中・南信濃(諏訪・伊那)攻略記 1日目

平成14年12月27日



12月21日の岡谷市内の様子:大雪


一週間前の12月21日。信州は大雪だった。
中央自動車道は通行止めになり、諏訪盆地は20cmの積雪を観測した。丁度、名古屋の支部長達と諏訪の毒沢温泉へ向かう折も折で、おかげでこの後に、車が雪で坂道を登れなくなり、えらい苦労をする羽目になる。
この大雪の諏訪盆地を右往左往している間、翌週に予定されていた城郭班の諏訪・伊那攻めの心配をする。何しろ同じような大雪なら最悪中止だろうし、今降り積もっている雪が残っているだけでも、移動が大変になるのは間違いない。
よりによって何でこんな時期に、比較的温暖な伊那はともかく、御神渡りのあるような極寒の諏訪を絡めるのだろうと、提唱者の窪谷さん(仮名)を呪ってはみたものの、既に宿や切符まで手配の済んでしまっている。こうなっては今更どうのと言った所で後の祭りであり、後はひたすらに天候の回復を祈るだけであった。


そして翌週。
出発前に調べた天気予報は3日間とも晴。集合場所に向かう途中に関が原で小雪が降っていたものの、長野県に入ってからは全くの快晴。諏訪盆地に入ってからも、市街地では先週あれだけ積もっていた雪も殆ど溶けてしまっていた。このあまりに都合の良い光景に、しばし唖然としてしまう。
この、リーチ一発ツモ牌底裏ドラ3、みたいな強力な引きは、少なくとも宝くじも碌に当らない自分のものではない。これまでの幾度もの城攻めで悪天候を一緒に経験した薬田さん(仮名)や、翌日から参加予定の榊さん(仮名)で無い事も確かだ。そうすると、残るは矢張り窪谷さんである。
今回の遠征で念願の通算1000城を達成する予定の窪谷さんの執念が、天気をも動かしたのだろうか。流石はミスター城郭班である。

その今回の遠征では、前半で諏訪盆地の外周部にある比較的小さな山城を、後半には伊那地方の河岸段丘に作られた連郭式の城を中心に回ることになっている。河岸段丘では、川と川に挟まれた舌状地を堀で切るだけで城が出来てしまう為、何分にも規模の大きな物が多い。これまでは中国・近畿の小まっちゃくれた山城や館を見ることが多かったので、大変に楽しみである。



ともかく、1日目に使うレンタカーの手配をしている内に、下りの特急が到着して、窪谷さん、薬田さんと無事に合流。借りたばかりのヴィッツに荷物を載せて、早速に栗沢城へと向かうのであった。


茅野駅から、道に迷いながらうだうだと東進。川を渡って更に東に向かっていると、北に丘が見えてくる。よくよく見ると、看板に「栗沢城跡」の文字が。慌ててわき道に入り、看板のあった辺りへと回り込む。


栗沢城


左:公園と看板、右:堀?



右下:栗沢城、上:鬼場城、左:齢松山城


一面雪だった。気温が低いので靴が濡れる事は無かったが、当然のことながら寒いし、足を取られるので疲れる。今日一日の苦難の前触れのようであった。
碑と看板は東側にある小さな公園にある。西の寺と北にある小さな団地一帯も城跡の可能性があるが、まあわからん。
遺構としては、碑の近くに堀らしき窪みがあったくらいで、大系に書かれている土塁らしきものは見つからなかった。碑が建っている土盛かもしれないが、周りに新しい石積みがなされているので、判別不可能。何とも気の抜ける城跡だった。しかしこれも一城。
諏訪氏の氏族、沢氏の館跡とある。


先ほど渡った橋を戻り、そのまま直進して国道299号線を東に曲がり、城山団地に入る。

鬼場城


左:主郭、右:三段になった郭

初めは団地の奥に抜けて、峠から尾根道沿いに南下しようとしたのだが、ここも一面30cmほどの積雪で尾根道が分からない。
他に道はないかと窪谷さんと薬田さんが団地内を南下。その内に鉄塔保守用の道を発見する(地図中の矢印)。ここも雪が深かったが、何とか城に取り付く事が出来た。
城域はそれほど広くは無いが、凹凸のメリハリの利いた良い遺構だった。ただ、積雪で一面白くなっていたので、撮る写真が全て凹凸が分かりにくくなってしまっていた。「勿体無い。これはもう一度攻め直しだな」と窪谷さんも残念がっていた。
矢ヶ崎氏の城。元は齢松山城の支城として造られたものが、本支逆になったものといわれている。後に上原城の支城として機能する。


城山団地の口から、山の裾沿いに遊歩道が西へ回りこんでいる。恐らくこの道を進めば齢松山城に辿り着けるのでは、とふんだ薬田さんが偵察に出かけたものの、距離がありすぎたので、一度国道に出てから回り込むことに。
怪しいファミレスを越した辺りにあるわき道を北に入る。しかしこの道が狭い上に工事中で、危うく溝にタイヤを落としそうになる。それでも何とか山の裾まで辿り着き、モデルルームの駐車場に不法駐車をさせてもらって山に向かう。
東側の谷筋の道を少し入り込むと、右後方(南)に斜めに登っていく細い道が分かれているので、そこを登ると畑(跡?)に出る。その南東にこんもりとした小山があり、それが恐らく齢松山城である。

齢松山城


左:(推定)本丸の丘とその下の(推定)二の丸、右:(推定)本丸

幾つかの平坦地で構成される。土塁や堀などの遺構は見られず、城とは関係無い場所の可能性も無いとは言えない。だが資料の地図に番号がこの場所に振られているので、多分大丈夫だろう。
大系にも詳細が載っていない。矢ヶ崎氏の本城で、鬼場城に移る前の古いものらしい。


時間も時間なので、国道の南側にある蕎麦屋で昼飯。
午後1時前だと言うのに、客が殆どいないので悪い予感がしたのだが、頼んだ盛り蕎麦は矢張り不味かった。「こういう(不味そうな)蕎麦屋では飯物を頼むのが無難」と窪谷さんは一人だけ親子丼を食べていたが、まさか冬の信州でここまで不味い(というか臭い)盛り蕎麦を食わせられるとは思わない。カツ丼にでもしておけば良かったと後悔する。


気を取り直して西に向かい、諏訪神社上社前宮と安国寺の間にある樋沢城を目指す。



樋沢城


左:本丸の碑、右:堀切他、とにかく凸凹



北側のスクラップ場に車を停めて、城の西側に回りこむ。しばらく歩くと登り口と看板が見える。ここも一面積雪30cmで歩きにくかったものの、元々の道が良いのでそれほど苦にはならなかった。
二の郭には鉄塔が建つが、それほど気にはならない。ここもメリハリの利いた凸凹の遺構が多く残っており、面白い。三の郭、四の郭は積雪の上に藪だったので諦める。
諏訪の大祝氏の山城。文明15年(1483年)の諏訪氏の内訌、天文11年(1542年)の武田・高遠連合軍対諏訪勢との戦い、同じ年の武田勢と高遠勢の戦い、と何度も落城している。


県道?に戻って、北西へ。
武居城の登り口どころか城の場所そのものが分からず、上社本宮と前宮の間を1往復したが、その内に展望台らしきものが下から見えたので、それとふんで寄せてみると何とか看板を発見する。明らかに氷結した山道を車で登る。

武居城(居館のみ)


左:館跡、右:(推定)本城



館跡までは車で登れるようになっている。しかし積雪で見えなかったので、かなり手前で車を停めてしまい、余分に歩く羽目になってしまった。積雪と北向き斜面、その上に午後3時を回って日が陰り始め、更には風が強くなったので、体感温度がどんどんと下がる。鼻毛が凍るような感覚はあまり味わいたくは無い。
居館跡は広場になっており、見晴らしも良く諏訪盆地が一望できる。しかし、何度も繰り返すように一面の積雪で何も分からない。寒いので早々に撤退する。南側には山城を望む事が出来る。
諏訪氏の城。北条高時の婿となった諏訪時重が武居に居館を構えたとあるが、時重は3年後に高時と共に自害。その後は前記の文明15年(1483年)諏訪氏内訌の際に、謀反を企て一度諏訪を追われた大祝継満が、翌年再挙して諏訪に入った際に武居城を再利用して樋沢城と対したある。武田氏が諏訪に入った後も使われ、天正12年(1584年)を過ぎた頃に廃城になったものと思われる。


武居城を降りて更に北西へ。
一本南の道に入り込んでしまったが、何とかリカバー。ここも道路に所々凍結部があり、しかも断崖絶壁な道にも関わらずガードレールが無く、運転していて怖くなる。そんな道を、地元の子供がソリを片手に登っており、しかもその急斜面をソリで下って行ったのには驚いた。

大熊城


左:主郭南の土盛、右:二の郭から三の郭を眺める、既に日陰で寒い



信州には高速道路建設で分断されるか、もしくは消失してしまった城郭が無数にあるが、この大熊城もその一つであり、主郭と南端の六の郭の間にあった四の郭と五の郭が綺麗に削り取られてしまっている。ただ残りの郭はほとんど畑になってしまっているので、遺構が分かりやすくなっていて良い。
大熊城は千野氏の居城といわれている。天文11年(1542年)に武田氏が諏訪に侵入した際に落城している。

午後4時にもなっていないのに、冬の北向き斜面だったためにすっかり暗くなってしまった。本当ならここからもう少し西に有賀城も予定に上っていたのだが、本日の予定はこれで終了と言う事になる。ただ、平城のもう一つくらい大丈夫だろうと言う事で、高島城へと向かう。


高島城


左:天守閣、堀、門、右:東側の堀、浅く曲がっている



何年か前に一度、高島城に来た事がある。その際、あまり出来の良くない復元天守と石垣に無理やりこじ開けたコンクリート製の通路という、悪いイメージしか残っていなかった。それなのに、どうしてこんな場所にわざわざ行くのだろうかと内心不満だったのだが、今回改めて来て見てると、思ったほど悪くなかった。前回見ていなかった東側と北側の堀と大手門は中々のものだった。
気温は既に氷点下なのか、堀には厚い氷が張り、薬田さんが仰るには、氷を渡って石垣にへばりついていた阿呆も居たそうである。堀端を歩きながら、子供のように氷を投げて氷を割ろうとしたり、寄り集う鴨の群に雪を餌のように投げてからかっていた薬田さんを眺める。

日根野氏が慶長三年(1598年)に築城。しかし関ヶ原の戦いの後に日根野氏は下野国に転封。そして慶長6年に諏訪頼水が日根野氏の替わりに高島城に入り、その後明治の廃藩置県まで諏訪氏の居城であった。
当時は天守閣のすぐ下まで諏訪湖が広がり、浮き城とも呼ばれていた。また城の東側も湿地帯で、城に通じる人工の道路一本以外に攻め口が無く、難攻不落であったそうである。



午後4時過ぎに本日の行程終了。
レンタカーは午後7時までで取ってあったので、余った3時間ほどで、宿泊予定の岡谷のホテルまで荷物を運んでしまおうということになる。
国道20号線は混むと言う事で、諏訪湖の南側から回り込む。おかげで渋滞に絡むことも無く、30分ほどで岡谷駅前に到着。
ここで宿を予約した窪谷さんに宿の場所を聞いてみたのだが、窪谷さんが知っていたのは「ビジネスホテル湊屋」という宿の名前と電話番号、それから「駅から徒歩10分」という立地条件だけで、「まあ、そこらへんを走っていたら見つかるだろう」との事。「ぎゃぁー、頼みますから電話して宿の人に大体の場所を聞いて下さいよ」と、電話番号を聞き出して薬田さんに電話してもらう。
しかし、宿のおばさんから受けた指示も分かりにくく、岡谷駅前を迷いながら15分ほどうろうろとして、ようやく半分偶然に宿を見つけ、チェックインをする。

ところがここで薬田さんが風邪と疲労でダウン。先ほど高島城の堀で、鴨をからかった天罰かもしれない。

部屋に薬田さんを残して、窪谷さんと二人で茅野駅へ行き、レンタカーを返却。電車で岡谷まで帰って来てから宿へ戻り、幾分か復活した薬田さんと合流して夕飯。
駅前を粋な店を探してうろつくが、これといった店も見つからず、スーパーの4階に入っていた中華料理屋へ行く事になる。
地方都市の中華料理屋だから、どうせ大した事は無いだろうと舐めていたのだが、これが思ったよりも本格的で驚いた。
コーンスープに麻婆豆腐、揚げ春巻、豚アバラ肉の土鍋焼き、まながつおの清蒸、海老炒飯、焼きビーフン、他1品にビール、紹興酒で一人3000円弱。焼きビーフンが塩気が無かった他は味もよく、何より替えの皿をどんどんと持ってきてくれたのはありがたかった。

簡単に翌日の攻略目標の検討をしてから就寝。
運転による疲れからか、いつもの窪谷さんの大イビキに悩まされる事も無く、すぐに寝付く。



ここから以下のページへいけます。