平成17年4月9日〜10日



○4月10日

午前5時半起床、6時出発。
朝飯前の1城、という事で亀老山の山麓にあるという隈ヶ嶽城へと向かう。



隈ヶ嶽城


左:妙法寺と村上義弘の墓、右:土塁(石垣?)脇の「隈ヶ嶽城参考地」の標柱


左:見張り台付近の段、右:道路脇に見える平坦面



大島のミニお遍路の一つ、妙法寺というお堂が亀老山の中腹に有り、この横に村上義弘の墓と呼ばれるものが建っているとHPの情報にあった。大系にある卍マークは恐らくこの妙法寺であり、この妙法寺の北に目指す隈ヶ嶽城があるだろうと推測して寄せる。
亀老山のドライブウェイを登り始めて少しすると、「村上義弘の墓」という看板が道の脇に建っていた。しかし思わず行き過ぎてしまったので、ついでに一度真上まで走って様子を見てみると上には何も無い。車を転回して再び看板の位置まで戻り、山道に入る。2分としない内に、妙法寺と村上義弘の墓らしきものが現れる。
これはあっさり勝利か、と一通り写真を撮った後に北に延びる隈ヶ嶽城の郭群を探しに行く…筈が、付近に城跡らしき物が全く見当たらない。地図が間違っているのかと、妙法寺の上(南側)も見てみるが、すぐに車道に行き当たる。頭が真っ白になる。
「また大系の地図がいい加減だったのか?」
とにかく何も無いので車まで戻り、次の対策を練る。ここが駄目となると他に有り得そうなのは、高龍寺の東にある尾根か。と車に乗ろうとした時に、ふと道路脇の地形が城の平坦面に見えた。
まさか、と思って藪に入ってみると確かに平坦面。北(上)には3段の平坦面がある。おまけに一番南の段の土塁(石垣?)の脇には、「隈ヶ嶽城参考地」という標柱が転がっていた。…何とか隈ヶ嶽城発見。

鉈で藪を刈りながら入ってみる。南の3段の郭は藪が酷いが、北に延びる郭は比較的薄い。その内に2つほど段があり、その上に櫓台のような3m程の土盛りがあった。大系の縄張図による見張り台なのだろうか。内側の斜面には判り難いが所々に石が張られている。そしてその先にも大きな郭が続いていたのだが、時間的にも藪的にもキツクなってきたので引き返す。

村上氏の城と伝えられているが、この城が築かれた鎌倉時代頃には村上氏にこの規模の城郭を築く力は無いと見られており、実際どういうものか良く判っていない。高龍寺のHPによると、元々この城の辺りに高龍寺の前身である龍慶寺が建っていたが、火事で焼けた為に今の高龍寺の位置に移り、その焼け跡に隈ヶ嶽城が築かれたと書かれていた。今残る遺構はこの古代の寺の物かもしれない。



宿に戻ると午前8時。急いで朝飯を食べる。建物が悪かった割に気の利いた美味しい朝食だった。
チェックアウトして宮窪港へ。



能島城


臨時の渡し舟、一応フェリー。臨時なので行き先も手書


左:上陸前、右:本丸から北を望む


左:本丸平坦地、右:矢倉


左:矢倉から能島南東部と鯛崎島、右:三の丸


左:本丸北の舟隠し、右:三の丸北の崎の海流、まるで川


左:出丸から鯛崎島を望む、右:三の丸南のピット(というか柱穴)



午前9時を多少過ぎて、漸く第一便が到着。往復で500円を先払いして乗船。
上陸と共に一気に階段を駆け上がる。自分は花見客が居ても気にならないのだが、窪谷さんは城の写真内に人が入る事を極度に嫌う為、花見客が城内に広がりきらないうちに写真を撮ってしまわなければならないので必死だ。
城内はよく整備され、矢竹等も直前に刈ってある。至る所に植えられたソメイヨシノは何れも満開で、眩しいばかりの薄桃色の為にカメラの露出が振り切ってしまい、邪魔である。
そして何よりも驚いたのは、島の周りの海流の激しさである。まるでユーコン川…もとい苗木城下の木曽川の様に轟々と流れている。ディーゼルエンジンを積んだ渡し舟が大きく流されて走っているのを見ると、とても昔の手漕ぎの船では城に近付けなかったのではないかと思えてくる。小さいながらも、ここが能島村上家の詰めの城である事も納得できる。

能島村上家の詰めの城。天文12年(1543年)に跡目相続を巡って本家と分家とで能島攻防戦が行われたといわれている。その後、天正13年(1585年)に村上氏が竹原へ移封したのに伴って廃城となった。



木浦城


頂上平坦部。往時の姿は見る影も無い


左:危険なので梯子の外された物見櫓、右:西西南方向を望む



伯方島に渡り、木浦の町の北にある木浦城へ。比高は結構あるが、頂上まで立派な車道が付いているので登るのは楽であるが。
現在は完全に別物になっている。遺構も全滅…古墳は残っているのに。ただし偽天守閣からの眺めだけは良い。

源平合戦の頃、伊予河野氏の武将であった紀氏によって築かれたといわれている。承久の変で後鳥羽上皇についた為に鎌倉側に攻められて落城した。



長崎山城


左:西側、右:平坦部



星ヶ浜城へと向かう途中、地図に神社マークが入っている事に気が付いて急遽立ち寄る。規模こそ小さいが楽に稼げた。付近に野犬が3匹うろついていた。見た事も無い種類の犬だったが島特有の犬なのだろうか。

伯方城城砦群の一つ。伯方城は能島村上氏の大根城である。永禄12年(1569年)に大根城を今治の国分山城に移した後は能島義久が入っていたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の四国征伐後に廃城となった。


北浦城


左:城の丘、右:城跡に建つ老人ホーム


左:老人ホームのすぐ東に建つ城薬師、右:城薬師の裏の尾根筋にある墓地



窪谷さんの持ってこられた資料に北浦城があり、その資料によると現在は城跡に城薬師と呼ばれる寺が建っていると書かれていたので、星ヶ浜城へ向かう途中に駄目元で寄って見る。
地図に駐在所を見つけたので聞きに行くと警官は不在。電話で城薬師の場所を聞いてみるが判らない。仕方が無いので駐在所内の1万分の1の集落の地図から寺マークを探し、それらしき場所を発見、突っ込んでみる。
古い寺が建っており、付近を掃除していたじいさんに尋ねた所、ここが城薬師との事。城跡には他に老人ホームも建っている。
城薬師裏の尾根は墓地になっており、何か遺構が無いかと尾根を登っていくと、竹薮になり、雑木林になり、それでも道は続いていくのだが、これと言った城郭の後ろ手に有る筈の堀切りが見つからない。諦めて降りる。

詳細不明。



星ヶ浜城


左:最突端部、左下の石碑は胡さんだか大黒さんのもの、右:郭間の段差


左:本丸?周辺の平坦地、右:岬の先端部



民家の脇を登る歩道で尾根筋まで登り、畑の西側の平坦面を進むと郭らしき場所に出る。
これまた大系の縄張り図がいい加減であり、実際は郭群は直線上には並んで居らず、並びは途中で折れ曲がっている。また郭間もハッキリとした段差が少なく、どこが本丸でどこが二の丸なのか、今一ピンと来ない。最先端部も縄張り図での端部なのか、それとも一つ手前の部分なのか、判らない。更に縄張り図の最南端にある出丸というのが、結局どこに当たるのかも判らなかった。
一応確認の為に歩道の南側の尾根筋もしばらく登ってみたが、城砦の遺構らしきものは見つからなかった。

城主は永禄年間(1558年〜70年)は因島村上氏の配下だった赤畝加賀守といわれているが、定かでない。
本来は、星ヶ浜城の他に鷲岩(地図では127mの三角点がある山)の周りに幾つかの城砦が築かれ、それらが1セットとして機能していた。



御串山城


左:大系の縄張り図での本丸の西の郭群を見下ろしている、右:平坦部


左:数少ない段差らしき痕跡、右:岬を真西から



大三島に渡り、宮浦集落を突っ切って御串山へ。
遊歩道が整備されているので、尾根の鞍部に登って尾根沿いに山へ寄せるのは楽である。しかし、だらだらとした平坦部は続くものの遺構らしきものが殆ど見つからない。しかも奥に行けば行くほど荒れてきて、恐らくは大系の縄張り図の本丸の西にある郭群と思われる段々を見つけたのだが、写真に写しても何が何だかわからない状態。折角遊歩道をつけているのだから、手入れをして三角点の位置に展望台と東屋くらい建てて欲しい物である。

大山祇神社の守護城の一つ。



台城



城跡と思われる丘は確認できたのだが、登り口が見つからない。県道沿いに2つほど有ったものの、山麓の蜜柑畑の道っぽい。山の北東部に車を寄せようとしたが道が狭すぎて寄せられず、遠目に見ても登り口らしき物は無い。北まで回りこんで車を停め、付近の民家で作業をするじいさんに道を尋ねに言ったが耳が悪くて話にならない。ともかく山へと続いていそうな道があったので登っていってみると、小さな社へと続いている。社の裏の藪を刈ってみると更に奥へと続く道があり、また社の脇に3,4本の杖が置かれているのをみると、恐らくここが登り口だと思われたが、確信が持てなかったので諦める。

大山祇神社の守護城の一つ。南北朝時代に祝彦三郎安親によって築かれたといわれている。

焦っていたので写真を撮り忘れた。



明日城


左:南麓に建つ看板、左脇に道が続く、右:道の駅から




時間が迫ってきたので、大急ぎで明日城へと向かう。
ここも事前に登り口が判らなかったので、まずは山の北側に回り込んでみる。ここも道が悪い。畑仕事をしているおばあちゃんに聞いてみると全く知らないので、南に回る。
南の道を東に走ると、立派な看板を発見する。図面も載っているが、肝心な登り道に関する情報が一切無い。しかし看板の左脇から道が延びており、これが登山道だろうという事で攻撃。
が、蜜柑畑の中を横切って山に入ろうとした所で、道が完全に藪に埋まってしまった。周辺を探索してみても他に道らしきものは無く、諦める事にする。

大山祇神社の守護城の一つ。城主は明日兵庫守という。
大三島は大永2年(1522年)と天文10年(1541年)の2回にわたって安芸警固、周防大内家に攻められたが、その際に戦場となったらしく、合戦を物語る言い伝えが残っている。


この時点で午後3時を回ったので、終了。昼食を摂る時間も無く、大急ぎで福山を目指す。
福山市街は渋滞が酷いので、尾道からは多少遠回りだが山陽道に入り、また裏道を辿って福山駅へと向かう。何とか無事時間内に送り届ける。
しかし、駅からもう一度山陽道に戻るまでに渋滞に捕まり、15分そこらの道に1時間弱もかかってしまった。



総括:
心配していた天気の崩れも、事故も、盗難も無く、取りこぼしが2,3出たものの無事に終えることができた。

今回の遠征のメインは水軍の城だったが、水軍の城は規模が小さくて寄せやすい反面、海を防御物として利用している為か土塁や堀切りといった遺構が殆ど無く、物足りない所がある。ただし見張り台としての役割が大きいので、海の眺めは最高である。
また瀬戸内の水軍城というと、普通ならばフェリーや渡し舟を使わないと行けない物が多いのだが、しまなみ海道開通のおかげで車で直接巡りやすくなった。このしまなみ海道の通る島々には遺構の良く残っている城も多いのだが、ミニ遍路関連の整備は手抜かりなく行っているのに対して城跡に関しては余り熱心でない。因島以外の城でまともだったのは能島城だけである。まあ、こういう趣味を持つ人間が絶対数は少ないのは判るが、貴重な歴史資産を放ったらかしにしたままというのも、どうだろうか。


戦果
	攻撃対象	18城

	うち 棄権	2城

			16城	攻略

             (福山城を除く)

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