城マニアによる最高のおもてなし(三備)

平成23年1月7日〜10日


富田松山城から伊部方向を





今回の冬の遠征の参加者が、窪谷さんと自分の2人に外国人2人という、これまでに無い組み合わせとなった時から何かが狂っていた。


そして、

「2人の内の1人は一般人だから、最終日は鞆の浦辺りで観光という形にするのはどうだろう?」

という趣旨のメールが窪谷さんから届いたときには目を疑った。


まだ大学生だった自分が、城郭班に入った頃の窪谷さんはハートマン軍曹そのもので、当時の城郭班遠征と言えば海兵隊の訓練並に厳しかった。
夜行列車での現地入り。朝食前の1城。電車のダイヤと綿密に組み合わされた分刻みの攻城スケジュール。日の入りギリギリまでの作戦と疲れた体に鞭打っての戦闘後前進。やっと辿り着いた駅前のビジネスホテルの狭い一室で、閉店間際のスーパーにて買い求めた値引き惣菜によるささやかな宴会。そして騒音に悩まされながらの就寝。
…そうした城郭班の黄金期は、鬼軍曹窪谷さんと共にあったのだ。

今でこそ部隊の自動車化に伴い、当時とは比較にならない程に遠征は軟弱化はしているものの、それでも窪谷さんの見敵必殺の精神は未だ旺盛であり、藪に行く手を阻まれて弱気にも撤退を進言しようものなら、その鋭い眼光でキッと睨みつけられるのである。

それが……最終日の半日だけとは言え、遠征の最中に普通の観光地を回ろうなどと、窪谷さんに有り得ない軟弱な発言。
50を前にした歳のせいなのか、それとも日本人特有の外国人に対する畏怖なのか。
窪谷さんの弱気なメールを前に、しばらく唖然としていた。


しかし。ここで引くことは無条件降伏を飲むにも等しい。

しばらく考えた後に意を決し、老虎を叱咤すべく次のような趣旨のメールを打った。


「我々は、城郭班なのです。
その遠征に参加する以上、例えそれがアメリカ大統領であっても鉄の規則に従うべきなのです。
それに日和見で観光地を入れ込むよりも、我々が城マニアとして最高のおもてなしをすることこそが、彼らにとっても日本における最上の経験となり得るのではないでしょうか?」

「…すまない、慣れない事で混乱していた。城郭班として、城は死守しなければならない絶対防衛線だ。」
いつもの窪谷さんに戻っていた。



一般人の、しかも言語も文化も異なる外国人に対して、城の魅力をどこまで伝えられるのか?
こうして備前、備中、備後の三備を舞台に、我々城郭班の厳しい戦いが始まることとなった。




…という寸劇はともかく、備前から始まって3泊4日の、三備に跨る岡山遠征がスタートしたのであった。







○1月7日

午後に半休を取り、1日早く入岡した窪谷さんと備前で思う存分に山城を堪能することに。
家の近くで合流して国道2号線を東へ進み、西大寺手前で岡山ブルーラインに入り吉井川を渡る。



高取山城


左:東側の堀切、右:本丸東下の三の丸を北西側から


左:本丸の南側、右:本丸の西側


左:本丸から北にある二の丸へ、右:二の丸


左:二の丸から北を望む、右:二の丸から北東を、尾根の先にあるのが砥石城



西大寺から吉井川を挟んで南東へ約5km、邑久町東谷の集落の南西の標高165mの山が高取山城である。谷の入り口にある東谷公民館に案内が出ており、集落の奥の墓地の脇に登山口がある。道は良く整備されているが急な尾根道である。
山頂はなだらかで広いものの、明確な防御施設は南北と東の3ヶ所にある堀切くらいである。本丸の北にある二の丸は展望も良く、北東には宇喜多氏の砥石城も見える。

浦上氏に仕えていた島村氏の居城といわれている。島村豊後守は天文3年(1534年)に宇喜多能家を砥石城に攻め滅ぼすが、永禄2年(1559年)には逆に宇喜多直家に謀殺され、高取山城も攻め落とされてしまう。





再び岡山ブルーラインに戻り、只管東進。片山湾を越えた所で国道250号線に降り、伊部方向へ戻る。富田松山城の山裾をぐるっと北へ周り、野球グラウンドの駐車場に車を停める。



富田松山城


左:東出丸、右:東出丸から本城を望む


左:東下の堀切、右:同左


左:本丸東下の三の丸、右:三の丸の東下の段の東端の土塁


本丸南東角からの似非パノラマ、東から北方向にかけての90度


左:本丸北東角から北西方向を、右:同左から南東方向を、下は三の丸


左:本丸南西角から西を、右:同左の南下にある段を


左:本丸南西角から北西方向を、、右:同左から北方向を


左:本丸北西角から本丸中央方向を、右:同左から南西方向を


左:本丸北西部にある虎口、右:同左を西下から


左:虎口から西下へと降りる道脇にある石垣、右:西端の段にある井戸


左:井戸から更に西下の段、右:本丸南下の段から南東方向を



野球場の南西の道路のヘアピン部に登山口がある。登山道は途中で二手に別れるが、下山道となっている東側の道は沢道で歩き難く、登りも下りも西側の道の方が良い。
三の丸の東下に大きな堀切がある。本丸は広く、四周に低いながらも土塁が周っている。本丸の周辺には幾つもの郭があるが、西側に多い。所々に石垣が残っているが、それ程多くは無い。城域も広く良く整備もされ展望が利き、岡山県内でも屈指の山城である。

浦上氏の城。天正5年(1577年)に宇喜多直家に攻め落とされて後に廃城となった。





本来ならば和気に北上して北曽根城を攻略する予定だったが、思ったよりも時間を食ってしまった為に攻略が不可能となり、急遽代替として居館を攻めることとなった。資料を準備していなかったが、富田松山城の下山中に携帯端末で一度は調べていたホームページを探し出し、場所と縄張りの情報を得ることができた。城郭班にもIT化の波が。

国道2号線を西へ進み、香登から県道381号線を南下して山を越え、磯上山田の集落へ。



堀城


左:県道から城域を望む、右:西側の土塁


左:土塁の北西端、右:同左を北から


左:西側の土塁を北から、右:同左から城域内部


左:北側の土塁を南から、右:東側の土塁跡を南から


左:北東角部の堀、右:南側の土塁跡付近?



南北に走る県道381号線の東側に堀城がある。西と北に土塁が明確に残っているが、地形から方形の城域を容易に伺うこともできる。

浦上氏に仕えていた島村氏の居館といわれている。





夜に地元の名士と会食のある窪谷さんをお送りする為に岡山へと戻るのだが、どこも渋滞。和気から高速に乗るのが一番早かったかもしれない。ともかく時間にはギリギリ間に合った。


駐車場に車を戻し、家に帰って就寝。家の近所が遠征先だと楽で良い。




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