しまなみ海道水軍城遠征

平成17年4月9日〜10日


能島の桜


来島、能島、因島の三島に拠った村上水軍。その一つである能島は、かつて島全体が城郭化された有名な水軍城であったが、現在は無人島になっている。しかし地元はこの能島を公園化して桜を植え、桜の咲く季節にだけ花見の為の渡し舟を出すという粋な事をやっている。

「これこそ当に渡りに船。これを期に念願の能島攻めを強行すべきである。」
窪谷さんから初めて能島攻めの話が出たのは、まだ寒い二月末の事だった。
「といって一般の花見客が居ると邪魔になって記録写真が撮れなくなってしまう。そうなると打つ手は一つ。前日の内に対岸である宮窪の集落に入り前泊して翌朝の一番船で渡海。一般客に踏み荒らされてしまう前に島内を回って、早々に退却。これしか手は無い。」

そして3月中旬に花見の日程が4月9、10日の2日間と決まると、前泊の為の宿を窪谷さんが早々に手配した。更にハイランド出身の強力な助っ人である薬田さんの出陣も決まり、1泊2日の強行軍による「しまなみ海道海賊討伐遠征」が開始されたのである。


情報源:
日本城郭大系 広島県、愛媛県
因島市のHP
「因島のお城めぐり」
どこかの青影山登山のHP
高龍寺のHP
大島お遍路関連のHP
(リンクはめんどいので張りません)




○4月9日(土)

朝一番の新幹線で来られる窪谷さんと薬田さんを拾う為に福山駅へと向かう。予定よりも10分ほど早く到着したので、駅のすぐ北にある福山城に立ち寄ってみる。


福山城



散々に目の前を通過していながら、これまで一度も行った事が無かった。案外とまとも。
丁度城内の桜が満開で、至る所に花見客が溢れていた。時間が無いので5分程でさらっと流して駅に帰る。


午前10時前にお二方と合流し、国道2号線を西進、しまなみ海道の入り口である尾道を目指した。

今回の作戦の概要はこうだ。
まずは海道の北側にある因島、生口島の諸城を攻略し、戦闘後前進で大島は宮窪で一泊。
そして翌早朝に大島の隈ヶ嶽城を落とした後に朝食、チェックアウトして能島攻め。それから伯方島に渡り、時間があれば大三島も攻撃。ただし2日目は天気が下り坂なので、雨が降り始めた場合には大山祇神社の宝物館を見学する、という万全のものだ。



意気込みは上々だが国道2号線をすんなり抜けられず、午前11時過ぎに漸く因島に上陸する。


幸崎城


左:本郭の社、右:向島を望む


左:西側、家の辺りが切り通し、右:麓の桜




麓にあるという斎島神社を目指すのだが、道が酷い。迷って北から西へ大回りしたのだが、車幅を取りにくくなって2度程車を降りる羽目になった。

神社の敷地に車を停めて本殿に上り、裏にある蔵の裏から山に入る。頂上には社が建っている。
植えられている桜が満開で、背後の島と海の景色と相まって奇麗だった。社の裏にも平坦部が続いているが、堀切りや土塁といった判りやすい遺構はなく、どこまでが城域なのかはハッキリとしない。
写真を撮っているとおっちゃんがやってきて、翌日曜日にここで花見の宴が開かれると教えてくれた。ついでにこのおっちゃんに記念写真を撮ってもらう。

村上吉房が永正―天正年間(1504〜92年)頃に居城していたと言われている。

また南東の大楠山の北麓にも土居城と呼ばれる館跡がある(らしい)



青木城


左:本丸、右:西の郭


左:北西隅の郭、右:入り口の床屋



HPの情報の通り、県道沿いにある理髪店の脇に城跡への看板が。5分ほどで頂上。道は荒れ初めているが、軍手や鉈までは必要ない。
本丸頂上には小さな祠が建っている。石門に「八紘一宇」と彫られているので、これらは戦中に建てられたものなのだろう。平坦地があるものの、堀切りや土塁といった防御施設は見当たらない。

築城の年代は不明。永禄10年(1567年)に向島の余崎城から村上吉充がここに移ってきたとの記録が残っている。



馬神山城


左:本丸、右:本丸から二の丸を望む


左:二の丸から西を望む、右:登り口脇の看板



青木城の西500m程先の岬の先端にある。HPの情報から山の南側の車道沿いに登り口がある事が判っていたので南側の道を進むものの、行き違いが出来ない程に狭い。転回できるか心配だったが、道のどん詰まりまで進むと3台ほど停められそうなスペースがあったので、ここに車を停めて歩く。
登り口から10分ほどで頂上に出る。眺めが良い。2つの郭で構成されており、他の城と同様に堀や土塁といった際立った遺構は見当たらない。

築城の時期、城主は不明。末永景光とも言われている。



長崎城


左:ナティーク城山、右:入り口脇の看板と碑


左:岬の先はテラスになり、客が美しい眺めとティータイムを楽しんでいる、右:明らかに異質な我々の姿



ユニバーサル造船(旧日立造船)因島工場の入り口の横にある小さな岬が長崎城である。現在はナティーク城山が建つ。午後1時を回っていたので、ついでにここで昼食にする。
ところが驚いた事に、このレストランでの最安メニューが2500円(税別)もする昼のコース。カレーが1000円くらいであるだろうと高を括っていた我々を窮地に追い込む。と言って座席に案内されてメニューを見た後での退却も面子に関わる為、城郭班始まって以来の高価な昼食を摂る事となってしまった。
コースは、前菜に鰯の香草焼き、春キャベツのスープ、そしてメインディッシュに牛フィレ肉のカツレツ、デザートは抹茶アイスクリーム、食後にコーヒー。ワインに合う料理なのだが、運転&城攻めの最中なので飲むことが出来ない。仕方が無いので無料の水ばかりガブガブと飲んでいた。
食前食後を縫って撮影。南側から水道を見下ろす景色は素晴らしい。3000円弱の投資をした甲斐はあったというものである。

築城期は15世紀頭頃、城主は不明。
村上氏の因島への橋頭堡とも言われ、弘治3年(1557年)に村上吉充が向島の余崎城に移るまでは因島村上氏の本拠地であった。





長崎城から東方向の風景。階段のある丘が荒神山城だが、遺構は残っていないらしい。



美可崎城


左:駐車場から、右:本丸の東屋


左:二の丸、蜜柑畑、右:本丸脇に建つお堂



因島南東の岬の先端にある。情報元のHPの写真には比較的大きな道路が写っていたので楽勝かと思いきりゃ、狭い道。間違った道に入ってしまったのかとも思ったが、帰りに走ったもう一方の道も狭かった。どうも道が広いのは岬の周辺だけである。
道路脇に広い駐車場があり、図面と説明書きもある。駐車場から3分ほどで城跡に出る。本丸には展望台の東屋と寺の御堂とが建ち、一段低い北側の二の丸は蜜柑畑になっている。眺めが良い。

長崎城と同時期に築城されたと見られている。言い伝えでは因島村上氏の武将、南通弘がヒウチ灘を通行する船舶から帆別銭などを徴収する事を目的として金山康時を城番として置いたという。



千守城


左:本丸を下の段から、右:本丸


左:本丸から下の段、右:井戸跡



三庄の町の北にある小山が千守城である。登り口がハッキリしていなかったので近くにいたおじいさんに聞いてみると、丁寧に教えてもらえる。
県道脇に車を停めて、言われた通りの道を進むと、選挙の後援会事務所の脇の細い路地に登り口があり、説明の看板が置かれている。
登り口を進むと山裾を北に回され、小さな御堂の脇から南に折れて山へと取り付く。頂上の本丸までは10分ほど。神社が建ち、郭は良く整備されている。ここにも桜が植えられており、満開だった。石段脇には比較的深い井戸も残っている。

南北朝騒乱期に因島に進出した小早川氏の城といわれている。因島村上氏が進出した際には村上氏の武将の篠塚貞忠の居城となった。



青陰城


左:西の郭から東の郭、右:西の郭


左:東の郭、右:長崎城・島前城辺りを望む



青影山登山関係のHP情報から南側からの方が道が確実で、地図から比高を稼ぎやすい事も判っていたので、南から寄せる。しかし付近の道は悪く、転回も難しいような行き止まりに迷い込んだりした。小学校の脇の道を北上するのが道が良い。
狭い道をどん詰まりまで進むと、城山の南麓にある清水寺の為の駐車場がある。2台程で一杯な上に2台停まっていると転回できないので、運転に自信が無い場合には一つ手前の寺に停めて歩いた方が良い。
駐車場脇の登り口から頂上まで15分程。道は良い。途中の開けた尾根部にある石碑の傍で井戸跡のような石組みを発見するが、本当に井戸かは判らない。
頂上には東西一箇所づつ大きな郭がある(2つの郭の間も郭と言えば郭)。頂上からの眺めは最高に良い。

南北朝騒乱期、北朝方である小早川氏に対する伊予衆が、東にある堂崎山城の防御の一環として築いたのではないかと言われている。青陰城には南北両山麓に館跡を持っており、北の館跡は後に因島を制圧した村上氏、南のものは南北騒乱時の伊予衆の今岡氏のものと言われている。



島前城


左:碑、右:南側に転がるカーペット


左:中継塔の建つ丘。北東に登り道が付いている、右:平坦部


左の郭が島前城、右の2つの郭は蜜柑畑と中継所、一応城の一部っぽい

長崎城に入る前に一度攻めていたものの情報源に有った碑に行き当たらず、無線中継所が建つ平坦面まで至ったので取敢えず後回しにして長崎城へと向かったのだが、間違った場所を攻めていた可能性もあるので因島を離れる前に再度確認に立ち寄る。
素直に「図書館の西」という情報源の言葉を信じて寄せて見ると、すんなりと写真にあった碑を発見する。午前中の藪中行軍は一体何だったのか。(悔しいので、中継所の建っていた郭らしきものも記入。恐らく見張り台か何かであったのは確実)
図書館建設の為に大きく削られ、辛うじて一部が残る。現在は畑だか何だかになっている。眺めは良いが、複雑な気持ちである。
村上直吉の城と言われている。因島村上氏初期の、長崎城の前衛を勤めたと思われる。



俵崎城


東の道路脇から


左:本丸の藪、中:本丸から神社、右:井戸跡



午後4時を回り、大慌てで生口島へ渡る。茶臼山城は無理でも俵崎城だけはと耕三寺へと向かう。

ここも迷う。城郭大系の記事によると「向上寺の建つ丘に相対する南の丘陵の先端部にあった」「現在、城跡は、丘陵の最高部を中心に北に郭が一段張り出し、東方の海に向かって郭三段を連ね」…丘陵の先端部って東と西と両方あるけどどっち?、それに東方の海って何?(地図を見てもらえば判るが、東側に海など無い)

コナン並みの名推理を働かせて「耕三寺のある丘にあることは間違い無い。文中の東方は西方の書き間違いで、地形からしても海に張り出した丘陵地の西端と見るのが普通。」と、渋る窪谷さんを強引に解き落とし西側へと回り込む。
大系には他にも「南に厳島神社が有り」とあるので、地図の神社マークを元に当たりを付けて登ってみるが、碑は無論、はっきりととした遺構すら見当たらない。そうこうしている間にも、日はどんどんと陰ってくる。

改めて捜索し直しという事で、今度は地図からしても一番まともそうな東端の丘陵へ。近くにある耕三寺の駐車場に車を停め、付近を捜索。それらしき丘に向かう道を発見して登る。

どうにか神社のある平坦地に辿りついたものの、碑も何も無い。呆然としていると、近所のおばちゃんらしき人が登って来た。何をしているのかと問われたので、俵崎城を探している旨を伝えたところ、この丘陵が俵崎城である事を教えてもらう。目の前に建つ神社は最近建てられたもので、この城の合戦で死んだ城主を弔ったものだそうだ(大系には無かったけど)。また神社の建つ平坦部の南にある本丸は、西を走る道路工事によって3分の1に削られてしまった事も教えてもらう。無理だというのを押し切って5mの段差のある本丸に強引に登ってみると、一面草と雑木。写真だけ撮って降りる。
また、神社の平坦部の一つ下の段(東側)に、空井戸がある事も教えてもらう。深さは無いが、立派な石組みである。
神社の建物の裏、北側にも郭が続いているが、完全に藪になっているので諦める。
大系に「東の海に」という記事があったのは、恐らく昔は東側まで海が迫っていたのを最近になって埋め立ててしまった為なのだろうと思われる。ともかく30年以上経った記事というのは疑って掛からなければならない。

南西にある茶臼山城を本城とした生口氏の城。瀬戸田港を経営する為の水軍城的性格を持って築いたのではないかといわれている。


茶臼山城



行けなかったが茶臼山の予想位置図。標高190mというと、この2ヶ所が考えられる。中野ダム(下の端)から茶臼山まで遊歩道が造られているらしいので(恐らく地図の破線道か?)、最悪でも中野ダムまで行けば、登山口にはたどり着けるだろうと思われる。
城郭大系の記事には、「北東に開けた城の前面には、小さな丘が階段状に二段並び…」とある。これは北西の誤りでないかと思うが、どうなのだろうか。



午後7時前に宮窪到着。宿の傍のスーパーで、夜の酒と翌日の飲み物等を購入。

宿は宮窪唯一のホテル。ただ建物はかなり古くてホニャララ。
夕食は豪華。つい昨日港に揚がり始めたという地物の海老が、焼き・蒸し・揚げ・刺身と調理法を駆使して並べられ、他に鯛の姿造りに蛸料理、偶々手に入って煮付けたメバル等々、というか写真に撮ってなかったので忘れてしまった。デザートに苺。
量が余りに多すぎたので3割くらい残してしまう。

大量の料理を肴に酒を飲む。3時間程飲み食いして、へべれけになって寝る。
もちろん、寝る前に薬田さんに漫画ナポレオン(長谷川哲也)の布教活動も忘れない。一応受けた。



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