山陰遠征2 〜悪夢の遠征〜

平成16年9月23日〜26日



高瀬山城(右奥)



結果から言うと、雨に祟られて、蚊柱に襲われ、車をぶつけて、財布とデジカメを盗まれた。


…しばらくの間は凹んで書くどころじゃなかったのだが、3ヶ月経って大分落ち着いて来た。思い出すたびに凹みそうになるが、がんばれ自分。


#3日目までの写真は窪谷さんからいただいた物を使用しています。



○9月23日

うちの会社は出勤日になっていたので、23,24日と2日も有休を取る羽目になった。何やってんだ、うちの会社は。
前日まで雨が降っていたが、当日は晴れ。足場は悪いだろうが、雨が降っているよりかは増しだ。


津山線の金川駅に0946着の急行で来られる、窪谷さんと薬田さん(仮名)を迎えに行く。30分早く着いたので、目標地の幾つかをカーナビに記憶させておく。
事故、乗り過ごし、といったアクシデントも無く合流。そのまますぐ北にある金川城を目指す。



金川城


左:本丸周辺、右:二の丸の井戸




町役場のすぐ西にある登り口から入るのだが役場の駐車場は一杯で、周りに適当な場所も無く、少し離れた学校の脇に駐車して歩く。入り口には親切にも印刷した地図が置かれていた。
比高200m程で、25分ほどで本丸に到る。
本丸の北側にある井戸が大きく深く、その印象が強くて本丸の様子はあまり覚えていない。普段なら写真を見ながら思い出すのだが、写真が無いのでそれが出来ない(上の写真は二の丸の井戸)。
北の丸はHPの情報で藪という話だったので、道林寺丸へ下ろうと途中まで行きかけたのだが、地図から70m近く下らなければならない事実が判り諦める。(後で写真を見たら良さそうだったので後悔するが)

備前西半分に勢力を張った、松田氏の居城。
承久年間(1220年前後)に築かれたとの記録もあるが不明。永禄11年(1568年)に宇喜多直家に滅ぼされた後には浮田春家が入るが、宇喜多氏が関が原で滅んで小早川家に代わった辺りで廃城になったものと思われる。



県道61号線を西へ。



徳倉城


左:大手門付近の石垣、右:本丸




県道沿いに看板と登り口がある。車を停めて登る準備をしていたら、地元のおばさんから搦め手からの方が登るのが楽だと教えてもらい、そちらに変更。
民家の下の狭い場所に車を停めさせてもらい、城山の南を西へ越える林道を尾根筋まで登り、そこから城へ取り付く。看板も有り、足場も良く、確かに登りやすい。15分程で本丸へ。
大手門周りの石垣が素晴らしい。岡山の山城に多い石垣の立派な城で、本丸の周りは藪に埋もれているものの全部石垣のようであった。
大手道を少し下り二の丸、大手郭を見てみるが、こちらは荒れていて見る影も無い。藪や木を刈って整備すれば、かなり見ごたえがあるのに残念である。

応仁の乱の際に備前西半分を領していた松田氏が金川城と富山城との繋ぎに築いたと言われている。その後、松田氏の重臣の宇垣氏の居城となり、松田氏滅亡後は遠藤河内守が入る。関が原の戦い後に廃城となったようである。


雨が降り出したので慌てて下山。下り切った頃には本降りになる。



移動をしている内に雨が上がり、先程までの豪雨が嘘の様に晴れ渡る。湿度と温度が高くなり、足場はぬかるみ、草には露と、山登りには最悪な状況が揃う。

岡山空港の脇にあった中華料理屋で昼食。一見普通の安っぽい店なのだが、自分が注文したちゃんぽんは生姜が良く利いて美味しかった。





勝尾山城


赤の×印が断念した場所

三叉路の近くに久保農園への看板があり、その脇の道から山に入る。
直にT字路になっている。方向からすると左に曲がって山に取り付くのだろうが藪化している。さすがにこれは無いだろうと右手に進む。その内にまた左右に別れるので、左に曲がって山肌に取り付く。しかし実はこの道は椎茸栽培の為の道で、登って行く内に行き止ってしまう。
慌てて最初のT字路に戻る。藪化した方の道を分け入ってみると、確かに上に続いている。しばらくは我慢して登ってみたが、100m程で藪がグレードアップし始めたので諦めて引き返す。恐らくこの道で正しいのだろうが、鎌を持ってくるか冬を待たないと、とても登れたものではない。

谷を挟んで西にある忍山城に対する付城。天正6年(1578年)の忍山合戦の際、忍山城を抑える為に吉川広家と伊賀与三郎が篭ったといわれている。


県道71号線を抜けて、建部町へ。

白石城


左:本丸、右:本丸を下から




テレビ塔があり、その為に道が良い。15分程で本丸へ。
本丸は木が切られているので眺めが良い。矢張り本丸はこうでなくてはならない。
途中の郭にある縦堀(らしきもの)も素晴らしいが、縄張り図が無いのでどこまで本物かわからない。

嘉吉年間(1441年〜44年)に赤松氏に属した田淵氏光が築城したといわれている。永禄7年(1564年)に宇喜多勢に攻められて落城した後は、金川城主松田氏、宇喜多氏の支配を経て、関が原の戦い後に廃城になった。


国道53号線を北上。



鬼山城


左:南側の郭の状況、右:北側の郭






黒塗りは土塁

打穴中付近というのは判るのだが、本の地図がいい加減なので肝心な場所が判らず、辺りを彷徨う。25000分の1と照らし合わせながら漸く発見。本丸の直下まで林道が続いている。
三原の古高山城よりも規模は断然に小さいが、同様に谷を挟んだ2つの尾根に郭の並んだ、面白い縄張りをしている。
ただ、台風の為に倒木が多く、見て回るのが大変だった。また本にあった石垣は見つからなかった。

宇喜多氏の家臣、玉置玄蕃守が3万2千石を領して築城。天正2年(1574年)に出雲の尼子照平に攻められて落城。玉置玄蕃、尼子照平共に討死する。


当初の計画では荒神山城にも行く予定だったが、雨が酷くなったのと、雨で日の暮れが早くなった為に、登り道のしっかりしていそうな神楽尾城を目指す。
しかし雨は止まず、周りも暗くなってきたので、諦めて安全牌である院庄館へと向かう。


院庄館


左:北側の土塁、右:疑惑の土塁




車を神社の駐車場に停めようとした時に、後のバンパーを看板にぶつけてしまう。かなり派手に凹んでしまうが、幸いに凹んだのはバンパーだけで済む。これが後部ハッチまでいわせてしまっていたら、そのまま泣きながら神戸に帰ってしまっていただろう。(結果的に、ここで帰っていた方が被害が少なかったのだが…)

神社の西と北に、50cm程の土塁が辛うじて残っている。南西部に2m弱の土塁もあるが、弓道の的の後の土盛りでないかとの事。近所の子供達に不審がられて声をかけられるが、矢張りどう見ても不審者だ。

鎌倉から室町期にかけての美作守護職の館跡。太平記で児玉高徳が桜の木の皮を剥いで文字を書いた事で有名。



雨の中、米子道を北へと向かう。
今夜の宿は素泊まりなので、途中スーパーかどこかに立ち寄って夕食を購入しようとするものの、米子を過ぎてからは1軒のスーパーも見つからず。境港市街を30分程彷徨った挙句、埋立地に大型のスーパー兼ホームセンターを漸く発見する。
どうも極端で、境港中のスーパーを全部ここに集めたというくらいに大きい売り場。山のような食品の壁の中で、飯に酒に翌日の朝食に飲み物にと、1時間くらいうろうろしていた。


駅前の民宿に泊まる。素泊まりで4000円。
外は大雨が降っていた。

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