豊前遠征 〜畝状竪堀と横堀の祭典〜

平成24年1月7日〜9日



大平城の東麓にある石柱




○1月8日

冷え込みが厳しく、車に霜が降りていた。
前日に買っておいた朝食を摂り、7時15分出発。



まずは旧国道10号線を南西に進む。




覗山城



JR日豊本線新田原駅の北東約1kmの覗山山頂が城跡である。
車道が山頂までついているので候補に挙げていたのだが、麓で車止めが為されていたので諦める。
中世城郭と海軍の電探基地の複合遺跡らしい。




気を取り直して反転して県道58号線を西に進み、大谷交差点を左折して狭い道を南下する。



馬ヶ岳城


左:北側中腹から、右側が本丸、右:東丸の東下の堀切


左:東丸から北東方向を望む、右:東丸


左:本丸、右:本丸の西の郭


左:本丸の東側の郭、右:同左の西下にある池もしくは井戸跡


左:北麓の土塁と畝状竪堀、右:畝状竪堀


左:左が畝状竪堀で右が土塁、右:土塁の内側


左:土塁から畝状竪堀を、右:畝状竪堀



平成4年の城郭班創設期の九州遠征の際、窪谷さんと縄田部さんは馬ヶ岳城を攻めるも登り道がわからず撤退しており、窪谷さんにとっては実に20年の雪辱戦であった。しかし現在は比較的わかりやすい登山道と案内板とが整備されており、あっさりと陥落する。

山頂付近の遺構は単調であるが、周辺の尾根には九州北部で良く見られる尾根線に土塁を巡らす朝鮮式山城的な構造が見て取れ、特に麓ものは畝状竪堀と組み合わされてより技巧が富んでおり、まるで近代築城における胸墻と塹壕のように見える。ただ竹が切り払われている範囲はほんの一部のみであり、その多くは密生した竹に覆われて良く見えない状態である。この竹を切り払えば壮大な眺めになるのではないだろうかと思う。

天慶5年(942年)に築かれたといわれている。南北朝時代から室町末期にかけて、大友氏、少弐氏、大内氏、毛利氏などの勢力争いの重要拠点として数々の攻防戦の舞台となった。天正15年(1587年)に九州討伐赴いた豊臣秀吉がこの城に滞在している。九州平定後は豊前六郡を与えられた黒田氏のものとなり、中津城に移るまで居城としていた。




馬ヶ岳の南東を流れる今川を渡り、犀川集落の東に位置する黒岩城へと向かう。



黒岩城


左:本丸、右:本丸の東下の平坦地


左:本丸を北から、右:本丸の北下の平坦地


左:二の丸とされている付近、右:同左北東にある土橋っぽい地形



京都カントリークラブの西にある標高187mの山が黒岩城である。
登山道が見つからなかったので藪漕ぎをしつつ直登する。
地形はぼやけており、明確な平坦地は主郭とその周辺くらいにしかなく、資料に書かれていた本丸周辺の石塁も確認できなかった。事前知識が無ければ城跡とは認識しがたいであろう。

城井氏(宇都宮氏)の城。本城である神楽城の防衛拠点として築かれたものと思われるが詳細不明とある。




西へと進み犀川に出る。
本来なら次は不動ヶ岳だったのだが登り口が今ひとつ明確でなく、時間が押していたのでパスし、その直ぐ南にある山鹿城へと向かう。





山鹿城


左:東麓の登り口、右:南下の平坦地


左:本丸の南西下にある円形窪地、右:本丸


左:本丸、右:本丸の東下の郭にある円形窪地



平成筑豊田川線犀川駅の南西約1kmにある小山である。
登り口は判りやすかったが内部は竹藪となっており、軽い藪漕ぎをする羽目になる。南下の平坦地に出た後、すぐに右(北)に行く方が登り易いかもしれない。
城跡としての縄張りは平坦地のみの構成で凹凸に欠けあまり面白味が無いが、明らかに中世のものではない直径3m程の円形窪地が2ヵ所残っている。戦争末期、城の北東に犀川牧場と呼ばれる隠匿飛行場の工事が行われており、これらはそれに関連する施設(対空機銃座もしくは防空監視所か?)ではないかと思われる。

城井氏の一族である西郷氏の出城で、天正2年(1574年)頃、大友氏に攻められ落城したと伝えられている。




再び南東へと山を越え、城井谷へと入る。

13時を回りかけていたので昼食に。
ただ付近には食堂はもちろんの事コンビニすら見当たらなかったが、雑貨や食品を扱う小さな店を見つけたので、そこでパンなどを購入して昼食に。



毘沙門城


左:本丸、右:本丸の西端


左:本丸の西下の大堀切、右:同左を北下から


左:出丸の二重堀切、右:同左の上部


左:出丸と二重堀切のある尾根を西から、右:この手前の平坦部は後から造られたものか


左:西端にある堀切と土橋、右:城山を東から



同じく犀川駅の南東約3km、下木井集落の北にある。神社と墓地になっており道は比較的良く整備されている。
堀切が深く、また地形も高低差がありメリハリが利いている。
ただ西端部付近の二重堀切は周囲に平坦部があり防御施設としては意味を成しておらず、後世に周りが削り取られてしまったのかもしれない。

城井氏の城。神楽城の出城として築かれたといわれている。




続いてすぐ南にある神楽城へ。



神楽城


左:二の丸、右:本丸の南の土塁


左:本丸、右:本丸北端


左:本丸の北下にある堀と土橋、右:北西斜面の(判り難いが)畝状竪堀


左:(判り難いが)畝状竪堀、右:(判り難いが)畝状竪堀


左:(判り難いが)畝状竪堀、右:二の丸南下の堀切


左:南東斜面にある帯郭、右:城山を北東麓から



毘沙門城と同じ下木井集落にある。神社の脇から遊歩道が出ているものの、傾斜が急できつい。
畝状竪堀が周囲を取り巻いているが、城域の半分以上が藪に覆われており、折角の凹凸とあまり楽しめない状態になっている。

城井氏の城。文治2年(1186年)に地頭職に任ぜられた宇都宮信房は城井郷を本拠とし、神楽城を築いた。後に本城が本庄に移されると出城となり、応永年間(1394〜1428年)には城井直房が城主であった。




更に山を東に越えて県道237号線を城井川沿いにひたすら南下する。
寒田から県道32号線を東の山の中へと入って行く。



大平城


左:北の出丸、右:同左の西下斜面、ここを這い上がった


左:北の出丸の東斜面、右:出丸から本丸を見上げる


左:本丸、右:本丸の西下にある二の丸


左:本丸の南下の郭、右:同左の南の郭というかただの尾根


左:本丸南下にある石塁跡っぽいもの、右:本丸の北下斜面


左:城山の北西麓にある登り口、右:城山を東下県道脇から見上げる、北の出丸付近、断崖絶壁



県道32号線を東に登って行くと、求菩提山の北西約1kmに大平城がある。
県道32号線の道幅が心配だったが、つい最近整備されたようでかなり広い道だった。ただ山間部だけあってあちこちに雪が残っており、スタッドレスでなかった為に運転が怖かった。そしてこの県道整備の為か、登山口がわかりにくくなっていた。
まずは地形的に楽そうな南東の尾根筋からアタックするも、すぐに大きな落差が出てきて進めなくなり引き返す。次に北へと回り込むと、北西麓の県道脇にピンク色のテープで印がつけられているのを発見。これを辿りながら杉林の急傾斜をよじ登り、ようやく北の出丸へとたどり着いた。
未完成であるためなのか、それともこの急峻な地形そのもので防御力が十分だったためなのか、縄張りはあまり明確でない。本丸の南に伸びる尾根上に、石塁跡のような石列がある。

城井氏の末期の本城。
秀吉による九州討伐では城井氏は秀吉方についたものの、その勢力圏であった築城郡と仲津郡は黒田領となり、城井氏は伊予へ国替を命じられてしまった。これに反発した城井氏は城井谷に攻め込み、大平城に立て篭もった。毛利輝元の応援を得て黒田長政がこれを攻めるものの失敗したため、黒田氏は仮の和睦で城井氏おびき出し、これをことごとく誅殺してしまった。




県道32号線をそのまま東進して今晩の宿のある中津市へ向かう。
光量がまだあったので、移動の途中にあった下川底城に立ち寄る。



下川底城


左:南東から、右:東端


左:神社の東下の郭、右:貴舩宮


左:神社の西の堀切と土橋、右:その西の郭


左:西の郭、右:堀のあった部分


左:西端の堀切、右:同左の南側


左:北側の川、右:北東から



豊前市立合岩中学校の東300m、貴舩宮の周辺一帯が下川底城である。
南北の2本の川に挟まれ、幅の広くなっている西側には2本の堀が作られている。西側は畑になってしまっているが、それでも当時の面影を残す地形を伺うことが出来る。




中津駅前のホテルで一泊。えらく合理的なホテルで、低料金の割にはベッドや枕はソコソコな高級品を使用し、また温泉施設を備えている一方、アメニティの一部はフロント脇での配布、更に部屋にある歯ブラシを使わずにフロントへ返却すると菓子をもらえるようになっており、料金は清算機で直接支払い、温泉も1つのみで男女は時間で分けられていた。兵力の集中は戦術の基本である。

近くの居酒屋で飲み。今夜は海鮮系。
一人6000円程。自分は多少とも割り引いてもらえたので5000円弱の負担で済んだ。





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