河内和泉 包囲脱出遠征 その1

令和2年11月22日〜23日



慈眼寺(野崎城)にて


 前回の遠征(9月23日)と比べて、状況は悪化していた。

 まず、全国的に熊の出没件数が大幅に増加していた。中国山地にある田舎にも2、3頭のツキノワグマが出て、付近を荒らしまわっていた。数年前まで、鹿やイノシシですら出たことが無かった場所であったが、今では昼間であっても外出に気を付けなければならない地域になってしまったのだ。中国山地ですらこの有様なのだから、安全な地域は九州や四国、近畿の南半分くらいしか無くなってしまった。そこで、Kさんと相談し、今回の遠征地を大阪府の中でも熊の心配が少なさそうな、河内、和泉としたのである。

 ところが、今度は大阪府でコロナの患者数が一気に増大した。11月中旬から新規感染者数が200人を超え、更に遠征直前となる21日には400人を超えた。こんな状況で大阪に1泊2日で旅行をするのである。母親から「本当に行くん?」と聞かれ、返答に窮してしまった。Kさんはこの程度の事で遠征を中止するような人ではない。とにかく新幹線の席を人の居ない場所にし、食事をスーパーやコンビニで済ませて、現地人との接触を極力避けるしかない。

 そして、もう一つ心配だったのが、大阪の道路事情である。大阪の中心部は複雑な道路、荒い運転、保険金目当てに突っ込んでくる歩行者と、酷いを通り越して地獄のような場所である。レンタカーを借りるにあたって、なるべく大阪の中心部を通らなくて済むよう、郊外で借りて郊外で返却するようにしたかった。しかし、当初は東京方面からの参加数が多かった為、JRの特急券と運賃が割り引かれる駅レンタカーの手配をKさんにお願いしていた。しかし駅レンタカーはレンタカー屋の数が少なく、結果的に新大阪駅発着となってしまった。冷静に考えれば、東京からの参加者がKさん1人になってしまった時点で、レンタカーはこちらが手配すれば良かったのだが、切符購入と絡んでいるので今更キャンセルというわけにも行かず、大阪の中心部をドライブさせられる羽目になってしまった。そして結果的には、これが一番大きなダメージを受ける要因となってしまったのである。



〇11月22日

 広島からの方が近かった為、比較的ゆっくりと行くことができた。午前7時30分発、8時 55分着ののぞみで新大阪に入った。三連休の中日だけあり乗客は少なかった。
 腹の調子が悪かった為にトイレに寄った後、コンビニでポカリスエットを買ってレンタカー屋へ。Kさんは既に手続きを済ませていた。慌てて店員に返却時のガソリンスタンドの場所などを聞いたのだが、レンタカー返却の際の、この場所への侵入コースについて聞くのを忘れていた。

 軽自動車に乗り、駅のロータリーを回って南へと向かうが、いきなり立体交差に戸惑わされる。ただ運良く国道1号線へと降りることができた。まずは東の野崎城へと向かう。




Google Mapより



野崎城


左:西端の郭、右:その1つ東上の郭


左:中腹の郭、右:西下から主郭を見上げる


左:主郭の南西下の郭、右:主郭


左:主郭の北下の郭、右:主郭南東下の堀切




 慈眼寺の駐車場を利用したのだが、その日は七五三参りの参拝客で賑わっており、危うく駐車場に停め損なうところであった。というか、そんな日に寺の駐車場に停める方がおかしいのだが、他に駐車するスペースも無いので仕方ない。寺の裏手から東西両方向に遊歩道が出ている。今回は西から登って東から降りた。
 遊歩道沿いの郭は、ほぼ公園化されてしまっており、城の面影はあまりない。何か所かに展望台が設けられているように眺めが良く、大阪平野を見渡すことができるが、それがここに城が築かれた理由なのだと思われる。





飯盛山城


左:千畳敷の北西上の郭([)、千畳敷を南から右:


左:南端の郭、右:南東端の門跡?の石垣


左:主郭(T)南下の堀切と土橋、右:主郭(T)


左:主郭の北端の防空監視哨、右:主郭の北下の郭(U)


左:郭(U)の北東下の石垣、右:郭(V)


左:郭(X)、右:同左北東下の石垣(昭和?)


左:郭(X)北下の堀切、右:郭(Y)


左:郭(X)の南東下の石垣、右:主郭の東斜面下にある修復中の石垣


左:その上の石垣、右:同左




 南東下にある楠公寺まで自動車で行ける。…が、道がダートで狭く登山客も多く歩いていることから、手前の大東市野外活動センター辺りに停めて歩いた方が良い。
 南北の広範囲に渡って郭が続いている。遊歩道が整備されており、主要な郭には苦労せずに行けるが、一方で登山客が多く写真が撮り辛い。そして、あちこちに石垣も点在するが、色々な時代のものが混じっており、どれが中世の物か良くわからない。
 戦争中にここに陸軍の聴音機陣地があったのでそれらしい痕跡が残っていないか期待して見て回っていた。しかし、建物基礎や水槽などのコンクリート製の遺構も多くあるものの、手水鉢が転がっていたりして、それが寺社のものなのか軍事用のものなのか、良くわからなかった。





田原城


左:主郭南東下の郭、右:主郭南西下の堀切


左:主郭東下の郭(U)、右:主郭(T)


左:主郭(T)、右:主郭南西上の郭(奥がW)


左:北西の谷地、右:西端の郭(X)




 巨大な住宅団地の端に、辛うじて残っている。主郭回りはよく整備され、入り口に案内板も建っているが、それ以外の場所は竹藪に埋もれている。また一部タケノコ用の竹林になり、立ち入りが禁止されている。
 2本の川に挟まれた舌状台地の先に築かれているのだが、主郭とされている部分が南西にある郭よりも少し低くなっている。城域がどこまでか不明瞭で、縄張図によっては更に西側のピークを含めているものもある。

 現地で、縄張図を描くために調査を行っている2人組に出会った。縄張の情報交換などをしたが、こういうことは滅多にない。





津田城


左:谷地の道沿いのある土塁、右:城門近くの郭


左:城門、右:城門から内部(北)を


左:城門の南西の土橋、右:城門東側の土塁


左:北東に伸びる土塁、というか尾根、右:国見山山頂




 枚方サイエンスヒルズの南奥辺りに駐車可能なスペースがある。そこから谷沿いの遊歩道を進む。
 峠を中心に東西の尾根沿いに土塁…というか尾根が伸びている。その内側に幾つかの平坦地が並んでいる。中世城郭、というよりも、古代城郭のような造りである。地図の薄墨色は、古代城郭だったとしたら、と想定して描いてみた城域である。西半分の尾根を歩いてい見たが、んー、どうなのだろうか。北の谷地に水門のようなものが見つかれば古代城郭となるのだろうけど、それらしいものは見当たらなかった。





楠葉台場


左:堀の東側を北から、右:堀の西側を北から


左:堀の西側を南から、右:堀の東側を南から


左:台場の内部、右:台場の北側の堀




 大阪府と京都府との正に県境に楠葉台場がある。最近になって整備されたようで、国土地理院の地図の訂正が追い付いていない。駐車場は無い。
 台場の西半分は河川工事等で消滅し、東半分のみが残る。また堀は復元されているが、土塁までは復元されていない。台場内部は公園となっており、親子連れで賑わっていた。




 以上で本日の予定も無事に終了。今夜の宿泊地である、泉佐野まで高速道路で移動。途中雨が降り始めたりしたものの、1時間弱で到着。

 ホテルにチェックインした後、夕食へ。大阪でコロナ患者が爆発的に増加していた時でもあり、私はスーパー飯を強く推したものの、Kさんはスーパー飯には否定的。しかしホテルでもらったGotoのクーポンが近くの居酒屋で使えないことが分かると、諦めてスーパー飯に同意することに。もう一度車を出して、近くのスーパーで夕食を購入する。
 Kさんの部屋で麒麟が来るを見ながら夕食。早めにお開きとなり、就寝。




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