甲斐ツアー

平成12年1月8日〜9日
○1月7日 甲斐の冬は寒かった

21時41分発の急行筑摩に乗ったときには、昼から延々と大阪の街を歩き回っていて大変に疲れていたのではあるが、しかしそれでも熟睡はできなかった。中途半端な睡眠から目が醒めると塩尻駅だった。列車から降りると寒さが身に凍みた。ホームに待合室があったのでここに入る。
さすがに暖房が入っていたが、しかし窓から冷気が次から次へと降りて来る。他の2、3人の登山客と思われる客は、手なれた様子で床に新聞紙を敷いて床に横になったり、腕置付のベンチの上に横になったり、名々楽な恰好をして仮眠を取りはじめた。自分も見習ってベンチに横になったが、寒さとベンチの硬さで思うように寝れない。そこであらかじめ用意して来ていた長袖のシャツの上下を、トイレに行って着込んで来る。おかげで幾分か暖かくはなったが、それでもまだ寒い。変に寝て体温を下げてしまって、年末からひいていた風邪をひどくしても仕方が無いので、持って来た本を読んで待つことにする。
周りが少し明るみを帯びて来はじめた頃、やっと甲府行きの始発が入って来た。乗り込んで席に付くと、待ち合い室よりも暖かく、眠たくなる。
山の端から朝日が覗く頃、いつの間にか周りが中国語だらけになった。横のボックスには台湾の新婚旅行客のようなカップルと、後ろの方には数人の密入国して出稼ぎに来たような若者の声がする。後ろの密入国して出稼ぎしてきた方はまだわかるが、横の新婚旅行はどうしてこの早朝にしかもこんな田舎にわざわざ来ているのか不審に思う。今思えば次期台湾総統選挙の為の特殊任務で日本に入っており、新婚カップルはただのカバーであったのかも知れない…というのは考えすぎか。
7時34分に甲府着。去年の秋に東京に行ったときに、あまりに暇で新宿と往復した時以来である。レンタカー屋はまだ開いてなかったのでアートコーヒーでサンドイッチとコーヒーの朝食を取る。その後レンタカー屋に行って車が早く借りられるか聞こうとしたが、事務所には人っ子一人居ない。仕方が無いので諦めて、待ち合わせの時間まで甲府城を見ることにする。


○1月8日 レンタカーのタイヤはスタッドレス

甲府駅の南口を出て、少し東へと歩くとすぐに甲府城が見えて来る。


甲府城



丁度補修中で、またも見れないのかと歩いて回っていると、南の方から入れるようになっていて安堵する。 本丸まで登ると甲府市内が一望にできる。市内には盆地特有の靄がかかっている。
この補修でかなり手が入ったのか、真新しい石垣などがあちらこちらに見られる(写真右)。こういう補修自体は石垣崩落を防ぐために必要なものなのかも知れないが、あまり見ていて気持のいいものではない。が、近世城郭なのでどうでもいいか。

待ち合わせの時間も迫ったので駅へと戻る。事前に到着していたS君と本隊の到着を迎える。窪谷さん、Mさん、薬田さん、保科さん、K君、S君、そして新入生ながら参加してくれた物好きなOくんの総勢8名。泊がけの攻城戦にしては珍しく大人数である。駅前のレンタカー屋で車を借りる。どうやら自分はちょっと高目のやつを借りていたらしく、保科さんのと車格が同じ割には料金が2日分で4000円近く違っていた。自分一人の支出でないにしても痛い出費であるとともに、信頼度が10も下がってしまう大失態である。
車はシビックのフェリオとファミリア。どちらの車のタイヤもスタッドレスであると言うところに、甲斐国が雪国に属する事が如実に表われている。運転手はMさんと自分の2人。一人でも犠牲者が少ないようにと祈りながらエンジンスタート。出発。第一目標は駅の北西に位置する湯村山城である。


湯村山城



駅から車で5分程。緑が丘運動公園の東にある小山がそうでる。体育館の前に車を止めて登る。途中、複合遺跡で小さな古墳等もあるが目もくれず。駐車場から歩いて10分程で城跡に出る。岩がゴロゴロと転がっている三の郭南に一段低く二の郭、そして更に低く西に一の郭があるという面白い縄張をしている。この城は1523年、武田信虎が古府中に移った時に詰めの要害山城などと一緒に築かれたと言われているが、それ以前にもここに城があったと言う説もあり、まあ良くわからない。簡単な石垣のようなものや空掘、土塁などが比較的しっかりと残っているうえに眺めが良い。10分程の登山にしてはお釣りの多い城である。

県道6号線まで戻り、西へと向かう。釜無川のほとりを走っていると、空にドイツ降下猟兵のグライダーが飛んでいる。地図で見ると河原に日本航空学園があるらしい。羨ましいことである。川を渡ってさらに西、甘利山のはるか麓に甘利舘がある。


甘利氏舘



現在は大輪寺となっている。遺構は寺の裏に土塁跡らしき土盛がかろうじて残っているだけで、その土塁跡すら削られている。緩やかな斜面からは甲府盆地が遠く望まれる。
甘利氏は、甘利虎泰、昌忠親子で有名なあのあれである。元は武田一族で、ここ甘利の地に居館を構えたことから甘利氏を名乗ったらしい。ともかくそんなところ。


戦場スナップ:エルウィン=ロンメルと(左)ガリボルジ将軍(右)


続いて甘利氏舘から北西西に1.5キロにある白山城へと向かう。


白山城



狭い道ながらも麓にある神社まで車で着けられる。その神社の裏から徒歩10分、比高にして60mほど。眺めは悪いが、立ち木も底そこ切り払われて残っている土塁や空掘跡が見やすくなっている。
白山城は、ここから1200mほど北東にある武田信義舘の詰めのだったと言われている。現在ある遺構は当時のものではなく天正期の北条と徳川の甲斐国争奪戦の時に補修が加えられたものとも言われている。まあ、良くわからない。ともあれ、小振りで遺構の残った良い城である。


もう一度釜無川を渡り小さなループを回って七里岩台に登り、県道17号線を北西へ。
城の北東にある駐車場に車を停めて新府城へ。


新府城


左:本丸 右:大手門跡

県道脇の階段から上に登る。
さほどの高さは無いだろうとタカをくくっていたが72mもあるそうで、足がガクガクになった。
階段の横には七曲がりの登り道があるのでそちらで登った方が足への負担が少なくて済む。
登り切ってみると、ただ、ただ、広い。
嫌になる程広い上、そしてでかい。
広い本丸、大きな大手門跡、そして武田特有の馬出しも、でかい。
古府中に変わる新しい府中ということで新府と言う名前が付いたらしいが、城そのものは完成してすぐに戦わずして落ちている。結局役に立ったのは武田氏が滅亡した後、旧武田領を巡る北条と徳川の戦いにおいて徳川方がここに本陣を置いたときであった。


若神子城へ向かうまでにちょっと遅い昼飯。チェーン店のラーメン屋へ。メニューを見る限りはなかなかにおいしそうな店だったが…出て来た店員は中風かと思われる程ヨボヨボ野の老夫婦。嫌な予感がする。ともかく時間が無いのでメニューを統一して注文。だいぶ時間が経った後、さっきの爺婆がラーメンを持って登場。あまりに震えるのでスープが大分こぼれてしまっている。なにかもう見ていられない状態だった。しかしラーメンは普通のラーメンでそこそこおいしかったので、まあ良かった。


腹も落ち着いたところで若神子城へ向かう。国道141号に乗って北上。中央道を潜って 2つ目の信号を左折してうねうね行って公園の所を入る。って何を書いてるあるか。


若神子城


左:本丸 右:格子堀跡

現在は公園になっている。この公園の南端にある、林になっている部分が主郭であり(写真左)、土塁が気持ばかり残っている。また公園内には発掘された格子堀の他(写真右)、狼煙を上げた櫓の復元されたもの等が展示されている。さらに、この大城と呼ばれる場所の北東と南西の谷向かいにもそれぞれ遺構が残っているらしいが時間が無かったので回れず。
時間もないので早々に切り上げて次へと向かう。

塩川の上流に向けて走り、根小屋の村落に入る。城らしき山はすぐに見付かったが、城に寄せる道がなかなかに見付からない。狭い道を山に向けて登っていると、最近できたと思われる広い道が城山に向かってのびており、これはラッキーとそちらに曲がるもすぐに行き止まる。山はすぐ目の前なので、車を停めて獣道を探して山に入る。
しかし、道らしき物は見付からず、強襲を続けて行くうちにえらい傾斜のきつい斜面にぶち当たる。といってそれまで来た道を戻るのも辛いので、四つんばいで木の根や岩を掴んでの実戦さながらの強襲を続行したら、先行者の落した石に当たりそうになったり、乾いた砂で谷に滑り落ちそうになったりする。それでも何とか強引に頂上にたどり着く。


獅子孔城



左:本丸 右:石垣、ちなみに「孔」の字には口ヘンが付くのが正しいが字が出ないので勘弁

本丸に出てびっくり。白人男性と日本女性が焚火をしながら地雷探知機で地雷除去をしている。話を聞いてみると、この白人青年は日本に留学中で史学を専攻しており、その実習でここの発掘を行っているとのこと。先のあれは金属探知機らしい。中世の古銭とか結構見付かるそうで、発掘の甲斐あって1ヵ月後位には地元教育委員会の本格的な発掘もあるらしい。
こういう現場に、しかも留学生が地道に発掘を行っているような場所に出食わすのも驚きではあるが、しかしそれ以上に驚いたのは険しい斜面から突如として現れた我々に出食わした2人組の方かもしれない。
さすがにさっき来た道…というか斜面を降りる気にもならないので、日本人女性の方に…英語だとわかり辛いので…帰り道を聞くと、口ごもって答えてくれない。仕方無く白人青年の方に英語で帰り道を聞く羽目になる。今思うとこの女性の方も中国系の留学生だったのかも知れない。城の裏側には狭いながらも車道が走っており、その道をつたって降りるとさっきの大きな道に出る。どうやらこの大きな道に入ってしまったことが間違いだったようだ。

日が沈むとまずいので、大急ぎで次の目的地に向かう。


三枝氏屋敷



獅子孔城から1.5kmほど下がった塩川の崖上にある。日本城郭大系には「信光寺のすぐ東、塩川に付き出た断崖上に八幡社があるが、この社の北には高さ1.5mほどの土塁と堀跡と思われる畑が残っており…」とあるが、この説明文の「信光寺のすぐ東」が「八幡社」にかかっているものだとばかり思ったので、信光寺のすぐ東の辺りをうろ付いて貴重な時間を浪費する。正解は「塩川」にかかっており、信光寺の南200mほどにある神社が屋敷跡である。まったく、わかりにくい文章ほど紛らわしいものは無い。神社の北には1mちょっとの土塁がしっかりと残っている。南側はかなり急な崖で、それなりの防御効果はあったものと思われる。
光量の少ない状態で何とか写真を取り、本日の宿泊地である要害温泉へと向かう。


要害温泉にある、その名も「ホテル要害」に宿泊する。
日が沈んでから小雨のぱらつく中、途中で買って来た酒とつまみの持ち込みに無事成功。しばらく休んでから飯。
飯はそれなりのメニュー。
馬刺、鮭の焼物、なめこの茶碗蒸、鍬焼、蛸の酢の物、カキフライ、煮〆、大根の餡かけ、盛りうどん、吸物におしんことご飯、さらにデザートで苺と葡萄。馬刺と葡萄で甲府らしさがほんのり匂ってはいたが、しかし全体的に統一感にかけるメニュー。自分的には山の物をもう少し折混ぜて欲しかった。
以上のメニューとビールとで、その日に始まった大河ドラマ葵三代を観ながらの歓談。別途酒が買ってあるのでほどほどに。
飯の後少し休んで風呂へ。外湯…と言うよりマンションのベランダに作った露天風呂というような変てこな風呂が付いていたが、しかし高いところにあるだけあってそこからの眺めは大変に良く、夜の小雨の中に遠く輝く甲府の街の灯を眺めつつ、その日一日の疲れを癒した。
風呂から上がって酒盛り。いつの間にか五月祭の発表テーマと次回コミケに出す城本の内容をどうするか、という方向に話が進む。あまり口をはさむとその分労働量が増えてしまうのだが、酔った勢いで好き勝手なことを喋り散らす。まあ、会社は暇だから大丈夫か。
酒盛りが編集会議になってしまった上に翌日も朝が早いので、早々に切り上げてお開きになる。


甲斐ツアーその2



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