阿波と淡路に雪が降るのだ

平成17年 1月8日〜10日







「駄目です。崩落しています」

流れ落ちた土砂が車道を完全に塞いでいる。ここから山頂まではまだかなりの距離がある上に、その先にどういう情況が存在するかもわからない。

「…しかし、行くしかないだろう」

窪谷さんは吐き捨てるように言う。確かに、ここは強襲してしまわなければ、後々のスケジュールに差し障る。弱音は言っていられない。
大急ぎでアタックの準備をする。本来なら足場の悪さや危険性を考慮して十分な装備をしておきたい所だが、いつもの軽装備でアタックをかけるしかない。メンバーの間にピリピリとした緊張感が走る。

自分の先導で車道を塞いでいた土砂を乗り越える。
さっきまで白い雲から青空が覗いていた天気が、今は一面の灰色になっている。気温もかなり下がり吐く息が白い。風も幾分出てきた。

「雨か、それとも…」

頭をかすめる嫌な予感を払いのけるように、前へと進む。


そしてこの後、淡路島の山の中で、我々は伝説の白い悪魔に遭遇する事になるのであった…

(「白い悪魔」新田三郎 民明書房 より)



…冗談はさておき、1月の連休で、淡路から阿波、讃岐を回った。メンバーは窪谷さんと石神井さんとの3人。移動距離もそれ程でもなく、気候も温暖な四国と淡路島。しかし、道が崩落しているわ、道を間違えるわ、アクシデントの多い遠征になってしまった。



○1月8日

午前9時27分垂水着の快速で来られる窪谷さんと石神井さんとを迎えに行く為に家を出る。これだけ近いと渋滞等の時間を殆ど読まなくても良いので楽である。

無事にお二方を拾い、垂水ICから明石大橋を渡る。3人も居るので1人当りの負担は小さい。というよりか、もう少し通行料を安くしてもらえないのか。
津名一宮ICで降り、県道88号線を北西へ。



郡家城


全景(北西側から)、北西側の郭



池?、郭間の段差の斜面




田村氏の居城。淡路一宮の祭主家として淡路に来島し、後に勢力を振るい豪族と化した。足利氏、それから三好氏に属し、天正10年(1572年)に羽柴秀吉の淡路制圧の際に滅亡した。

二つの河に挟まれた緩やかな丘陵上に郭が繋がっている。最高所の郭の南東には大きな堀切があるのだが、矢竹が群生していたので無理をして降りなかった。
全面竹林で、写真を撮りにくい事この上無い。更にカメラの露出を間違えてしまった為に色が飛んで見にくくなってしまった。


県道88号線を南下、県道66号線に入って南西、鮎原から細い道を伝って登り口へと寄せる。県道に小さいながらも看板が出ており、それに従って進めば城山へと登る道へと至る。



白巣城


本丸周辺、雪が舞っている



北東の郭、その南側







北の谷にあった駐車場が全滅、流されたトイレ


この白巣城は、城のすぐ下まで車道が延びており、また郭の手入れも行き届き、尚且つ眺めも良いというコストパフォーマンスの大変に良い城であった。そこで30分くらいでさらっと流すつもりで計画を立てていたのだが、2004年秋の豪雨で大変な被害を被っていた。
とにかく車道が塞がれているので、殆ど麓に近い所に車を置いて徒歩で登った為に、片道で20分以上かかってしまった。更に郭下が大崩落していたために郭に取り付くのにも苦労する。ただ遺構に関しては、豪雨の影響は全く受けずに無傷であった。
しかし今度は登っているうちに雪と霰が降り始め、漸く城に取り付いた頃には激しくなった。雨具は車に置いてきているのでどうしようもない。おまけに雪で写真も上手く撮れない。これ以上酷くなったら山から下りれなくなるので、大急ぎで見て回った。

安宅氏の城といわれているが詳細はわからない。天正9年(1581年)の羽柴秀吉の淡路攻めの際に落城したと伝えられている。



麓に下りる頃には雪も止み、晴れ始めた。

県道46号線で洲本市街に向かう。途中のうどん屋で昼飯。釜揚げトロロ。
洲本市街を突っ切って県道76号線に入り、由良を目指す。



由良城、成山砲台


観測所から成山第1砲台(21cmカノン砲×6)、第1砲台の15cmカノン砲砲台



南方、高崎砲台・生石山砲台を望む、西側下平坦地にある井戸





元々陸続きだったものが江戸中期に運河で分離され、明治時代には砲台が築かれ、戦後には国民宿舎が建設され、平成には何も無くなった。今は砲台の残骸を中心に残っているだけで、由良城の痕跡は全く残っていない。
砲台の残骸も少ない。
成山第1砲台南部の15cmカノン砲台は形だけは残しているものの、爆破によってコンクリートと煉瓦の遺構は破片となって転がっている。更に雑草や潅木も生茂り、撮影は困難である。
第1砲台北部の21cmカノン砲台は、観測所の一部を残して、真っ更になってしまった。探せば何か出てくるのかもしれないが、ススキが生茂って地形を把握するのも難しい。
北側にある成山第2砲台の28cm榴弾砲台は、完全に矢竹に覆われて入る事すら出来ない。入り口に手が加わっていないので意外と奇麗な形で残っているのかもしれないが、直径1cm以上もある竹を片っ端から刈り取らない限り、入る事も撮る事も不可能である。
北西隅にある筈の第2砲台の12cmカノン砲台は、時間が無かったので行かなかった。以前に一人で来た際に、それらしき場所を歩いた事があるのだが、砲台のようなものが有ったという記憶が無い。恐らく15cmカノン砲台と同様に、爆破で破片となったコンクリ片が草に埋もれてしまっているのだろう。
21cmカノン砲台の西手から下に下りる軍道は、国民宿舎時代にも使われていたようでしっかりと残っている。この軍道脇には、要塞時代の井戸や排水口、炊事場の跡等が点在している。

由良城:かつて由良の港は栄えており、成山の西にある小山に旧い由良城が築かれていた。慶長18年(1613年)岩屋城主の池田忠雄が成山に新しく城を築き、城代を置いた。しかし完成してすぐに備前へ国替えとなり、代わりに淡路に入った蜂須賀至鎮もここには入らず城代を置く。その後由良から洲本へ城下町の移転が行われ、自然と廃城になったようである。

成山砲台:紀淡海峡を封鎖する為に、明治23年から建設された。火砲によって備砲の時期はまちまちで、全部の火砲の備砲が終わったのは、明治32年である。またその殆どは、大正13年の要塞整理で廃止となった。



生石山砲台


第4砲台の砲側庫、堡塁の塹壕



第1砲台の砲側庫、砲座と横楼に上がる階段



第1と第2砲台の間にある台座(観測器?)、駐車場から高崎砲台



発電所の冷却水用貯水池?、発電所取水口?



取水口上部にあるい井戸、発電所建屋とその裏の瓦礫




由良の港の南側の、海に突き出た標高100m程の山の上に、第1から第5までの各砲台と、防御の為の堡塁、そして発電所等が点在している。
2年ぶりくらいに来たら、潅木や雑草がある程度切り払われて見学しやすくなっていた。しかし相変わらず第2、第3砲台は開放されておらず、他の部分も整備されているとは言えない状態のままであることには変わりない。

また偶然に発電所を発見。案外と凝った造りの上によく残っていた。この発電所の裏手に電灯所があったものと思われるが、時間が無かったので見れなかった。

生石山砲台:明治22年から築城が始まり、明治33年にかけて備砲を行った。




日も暮れてきたので、大急ぎで三原へと向かう。
国道29号線で三原の平野に入り、養宜上の交差点で右折。県道477号線を進み、病院の交差点で右折。





養宜館


東側の土塁(内側から)、北側の土塁



西真中から東、西真中から北東(薬師堂)






現在は東側と北側に土塁を残すのみである。
北側の土塁には登れたが、東側の土塁は竹薮になっているので入れない。

暦応3年(1340年)、足利尊氏の命で淡路国の南朝方を制圧した細川師氏が築いたとされる。


そのまま県道を西進し、志知城へと向かう。



志知城


南西部の堀、本丸の碑



東部の堀、東部の堀の脇:畑になっている





日が陰るどころか日が沈み、夕焼け空になっている。大系の絵図を基に、まずは北側から攻めるが、雑草に阻まれて突入に失敗する。
といって目の前にあるのに諦めるのも癪だったので、一度県道まで戻って東側から回り込んでみたところ、何とか南側の入り口までたどり着く。結果からみると西側から寄せるのが正解らしい。
郭の内部は草むらになっているが、碑に至るまでは道がある。買い取って公園にでもしてもらえると、有難味は多少減るが回りやすくなる。

土豪の菅氏(後に野口氏)の館を、天正13年(1585年)に加藤嘉明が大幅に改造したといわれている。嘉明が伊予に転封されて廃城となった。



すぐ北の西淡三原ICから高速に乗って、徳島へ。1830にビジネスホテルにチェックイン。
鶏料理の店で夕食、というか飲み。城郭班というと夕食はスーパー飯(スーパーで惣菜を購入してホテルで食べる)なので、こういうリッチな夕食は珍しい。


ここから以下のページへいけます。