信州(諏訪・伊那)攻略記 2日目

平成14年12月28日


午前7時に起床。昨日買っておいたパンで朝食を摂り、まだ体調の全快しない薬田さんを一人部屋に残して、窪谷さんと2人で氷点下の世界へ赴く。
恐らく氷点下10度くらいまで下がっているのだろう、顔の皮膚がピリピリと痛い。凍った足元に注意しながら橋を渡り、花岡城へと向かう。


花岡城


左:川の北から見た全景、右:二の丸の土塁



城山全体が公園として整備されている。無数の郭が残っており、隅々まで歩き回ると面白いのだろうが、雪が残っているのと寒いのとで、あまり動き回れなかった。
伊那口を扼する軍事上の要衝に建つこの城は、花岡氏の居城といわれている。花岡氏は有賀氏の支族といわれているが、明確ではないらしい。天文17年(1548年)の諏訪西方衆の叛乱の際に、花岡氏も小坂・有賀氏と一緒に挙兵して反対に武田信玄に討伐され、その際にこの花岡城も破却されたものと思われる。


ホテルに戻って荷造りし、復活した薬田さんと3人で岡谷駅へ向かう。


ところが、ここで窪谷さんが乗る予定の電車の時間を勘違いした為に乗り遅れ、次の電車までの30分ほどを待つ事になる。旅行の日程、宿の手配、攻略する城の選定まで全てを窪谷さんに任せ切りにしているので、何もしていないこちら側が当然責める事など出来る筈も無い。

予定より一本遅れで下諏訪駅に到着。既に到着していた榊さんと合流する。すぐに下諏訪駅のレンタカー屋で車を借りて、県道50号線を通って伊那へと向かう。
北面している有賀峠の登り道が凍結しているのではないかと心配だったが、路面凍結も無く、すんなりと伊那に入る。
平出の交差点を曲がって県道19号を南下し、ひとまず小河内を目指す。
ところが次の目的地の詳細な場所がわかっていなかったので、しばらく付近の畑の中を迷走。田圃の中から顔を出した堀切(写真右)を見つけて、漸く辿り着く事が出来た。



上の平城


左:正面の看板と碑、右:堀切



この城は、大系の詳細記事にも、もう一つの資料にも載っていない。ただ、窪谷さんが持って来ていた、長野県と山梨県の県別地図に城名が記入されていたので、それなりに整備されているに違いないと言う事で候補に上がる。そうした城としては、この後に出てくる大出城、北の城、坂牧城そして丸山城がある。
それはともかく、廃城した後に畑として使われていた為に、郭と堀切が良く残っている。丁度冬で作物も無かったので、見晴らしも良かった。
我々は迷った挙句に北側から入ったのだが、南側の道路から回り込んだほうが、車も停め易いし分かりやすい看板も建っている。

平安時代に、源為公によって築かれたと謂われているが、明白でない。その後に鎌倉時代中期には諏訪氏と同族の知久氏の館となり、知久信貞が知久郷に本拠を移した後は廃城になったものと思われる。(看板の説明より)


一度、国道153号線に戻り、大出へ向けて南下する。



大出城


左:本丸(?)、右:本丸の南にある郭。鉄塔有り。



国道153号線に面している。地図を見ると、底々広い城域を持っていたものと思われるが、遺構は主郭と南側の郭、そして主郭の東下を走る帯郭くらいしか残っていない。
城郭大系にも説明が殆どかかれていない。詳細に調べるには地元の図書館にでも行くしかないだろう。



12時を回ったので、昼飯に。本当なら、先週立ち寄った駒ヶ根市の福寿美で、蕎麦とソースカツ丼を食べたかったのだが、駒ヶ根市は遥か南方。仕方が無いので、国道沿いに見つけた「ドライブイン城山」というレストランに立ち寄る。別に「城山」という名前に惹かれたわけではなく、ほんの偶々である。
このドライブインの内装は、一見シックで落ち着いた感じがするのだが、よく見るといかげんで汚い。品揃えは、ドライブインらしくステーキやフライ盛り合わせと言った普通の料理がメインだが、「伊那名物」として特別メニューも取り揃えられていた。
ソースカツ丼、馬肉ステーキ、馬肉味噌漬と言った物の他にも、「蜂の親子丼」(蜂の子と成虫の丼)というゲテモノがさり気無く入れられているのが心憎い。旅の話題性からすると、蜂の親子丼で決まりなのだろうが、以前に蜂の子を食べて気分が悪くなったことがあったので、ハードなスケジュールも考慮して止めておく。
結局、自分は日和って日替わり定食、薬田さんと榊さんは伊那名物のソースカツ丼。そして窪谷さんは「ソースカツ丼は生キャベツが気持ち悪い」と馬肉の味噌漬焼きを注文する。ところが、それほど客が居ないにも関わらず、出てくるまでに延々と30分くらい待たされる。
やっとの事で出てきた料理だが、窪谷さんの馬肉味噌焼きは馬肉が臭く、自分の日替わり定食も油臭くてげんなり。ソースカツ丼はそれなりにいけたそうなので、自分もソースカツ丼にしておけばよかったとまたも後悔する。


時間を余分に取られてしまったので、急いで次の目的地へと向かう。

箕輪城


左:左から奥にかけて土塁が走る、右:西側の土塁と堀



国道153号線を更に南下。飯田線木下駅の西、現在では寺の墓所になっている。主郭部分しか残っていないが、三方に土塁と堀とが残る。
ここは代々、箕輪氏の居城で、1582年の武田氏滅亡の際に落城したと看板に書かれている。ただ、大系では次に出てくる福与城が箕輪城ではないかと類推しており、実際にここが何だったかのかは現在ではよく分からないようだ。


天竜川を渡って福与へ。


福与城


左:本丸、右:本丸から南西を望む



福与城の城域はかなり広いのだが、公園として整備されているのは主郭、北城、二の郭(姫屋敷)だけである。南側の郭の多くは、畑になってしまっており、遺構の確認が難しい。
北東の断崖や、主郭周りの堀など、メリハリがあり見所が多い。南側の郭も確認したかったが、時間が迫って来たので諦める。

藤沢氏の城。天文13年(1544年)に伊那に侵入した武田氏は福与城の藤沢頼親を攻めるが、諏訪へ撤退。翌年再び福与城を攻め、藤沢頼親は和議により開城。その後、武田氏によって放火され、廃城になったものと思われる。
大系では、資料に出てくる「箕輪城」は、この福与城に該当するものであるとしている。


国道153号線に戻って南下。


春日城


左:本丸、窪谷さん1000城記念の「1000」文字、右:本丸と二の郭の間の堀



伊那の市街地の真裏にある。公園になっており、眺めも良い。そして深い堀は壮観である。
窪谷さんの国内外通算1000城目と言う事で、記念撮影…と言っても、写真(左)の通り。三の郭は遊戯施設とNHKの電波塔が建ち、三の郭の西側の遺構は確認できず。


天文14年(1545年)の武田氏の福与城攻撃の記事の中に「鋳鍋(伊那部)」として出てくる。


国道153号線を南下して、再び天竜川を渡り直して中殿島へ。


殿島城


左:公園入り口、右:主郭南東角部の二重堀



上記地図よりも開発が進み、公園となった主郭とその周りの堀以外は、住宅団地になっている。
主郭は公園化したため、土塁と堀とは良く残っている。特に二重、三重に重なった空堀は素晴らしい。
やたらと吠える犬を散歩に連れて来ていたおっちゃんに捕まり、10分程どうでもいい話を繰り返し聞かされる。どこにでもこういうトラップみたいな人が居るものである。

文献上では不明の城らしい。


狭い県道を南下し、吊り橋で天竜川を再度渡り直す。


北の城


左:道路脇の看板、右:北西の土塁



窪谷さんの地図に載っているから寄ってみた城、第3段。鎌倉時代頃の中越氏関連の城かと思われる、と看板に書かれていた。
土塁、堀等が良く残っている。特に北にある堀が深い。


国道153号線に戻って、南下。そろそろ日が暮れてくる。


飯島城


左:本城、右:本城下の縦堀?



左:城山(本城)と古城窪、右:城山から本城を眺める



東西1キロ近い、広い範囲に渡って郭が存在する。
西の段丘上にある本城は、全域が畑になりながらも周辺の土塁はしっかりと残っている。本城の北にある「登城」地区は林になり、中には入れない。また本城の東側は急な傾斜になっており、その下には縦堀らしきものが見えた。
また国道の西下の前の田から東端の城山にかけては、畑や田圃になりながらも、全体的に遺構が良く残っている。城山の西側には、古城窪という自然の地形を利用した大きな堀がある。
何とも複雑怪奇な縄張りをしているが、元々は天竜川西岸の城山辺りが初めに城が築かれた部分で、時代が下って段丘上にある本城に移って行ったものと謂われている。

飯島氏の居城。天正10年(1582年)の織田軍の伊那侵攻時に落城し、城主飯島重家も高遠城で討死した。


すっかり暗くなったので、ここで本日の攻城戦も打ち切り。国道153号線を下って飯田へと向かう。

ホテルにチェックインして、夕飯を食べに行く。
折角、伊那くんだりまで来たのだから、地元の名物を食おうと拘る自分と、別に村さ来(居酒屋チェーン店)でもいいじゃんと拘りの微塵も見せない窪谷さんと、どうしようかと迷う薬田さんと榊さんと、ああでもないこうでもないと、飯田の街を右往左往していると、少し外れた辺りに「狩人鍋・せんかく」という店を発見する。
「狩人鍋」という奇怪な響きに脳天直撃され。これしか無いでしょうと言う事でこの店に入る。


爺さんと婆さんのやっている小さな店で、家庭的な雰囲気があった。座敷に座って、まずはビールで乾杯をする。
突出しに、茸(鼠茸?)の和え物と他一品が出たので、それでビールを飲みながらメニューを見て、注文を決める。
猪鍋2人前、馬刺、蝗の佃煮、おでん、牛モツ煮、盛り蕎麦、蕎麦掻き等に日本酒の冷酒を2、3種類、そして最後に猪鍋の煮汁にご飯を入れておじや。酔いもだいぶ回って、腹も満ぱん。しかも一人4000円は越すかと思われた飲み代も3000円程。突出しに出た二品がサービスだと3000円くらいの計算だったので、店の太っ腹さに全員満足し、「いや、飯田は素晴らしい」とホテルへと戻る。
ところが別れて部屋に帰った後で、飯を食う前にスーパーで朝食用に買ったパンを、飲み屋に忘れてきた事に気付く。200円ほどなので、まあいいかとも考えたが、何故か急に勿体無くなり、面倒でも折角着替えた浴衣をもう一度着替え直して、店まで取りに行く事にする。
氷点下の飯田市街を5分ほど歩いて、先程の店に入って婆さんに事情を説明していると、気付いた店の酔っ払いに「よっ、兄ちゃん、あれは明日のぶれっくふぁーすとかい?」とからかわれてカチッと来る。馬鹿なミスで苛らついている時に糞野郎がと思うが、こんなところで酔っ払いと喧嘩をしても馬鹿を重ねるだけなので、じっ耐える。とにかく無事にパン200円也を取り戻したのだが、ここで店の婆さんが手招きをして店の外へと連れ出す。何かと思って外へついて行くと、実は猪鍋の代金分をそっくり請求するのを忘れていた、すまないが4300円ほど追加で払ってもらえないかと驚きの事実を伝えられる。
計算間違いを今更言って来る婆さんに腹が立つやら、高々200円のパンの為に4300円を取られる羽目になった自分の運の悪さに腹が立つやら、さっきの酔っ払いのからかいに腹を立て直すやら、何かもう情けなくなって、走ってその場を逃げ出したくなった。しかし、ここで断るほどの度胸も無いわけで、仕方なく4300円ほどを払う。お詫びにとキャラメルを一袋貰うが、全く割に合わない。
ホテルに帰り、同室の榊さんに話をすると矢張り笑われてしまったが、実際こちらの計算通りに初めから一人4000円だったわけで、思わぬ安さに糠喜びしてしまったのと、酔っ払いにからかわれた悔しさで、折角の美味い酒もすっかりと覚めてしまった。

うめくように、寝る。

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