そう言えば暴れん坊将軍などでも出ていたような気もする。まあ、いい。

内堀の周りもゆっくりと歩いて見て回る。
さすがに3時間近く歩いていたら多少飽きてしまったが、
しかしさすが世界文化遺産に指名されるだけのことはある。
死ぬ前に一度は訪れたい場所の一つである。


姫路駅で3人の先輩方と別れて、何を血迷ったのか山陽電鉄で垂水まで帰る。
電車にゆっくりと乗れなかった反動だったのだろうか。


今回の西播磨ツアーは、天気にも恵まれて無事に終った。
今回から本格的な機械化を始めたが、
機械化の良いところは、登り口までは確実に、
あわよくば本丸付近まで車で寄せられてしまうところにある。
また、渋滞は気になるものの、電車の時刻表に縛られること無く移動できるところも大きい。
しかし、これまでの電車を中心としたツアーでの、電車待ちや電車での移動中の時間も、
暇なようでいて、実はいろいろと面白い話が出来たり、またそれまでの攻城の模様を記録に留めたりと、
有意義に利用できていたように思う。
機械化によって攻める城は増えても、そういうゆとりの時間が減ったことは、
総合的に見た時に少しばかりマイナスになりかねない可能性すらある。

今後は機械化での攻城ツアーも多くはなるだろうが、ツアーそのものを楽しむ為にも、
機械化に頼りきりにならないように注意しなければならないだろう。



戦果
	攻撃対象	18城

	うち 棄権	0城

			18城	攻略



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