西播磨攻城記

平成11年10月31日〜11月3日


あっしが兵庫県に就職し、二輪部隊を創設、 付近一帯の偵察が可能になったといいことで、 西播磨方面への遠征が決まる。


ということで、実際に下見をしてまわる。 今回は本格的に機甲部隊で攻略をかけるので、 当日、狭い道にはまりこんで、地元のゲリラから襲撃を受けるというのだけは 避けておきたい。 坂越浦、三石、利神、山崎篠の丸あたりをバイクでまわってみる。 バイクの運転に酔いしれて、白旗山を見逃したのは愛敬というものだ。


○10月31日

で、当日。朝からいきなり電話。
「夜行が踏切事故で1時間遅れる」
しょっぱなからいきなり不吉である。というか、この日の短い季節に1時間の時間ロスというのはかなり大きいものがある。
9時25分三宮駅に新快速着。今回の参加者は、新婚2年目の窪谷(仮名)さん、榊(仮名)さん、そして保科(仮名)さん、そして自分の計4人である。
あまり時間も無駄にできないので、早速荷物を預ける為にコインロッカーを探しに行く。
…迷う。(笑)って、三宮なんか余り来ないからわからないんです。
結局売店のあばさんに聞いて、何とか発見。荷物を放おり込んで、駅の北口のマックで簡単な朝食を取り、タクシーを拾って登り口へ。


滝山城



再度山方向へ抜ける道を登ってもらい、それらしい登山道がある地点でタクシーを下車。
そこから東へ徒歩10分ほどで滝山城へ。
元々は南北朝の頃の赤松氏の山城だったが、現在の形に改修したのは松永久秀であるとされている。詳しくはそれらしい本(日本城郭大系など)で。
東西に450m近く。かなり大きな規模の山城である。
本来ならここからの眺めは素晴らしい筈だが、木がうっそうとしていてほとんど何も見えなかった。
南北朝当時は、多々部城(再度山)城砦群の一つとして、出撃および退却時の兵の集結地点になっていたとされている(by「兵庫の城紀行」)とあったが、現在では六甲山系方面への登山客の休息地点となっていて、やたらとハイカー姿の爺さん婆さんの姿が多かった。

余り長居も出来なかったので、東の方へ抜けて、布引きの滝方向へ下山。新神戸駅の裏手へ下山。
もう一度タクシーを拾って三宮駅へ向かい荷物を出し、新快速で姫路へ向かう。

駅前で昼食を取った後、レンタカーを借りる。白のカローラ、1500cc。とりあえず初日なので、一番運転経験の長い榊さんに運転してもらう事に。
国道二号線を相生まで西下し、相生を南下、250号に入ってさらに西下して坂越へ。


坂越浦城



坂越港の番所、というような城。30mほどの小山の上にある。現在ではすっかり公園化しており、下見にいった時には老人達がゲートボールに興じていたりした。
裏の二つの船岡山、茶臼山ともに山城であるが、遺構はほとんど残っていないとのことで攻略は見送られる。
しかし、この城も石垣がまともに残っているのは


の一面だけであり、わざわざ来たにしては淋しいものがあった。

また、99年に放送中の大河ドラマ「元禄りょう乱」で出てくる赤穂付近の島の風景は、茶臼山山頂(NHKの中継施設がある)から撮ったもののように見えるのは如何に?


すかさず車を返して、赤穂市市街へ。


赤穂城



余りに有名なので、説明略
翌年のドラマ化を控えて、大々的な補修が行なわれていた。それは嬉しい事だけど、元からあった遺構はちゃんと残しておいて欲しい。
元々は海に面した城だったらしいが、現在では田んぼと住宅に囲まれてその面影は微塵もない。附属の大石神社には、御影石の産地のどこぞから寄付された、47士の石像が飾ってあったが、どうみても「赤穂浪士テーマパーク」的雰囲気を醸し出していて、かっこう悪い事この上ない。
本丸では、御所の間取りをコンクリートで


のように復元していて、遊べて面白い。どうせやるなら江戸城でやってほしいものだけど。


赤穂から北西に向かい、山陽自動車道沿いに西下し、備前市三石へ。


三石城



国道2号線の北にそびえる険しい岩山の上にある。
二号線と山との間を走る旧街道脇の登り口から15分ほど。比高200m。
城の規模は南北300mほどのなかなかのものらしいのだが、何しろ木や草がぼうぼうで、移動もままならないくらいであった。



とりあえず、井戸跡(左)と大手門脇石垣(右)の遺構。
眺めが悪いのはもちろんのこと。山頂を切り払って整備すれば、それなりに客が付くのではないかと思われるだけに残念である。
一つ驚いた事に、大手門脇に水が湧いて小川を成していた。その湧き出し量はなかなかのもので、これなら籠城しても水には困らないだろうと感心してしまった。
それと、山一帯にさまざまなキノコが生えていた。これも食糧にしたのだろうか。松茸は見つからず。


日も暮れて来たので撤収。2号線沿いに姫路まで戻る。
宿は駅から徒歩5分ほどのところにある、古びたビジネスホテル。が、一泊4000円と安い上に駐車場が付いているため、3泊とも宿はここに。
夕飯を食いに行く。何を食ったかは、忘れた。というか、メモ書きしていないので、覚えていろという方が無理である。(現在99年4月25日)ただ一ついえる事は、姫路にろくな店が無い、ということである。
朝食に、お決まりのパンを買っておく。部屋に帰って風呂に入り、翌日の作戦会議を少ししてから早めに寝る。

○11月1日

ホテルで、昨日買っておいたパンで朝食を済まし、7時すぎに出発。
こんな遅くに出発しても済むようになったのも、機械化のおかげだ。
本日の運転手は自分。他3人の日の本の貴重な人材に引導を渡してしまったら
どうしようとも考えたが、一度は下調べをしているので、大丈夫だろうと勝手に納得。

まずは、感状山城。

感状山城




国道2号線から県道44号線に入って北上、羅漢の里の水車の奥に、登り口があった。
登り道はきっちりと整備され、登り口脇には、ご丁寧にパンフレットまで置いてあった。
さすがは国指定遺跡である。

麓から徒歩10分ほどでひらけた場所に出て、さらに登ると石だらけの南曲輪群に出る(写真左)。
石、石、石、さらに石。こういう荒々しい石垣は大好きである。
本丸までは、比高200mほどである。 城の規模はそれほどでもないが、とにかく石の多さと状態がいい。
遺構全般に渡って木が切り払われており、眺めもすこぶる良い。
谷筋にある大手門脇の井戸には、山頂に近いにも関わらず水が湧いていた。(写真右)
朝一番からいい城に巡り合わせ、ホクホク顔で次の城に向かう。

国道373号線を北上し上郡の町を抜けて、細野の村落を脇へと入る。
小さな橋の東側に、看板と登り口とがある。
白旗山城




赤松氏の発生地、もとい本城。
南北朝時代、赤松円心がここに籠って新田義貞の5000の軍勢を引き付け、
足利尊氏側に多大な貢献を行なったことで有名である。
登り口から沢道を20分で尾根に出て、そこからさらに5分弱で最初の遺構らしきものに出る。
比高は400m弱もある。
規模はかなり大きく、さすが赤松氏の本城というだけのことはある。
ただ、初めの籠城時には、それほどの規模ではなかったのだろうが。
石垣も所々にあり(写真右)、また谷筋の大手門筋付近の井戸には、同じく水が溜っていた(と思う)。
本丸付近は木を切り払い、眺めはいい。
登りの沢道はきついものの、登り甲斐のある城である。

麓に降り、ついでということで屋敷跡も覗きに行く。



すっかり幼稚園。こんな場所で育った子供の行く末が案じられる。

もう一度国道373号線に戻り、またも北上。
佐用町に入った辺りで見つけた中華料理屋で昼食。
さすが田舎の中華料理屋、やたらと餡ばかり多い焼きそばを出してくるわ、
魚臭い餃子を出してくるわ、もう散々だった。
いっそのこと隣にあった焼肉屋に入っておけば良かったと後悔するもすでに遅し。

智頭急行平福駅駅前に車を停め、川沿いに南下して線路脇の民家横から尾根筋を登る。

利神城



麓から15分ほど。比高150mほど。
山頂付近のほとんどが石垣であり、その姿は壮観である。眺めも良い。
しかし、いかんせん、樹木による石垣崩落が激しくて、一部は立ち入り禁止になっている。
本来の大手筋は、平福駅裏の谷筋で、確かにその付近には石垣と登り道らしいものが残って入るものの、
現在は登れなくなってしまっているらしい。

前出の白旗山城の北の守りとして築かれたのが始まりで、
織豊時代には現在の姿に近い石垣の城となり、
関ヶ原の戦いの後、姫路城に入った池田輝政の甥、池田由之が佐用郡3万石でこの地に入り、
大々的に改修して現在の姿になったといわれる。
麓にも、池田時代の屋敷跡が残る(写真右)。 また平福の町は、宿場町の面影を強く残しており、隠れた名所であることには間違い無い。

とりあえず、これでメインの山城が終ったので、日が沈んで行動不能になるまで、
ひたすら平城を攻めることに。


福原城



国道373号線に戻って上月町方向へ南下、
道路の西側の病院の側に「福原城跡」という看板が出ている。
本丸跡は神社に、その他は田畑と民家になっている。
神社付近に土塁跡があるのがはっきりとしているだけで、
堀切や郭っぽいものはあるにはあるが、どこまでが遺構かよくわからない。
この付近に良くある、道脇の高くなったところに作られた「構」に近い。
ここから北に少し行ったところにある佐用構にいた佐用範家が築いたものとされている。


佐用構



現在では佐用小学校と佐用幼稚園になり、その面影はほとんど残っていない。
写真部分が、おそらく唯一残っている石垣部分と思われるが、(右の草に覆われた部分)
実際のところ良く分からなかった。
鎌倉時代に佐用氏が築いたものとされている。


ということで、この日の日程も無事に終了し、ホテルに車を停めた後、飲みに行く。
何を飲み食いしたかは、あれから半年も経ち、当時の記録もなく残念ながら覚えていないが、
またも失敗したことだけは良く覚えている。
姫路城だけでなくこうしたところもしっかりと整備していて欲しいものである。



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