甲斐ツアー

平成12年1月8日〜9日

○1月9日 霧とワインとほうとうと

翌朝。起きがけの飯前に一城。


要害山城



左:本丸 右:大手門辺りの石垣

早朝まで雨が残っていたものの出発時には収まる。隙を突いて攻撃。旅館の裏の登り口から15分程で本丸。
かなりの規模であり、そこには無数の郭の他にも、石段や石垣、礎石等が数多く残っている。おまけにその一つ一つが違う形をしていて、見ていて飽きない。ところが途中から霧が突然濃くなってしまい、写真が全然写せなくなってしまう。惜しいとしか言いようが無い。
時間もないので下山。朝食をとって荷物をまとめて出発。家の都合で途中から帰るK保田さんを甲府駅で見送った後、甲府市街を一気に南側へと抜ける。成人式の式典の渋滞ができていたものの、何とか無事に下曾根の実際寺に到着。

下曾根氏屋敷



笛吹川の南岸の下曾根の集落。そこにある実際寺とその周りが下曾根氏舘跡である。墓所の裏にこんもりとした土塁が残っているだけで、南東の隅には苔むした五輪塔があると書かれていたものの見付けることはできなかった。。
この辺り一帯の曾根郷は甲府から駿河へ至る中道の通る交通の要衝であり、政治的軍事的にも極めて重要な場所であった。下曾根氏は武田一族であり、ここに分家して下曾根氏を名乗ったとある。下曾根氏は本家滅亡後も徳川氏に仕えている。

笛吹川南岸を東に向かい、中央高速を潜って上曾根の勝山城へ。

勝山城





下:全景

勝山城は、水田の中の直径200mほどのさほど高くない円形の丘である。ここも下曾根と同じく、甲斐と駿河を結ぶ中道の通る交通の要衝であり、そのため勝山城は1500年前後の甲斐内乱や、信虎の甲斐平定後の今川との争いの中で、しばしば戦いの舞台となっている。
現在で城は果樹園、周りの堀は水田と化しているが、しかし遺構は比較的良く残っいる。城跡にある果樹園はどう見ても荒んでいるので、できれば県か市で買い上げて公園にでもしてもらいたいものである。

急いで次へ。

武田氏舘



左:石碑前 右:土塁を削って作ったと思われる畑

勝山城の北東東4kmほどの字大庭の清道院が武田氏舘である。当時は周りを厚い土塁が囲んでいたらしいが、現在では土塁は削られて畑になってしまっている(右写真、道路の向こうから青い小屋までの畑が土塁跡…らしい)。誰の舘跡かははっきりとしておらず、武田信守の舘とも武田信成のそれとも言われている。舘跡にしては比較的良く遺構が残っている方たしいが、土塁が削られて畑になっているというのも、ちょっとなんである。

狭い道に四苦八苦しながら小山城へ。

小山城



左:全景。中は公園になっている。 右:堀と土塁

武田氏舘から南東東へ1.5kmほどの、緩やかな傾斜の扇状地の北端に小山城がある。一辺120mの方形の土塁と堀で囲まれており、大きな舘という感じである。公園化に伴い削られた部分もあるものの、遺構が良く残っている方である。また土塁の上からの見晴らしも良い上に公園だけあってトイレもあり、休息するには事欠かない。ただ、これだけ恵まれた環境にもかかわらず遊んでいる子どもが皆無だったのは寂しすぎるものがある。
この城も誰のものかあまりはっきりとしておらず、穴山氏の物ではないかと言われている。1582年の北条対徳川の甲斐国争乱の時には、鳥居彦右衛門がこの小山城を修築して入っている。


昼も過ぎて小腹も空いて来たので、移動しながら良さそうな店があれば入ろうと言うことで次成る目標へと進んで行ったものの、本来この辺り一帯はは観光用果樹園であり、そのためある店ある店すべてこの果樹園付属の休憩所兼土産物販売店。しかも季節柄どれも閉まっていると言う始末であった。何とも、行いの悪い先輩方を頂くと割りを食ってしまうものである。


岩崎舘



勝沼氏舘の南東1km、国道20号線バイパスの北に面している葡萄畑がそうである。北に面した段丘の上にあり、北側の険しい傾斜の下には幅1mほどの小川が流れている。
完全な不法侵入状態だったが研究のためには仕方が無い。ともかく見付からず。ここの畑では葡萄狩りもやっているようなので、秋に来て葡萄を摘みながら遺構を楽しむのも良いかも知れない。

同じく食い物屋を探しながら勝沼氏舘へ。無論1kmほどの距離で見付かろうはずもない。


勝沼氏舘



大月方向から真西へ流れる日川の、北側の段丘上にある。すぐ北には旧甲州街道も走っており、交通の要衝であったことが伺える。かなりの遺構が残っている上に公園として整備してあるので、大変に良い。もちろん駐車場もある。他にも当時の下級武士の復元住居などもあり、一般人を連れて行っても十分に楽しめる場所である。


さすがに腹も減ったので飯屋を最優先に探すことに。
塩山駅前まで北上。駅前のモスバーがーの駐車場に車を停めて、近くの喫茶店へ。折角甲斐まで来たのだからと全員でほうとうを食べる。色々な具が入っていて、これまで食べたほうとうの中では最もおいしい部類に入るものだったが、しかしこの米飯の代用食に1200円というのは高すぎる。観光地とは恐ろしい場所である。
飯の後、車をモスバーがーの駐車場に停めたまま於曾屋敷へ。


於曾屋敷



塩山駅から南へ徒歩5分程。高さ1〜2m、一辺100m程の方形の土塁が残っている。屋敷跡の東半分は公園、西半分は民家となり、北西隅には二重の土塁跡も残っている。住宅地のど真中で、良くこれだけ残っていたものである。


サクサクっと切り上げて駅前まで戻り、ここで先に帰るMさんを送った後、酒屋で甲州ワインなぞを土産に買い込み、再び車に乗り込んで北へ。


武田春信舘



塩山駅北1kmにある慈徳院一帯が武田春信舘跡である。宅地化によってほとんど遺構らしき物は残っておらず、わずかに住宅地の区画の形と、舘跡東を流れるドブのような小川によってのみ、当時の様子を伺うことができるだけになってしまっている。


同じくサクサクと切り上げて次へ。


連方屋敷



JR東山梨駅から南東東へ200m程。北東部が欠けているものの、一辺100m程の敷地の周りに、土塁と堀とが残っている。敷地内は三軒の民家と畑になっている。
この辺り周辺は道が狭くなっており、車では国宝清白寺仏殿のある東側からではなく、南側に延びた広めの道から来た方が良い。おかげで切り返すのにえらく苦労する。



栗原氏舘



連方屋敷の3km南。日川北を東西に走る甲州街道(ここでは国道411号線)北の、上栗原と下栗原に挟まれた縦200m横300mの広大な範囲が栗原氏舘である。ただ、これら全ての範囲が一つの舘跡と言うわけではなく、大翁寺(現在廃寺)を中心とした100m四方の舘に、その北東の妙善寺を中心とする同じく100m四方の舘、さらにその東の海島寺を中心とする舘の計3つの舘跡が連なったものであるらしい。しかし遺構はほとんど残っておらず、土塁は海島寺の北にある竹林に一部が残っているだけで、かろうじて区画沿いに流れる水路によってのみ、当時の面影を伺い知ることができる。

日が影って来て写真を摂るための光量が足りなくなって来たので大慌てで最終目的地へ。


八田家御朱印屋敷



JR石和温泉駅から南東750mほどにある税務署の出張所のすぐ北の公園が、八田家御朱印屋敷跡である。公園の北と東に土塁と堀跡が残っている。また公園の北東隅には江戸末期に作られた屋敷が残っている。


日も暮れ、帰りの電車の時間も迫って来たので、大慌てで甲府駅へと向かう。
途中道を間違えたり、渋滞に捕まったりとろくなことが無かったため、レンタカー屋にたどり着いたのは発車5分前。東京組に泣き事を言ってレンタカーの返却手続きをお願いして、荷物を抱えて駅へ駆け込む。身延線のホームがわからず階段を余分に登り降りして、発車1分前に何とか列車にもぐり込む。
静岡駅に向かうまでの間、この二日間の城攻めの記憶を思い出して記録したが、しかしあまりにも同じような屋敷跡が続いたため、回った順序や場所がなかなか一致せず、1時間悩みっぱなしであった。日が変わらないうちに何とか神戸に到着。あまりに疲れていたのでそのまま寝てしまう。



舘跡が多かったとは言え、二日目の1日間で12城というのは新記録であった。これも機械化のご利益である。ただ、その一つ一つの印象が薄まってしまうため、後から思い出そうとしても写真を見ながらでもないと覚えていない所が多かった。やはり一日4、5城が丁度良いだろう。

戦果
	攻撃対象	20城

	うち 棄権	0 城

			20城	攻略



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