豊前遠征 〜畝状竪堀と横堀の祭典〜

平成24年1月7日〜9日



障子ヶ岳城




仕事が続かない。
3つ目の職場は1年も持たず、去年の夏にはまたも実家へと戻る羽目になってしまった。
4年ぶり2回目の無職を4ヶ月間続けた後、漸く瀬戸内海の西端にある小さな工場で新しい職を得ることが出来たのだが、色々と事情があってここもいつまで続くかわからない。空を見上げ、呻く日々である。

窪谷さん達との城攻めは続いている。
大学4年の時、東北遠征に初めて参加してから、今年でもう16年目になる。
当時、城郭大系の情報のみを頼りに電車とバスを乗り継ぎ、半額に値引きされたスーパーの惣菜で腹を満たしていた貧乏遠征は、今ではインターネットによる入念な下調べの下での自動車による移動が主となり、そして毎晩のように外へと飲みに出るようになった。若い頃と比べると旅の密度は薄くなってしまったが、城を巡る楽しさは変わらない。



年明けに恒例の遠征が企画されることになり、運転手が下関住まいとなったことから豊前遠征ということになった。ただ豊前と言っても殆どが福岡県側であり、また海側のものが中心ではあるが、これは豊前は良質の城跡が豊富で、とても2泊3日では全ての地域を回りきれなかった為である。

「福岡の城郭」(福岡県の城郭刊行会編)を購入し事前に縄張りを確認すると、長野城を始めとして、畝状竪堀や横堀、堀切といった起伏に富んだ城が多い。期待が高まる。






○1月7日

北九州空港で窪谷さん、Yさんと落ち合う。

生憎の天気で小雨がぱらついており、北の空は暗く、境界の不明瞭な厚い雪雲。心配になるが、窪谷さんの悪運を頼みに前へと進む。(実際に3日間、雨がまともに降ることは1度も無かった)。


まずは空港から程近い松山城へ。


松山城


左:主郭を東下から、右:主郭の石段


左:主郭の石段脇の石垣、右:主郭石段上から二の丸を望む


左:主郭北下の横堀、右:主郭


左:西下から主郭を見上げる、右:主郭の北下の郭、削り取られて先が無い


左:二の丸、右:二の丸から主郭方向を


左:二の丸の北西下にある畝状竪堀、右:南下の横堀


右:戦後すぐの頃の松山城の航空写真(国土地理院、R205-2)

南麓にある駐車場から頂上まで約15分。
今回の遠征でYさんはスキーのストックのような杖を装備されていたが、聞くと昨年秋の播磨遠征(自分は不参加)の際に膝を痛めてしまい、その対策だそうである。その前には窪谷さんも膝を痛めて病院に通うことになっており、また自分も同じく昨年秋に2度もひどい腰痛で動けなくなっている。肉体の経年劣化を痛切に感じざるを得ない。

ともかく。
山はまるで棒倒しの砂山のように周りを削り取られ、辛うじて残っている有様である。その為に危険な場所が多く、あちこちに立ち入り禁止のロープが張られており、斜面に広がる畝状竪堀を見に行く事が出来ない状態である。

主郭の東面には石段と石垣跡が残っている。天正時代に改築された時のものらしい。また主郭の北下から北に伸びる郭が削り取られてしまったのか無くなっている。また主郭西下の郭も短くなっているように見える。更に主郭の北下と南下の斜面には東西に伸びる横堀がある。また二の丸の北西には畝状竪堀があるのがわかるが、立入り禁止のロープが張られており諦める。
麓に下りた際に、この周辺にあった筈の聴音陣地について話を聞くも、その付近ではそうした話は残っていないようである。

天平12年(740年)に藤原広嗣によって築城されたといわれている。その後南北朝時代、室町時代と何度となく戦いの舞台となり、慶長11年(1606年)に廃城となった。



山を降りる際、職場での人間関係の拗れによる悩みを、相談半分愚痴半分でYさんに聞いていただいた。遠征直前に降って沸いた仕事の問題さえなければ十二分に楽しめたものを、遠征を通じて半ば心在らずの状態からなかなか復帰できなかった。




国道10号線を北西に進み、潤崎の信号を左折。狭い道を南下し、松尾神社を目指す。



貫城


櫓台を南東から


左:櫓台を北西から、右:櫓台上部


左:峠部の北にある堀切らしい溝、右:峠部から西を



松尾神社の前の道をそのまま東へと進み、「立入り禁止」と書かれた家の裏手にまわり、峠部らしい場所から南上へと上がると櫓台といわれている場所に出る。
櫓台は一辺20mの方形で明確に残っているが、これ以外にはあまり遺構らしいものは見当たらなかった。峠部周辺には堀切らいし溝や土塁の残欠のようなものも見受けられるが、明確ではない。

応安年間(1368〜1375年)に馬ヶ岳城主新田義基が築き、養子の貫掃部介宗景(懐良親王の実子)に1800貫を与えて守らせたのが始まりといわれている。




長野城のある山は目の前なのだが東麓からの道は無く、一度国道まで戻り、北麓の横代側から回りこむ。



長野城


左:三の郭、右:同左付近の畝状竪堀


左:本郭、右:本郭南西下の畝状竪堀


左:それを少し下のアングルから、右:本郭南下の畝状竪堀


左:二の郭の南下の堀切を南から、右:同左を北から


左:その付近の畝状竪堀、右:二の郭北西下の畝状竪堀


左:二の郭から西下へと伸びる竪堀、右:崩落した林道



林道が城山の周囲を回っており車で行けるとアクセスが楽な筈なのだが、道が崩落している為に通行止めとなっている。その為に麓から歩いて登らなければならない。麓に林道の工事事務所があるので一声かけてから入った方がよさそうである。

城域が広く、また至る所に畝状竪堀があり、見飽きることがない。ただ藪に埋もれつつある部分も多く、写真を山ほど撮影したものの何が写っているのか判らないものが多かった。本郭周辺と二の郭周辺が見所である。

鎌倉時代に地頭だった長野氏の城。記録によると、永禄8年(1565年)には大友氏に、永禄11年(1568年)には毛利氏に攻撃されている。






途中のコンビニで食糧を購入し、昼食。
天気は何とか持っている。多少暗いものの日差しが差して写真が撮りにくくなるよりかは増しである。




南西へ進み、国道322号線に出て南下。採銅所で県道64号に入り東へ。
トンネル前の分岐を旧道に入り、味見峠を目指す。



障子ヶ岳城


左:北下の砦跡から城を見上げる、右:同左付近の堀切


左:北端の郭を下から、右:三段目の郭


左:二段目の郭から三段目の郭を見下ろす、右:二段目の郭から一段目の郭を


左:一段目の郭から北を望む、右:一段目の郭の北東端


左:一段目の郭の南端、最高所西側、右:同左東側


左:一段目の郭を南から、右:同左を北から


左:一段目北端から北を、右:二段目と三段目の間の坂、かなり急


左:北端の郭から南を、右:北端の郭から北を


左:北端の郭、右:同左から三段目の郭を見下ろす



旧道は途中から砂利道になり、少しビビらされるが普通車でも何とか走れる状態である。峠の東側へ下りる道は荒れているので、西から登るのが良いかと思われる。味見峠にある公園に車を停め、徒歩で尾根沿いに南下する。
障子ヶ岳手前まで比較的なだらかな尾根道なのだが、運搬用クローラーに合わせて道を作っており、急な坂道でも階段が無く歩き辛い。普段は階段があると歩幅が合わないので歩き難いと毒づいているものなのだが、傾斜がある程度急になると返って階段の方が歩きやすいということを身をもって体感させられた。

城は防御物に乏しいものの高低のメリハリがあり、また木や草が切り払われて郭の縁を彩る土塁の凹凸を十分に楽しむことができる。また周囲360度の視界が開け、眺めも最高である。これだけ感動した城は、これまでに10も無いだろう。
地元有志のボランティアによって毎年草刈や整備が行われ、この状態が保たれているそうである。その努力とこの結果とには頭が下がる。

大内氏の城。後にすぐ西にある香春岳城の属城となり、天正14年(1586年)に九州討伐の黒田勢と毛利勢とに攻略されている。




日も大分傾き、光量も足らなくなってきたので行橋にある宿へと向かう。
その途中、行きがけの駄賃で行橋市南西にある宝山城へと立ち寄る。



宝山城


左:神社、右:神社裏手の土塁?らしき土盛


左:東側の段差、右:神社の階段



王埜八幡宮のある小山が宝山城である。神社裏手の林の中に遺構らしいものも見受けられたが、光量が不足して確認できなかった。

詳細不明。


おみくじを引く。一応大吉。年明け早々あんな事があったが、今年は本当に良くなるのか?。懐疑的にならざるを得ない。






行橋に移動して宿泊。
行橋駅前のビジネスホテル。
部屋が広い。大浴場がある。冷蔵庫がある。インターネットが使える。ミネラルウォーターがサービス。立地もよし。それで素泊まり3500円。大変にお得な宿で、この日も満員だった。


何か行橋名物を食べようということで外へ。

Yさんが北九州へと向かう飛行機内で読んだ観光案内パンフレットに行橋おでんというものが紹介されていたということで、行橋おでんの店を探す。「行橋おでん」という幟の立っていた店があったので中に入り、メニューを見ると日向地鶏の店だった。
1人当たり5000円程飲み食い。豊前なのに日向地鶏で、おでんの味噌は市販のチューブ入りだったが、地鶏もおでんも美味しかった。





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