北近江遠征2006

平成18年10月8日〜9日

鎌刃城主郭からの展望



○10月9日
0630起床。0730出発。
いつもの城郭班なら日の出時刻には第一攻略目標に到着しているのが普通なのだが、今日残っている城が佐和山と鎌刃という美味しい城であり、日の出直後の写真に撮り辛い横からの光を避ける為に、遅い出発となった。



佐和山城


左:西の丸の北端の堀切、右:本丸



左:本丸から南方向の展望、右:太鼓丸の土塁




西麓にある竜潭寺の裏から登る。
本丸周辺と遊歩道は整備されているが、西の丸と太鼓丸は内部が藪化しており、更に二の丸などは道すらない。いいのか?こんなので。大手門付近まで買い上げて全体を公園化すれば良さそうなものだが、すぐ近くに彦根城があるから金が回らないのだろう。勿体無い話だ。

12世紀末に佐々木氏によって築城。六角氏領有後、磯野氏が入城。以後丹羽長秀、堀秀政、堀尾吉晴、石田三成、井伊直政と代わり、廃城になる。




鎌刃城


左:南西端の大堀切、右:南西端付近の石垣(下)



左:南西端付近の石垣(上)、右:南西端の郭



左:南西端の郭の門跡の石垣、右:南西端から主郭にかけての郭



左:主郭と土塁、右:主郭の門跡の石垣



左:主郭とその南にある副郭の間の堀切、右:主郭の南下の石垣



街道沿いに建っていた看板の縄張図、左側が北



今、近江で一番ホットな山城である。
登り道は主に4通りある。AとBは山道、CとDは林道。始めは比較的道が良いとされているDを攻めてみるが、舗装工事で通行止めになっていた。続いてCを攻めてみるが、轍が高くてカローラの腹に石が当たり始めたので、鬼バックで撤退。仕方が無いのでAの道を歩いて登る事にする。
街道の看板付近に車を停め、鉄塔の脇を歩いて高速道路を潜る。潜った直後に道が判りづらくなるが、竹薮の中を右斜め前方へなだらかに登っていく道が正解。尾根筋に取り付いてからはひたすら緩やかな尾根道。歩き易いのだが、城跡の手前から急に道が悪くなるので足に自信が無ければCの林道を歩いて登るのが良い。麓から30分くらい。
北と南に2筋の郭群が並んでいるが、気軽に探索できるのは北側の郭群だけで、南側の郭群への道はハッキリ判らない。軍手と鉈があれば南側の郭群も攻められると思われるが自信がある人にしか薦められない。
発掘された遺構は殆ど埋め戻されている。南西端の郭付近の門跡の石垣と郭の南斜面下の石垣(上下2ヶ所)、また主郭の門跡の石垣はそのまま残されているが、主郭の南下の石垣は埋められて良く判らなかった。

鎌倉時代に箕浦庄の地頭だった土肥氏によって築かれたといわれている。その後、堀氏が入り、堀氏が織田方に寝返った際に織田方の城となる。現在残っている遺構はこの頃に改修されたものといわれている。




北上する前に、国道21号線沿いにある「忠太郎食堂」にて昼食。知らずに入ったのだが結構有名な食堂だったようで、1時を回っているにも関わらず多くの客がいる。
独特の注文システムが判りづらく手間取ったものの、安くて美味しい昼食を摂ることが出来た。城郭班の遠征でグルメな物を食べれるとは珍しい(B級グルメだが)。



県道19号線から国道365号線で北上し、帰りの新幹線の時間一杯まで小谷城南側の居館群を攻める。



三田村城


左:南側の土塁、右:北西隅



左:西側の土塁と寺の門、右:公民館の北側にある土塁



大路館


左:表(東側)の道路に面した長屋門、右:館跡の北西隅、右端の竹薮内に土塁らしきものあり




三田村城は2回目。寺の北側に公民館らしきものが出来ていた。土塁が比較的良く残っている。4年前に来た時よりも土塁が見やすくなっているような気がする。
大路館は場所が判らなかったが、勤王家の儒者、三上藤川の屋敷の屋敷跡ということで地元の人に聞いて探し当てる。淡海の文化財の地図のプロット(大路館は08-31)が心持ち北にずれているので要注意。遺構は北側に土塁らしきものがあったくらい。堀もあるらしいが、道路にでもされてしまったのか、それらしいものは見当たらなかった。




内保城


左:南西部側の土塁、右:南東部側の土塁



左:西側の土塁、右:南東側の土塁



東出館


南北に伸びる土塁


長泉寺館


左:土塁跡らしき帯、右:土塁角部らしき場所




内保の中心部に、3ヶ所の城跡が固まっている。

一番しっかりしている内保城は、当時も今も誓願寺である。北面を除く3方向に土塁跡が良く残っている。(ここも「淡海の文化財」でのプロットの位置が微妙に東にずれている)
誓願寺は湖北一向宗の中心的寺院の一つで、湖北十ヶ寺にも挙げられている。

東出館は現在の成満寺の場所にあたる。本堂の東裏に、南北に伸びる土塁跡が残っているだけである。我々が行った際には北側の低い部分しか見なかったが、最高で4m近くあるらしい。

長泉寺館は学校の西側、内保城と東出館とで三角形になる場所にあるらしい。一応住宅の裏手に南北に伸びる土塁跡と思われる帯と、学校西脇の道路から少し奥に入った場所に土塁角部らしい土塁と堀跡っぽいものは確認できたが、文献が無い為にそれらが長泉寺館の遺構なのかはハッキリと確認できなかった。




尊勝寺城


左:平野神社と称名寺の間の東西に伸びる土塁、右:平野神社の土塁の南東隅



左:平野神社の南側の土塁の西側、右:同左の東側




称名寺周辺が尊勝寺城らしいのだが、土塁が残っているのは称名寺と平野神社の間の田んぼの中と、平野神社の三方向のみである。(ここも「淡海の文化財」でのプロットが東側にずれている)
称名寺も一向宗の湖北十ヶ寺の一つである。




1600を回ったので全日程終了とし、解散地である米原駅を目指す。

米原へは国道を避けた為に渋滞にも引っかからずにスムーズに到着したのだが、レンタカー会社指定のガソリンスタンドのアクセスが悪く、最も便利の良いスタンドが休み。その時点で距離の近いスタンドは渋滞する国道8号線沿いで、窪谷さんはそっちへ行こうと言われたのだが、どうも国道8号線に良い思い出が無いので彦根寄りのスタンドを目指す事にした。
しかし渡された地図の縮尺を読み違えており、殆ど彦根駅に近いガソリンスタンドで給油をする羽目になる。慌てて米原駅まで引き返すが、運良く渋滞にも遭わずに期限の1700ギリギリに返車を終える事ができた。危ない所だった。


新幹線の改札前で解散し、一人京都へ向かう。
折角近畿まで出てきたのだからと、京都で博物館・美術館巡りでもして帰ろうと京都に安宿を取ったのだが、京都の博物館・美術館の殆どが月曜定休日、月曜日が祝日の場合は開館して翌日に振替休日というシステムを取っており、火曜日である翌10日には重要な博物館・美術館は殆ど開いていなかった。この事に気がついたのが出発の2日前。仕方ないので高雄の高山寺で色づく前の紅葉を眺めていたが、デジカメの画質をノーマルモードにしたまま気付かずに写真を撮ったので、折角の京都観光もパッとしない物になってしまった。何だかなぁ。



戦果
			15 城	攻略



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