阿波と淡路に雪が降るのだ

平成17年1月8日〜10日




岩倉城。白い粒々は雪である。



○1月9日

朝食を済ませて午前7時に集合。チェックアウトを済ませて徳島城へと向かう。



徳島城


南側の門、その内側



午砲台のある郭の石垣、本丸の平坦部





徳島駅のすぐ北(昔は徳島駅の辺りに川が流れていたらしい)。太陽が低すぎて写真を撮るのが難しい。
建物こそ残っていないが、石垣や堀などが良く残っている。しかし本丸のある山が案外と高く、それを石段で登るのは辛かった。

至徳2年(1385年)に細川頼之が築き、家臣の三島外記に守らせていた山城を中心として、天正13年(1585年)に蜂須賀家政が築城した。


8時半頃に徳島城を出発。国道192号線から県道21号線に入り、13番札所大日寺裏手の一宮城を目指す。



一宮城


本丸西側の埋門(?)、上から



本丸南東隅 恐らく石垣、伝・水の手丸の現状





10時過ぎに到着。
以前に八十八ヶ所を回っていた際に、大日寺の傍に一宮城の看板を見かけ登れない事を悔やんだものだが、今回はこの一宮城を目的として看板を眺めている。すると大日寺に泊まっていた半島の若い観光客が10人ほど、暇を持て余したのかこの看板の方へとやってきて、事もあろうに一宮城へと向かい始めた。
特有のハングルで大騒ぎしながらなので煩く、下手に先に本丸へ登られたら写真撮影に影響が出るので、大慌てで先へと進む。麓から10分弱くらい、最初の郭の近くまではやってきていたが、自分たちが考えていた程近くなかったのか引き返してしまった。

麓から15分程で頂上。本丸から西側の郭と本丸とは、よく手入れが行き届いていて、眺めも良い。しかし東側の郭群は道はあっても郭内は潅木や雑草が生茂り、入る事は出来ても写真撮影などは出来ない。「土塁」といった看板が雑草内に建っているのをみると、一時期は手入れされていたようであるが、最近になって人手を省いてしまったようだ。
本丸の東側の谷には湧き水が出ており、この辺りが水ノ手であった事が伺える。しかし大系にあるような池は存在しなかった。また、大系と現地の看板とで水ノ手丸と小倉丸の位置が入れ替わっていた。

暦応元年(1338年)に南朝方だった小笠原(後に一宮)長宗によって築かれた。天正13年(1585年)の四国征伐の際も豊臣秀長の4万の軍勢を1万余で防いだが、長宗我部元親の降伏によって開城した。同年、蜂須賀家政が阿波一国を与えられて一宮城に入るが、直ぐに徳島城に移る。寛永15年(1638年)に廃城。


国道192号線に戻り西進。川島から県道43号線を南下し、斜面に登ったところで脇道に入る。車道脇に看板があり、その脇から道が出ている。



上桜城


本丸の北東の郭、本丸を北東から



西の丸、看板と入り口:カーブの向うの高台が西の丸





木や草が切り払われていて眺めが良い。ただ土塁や堀というものが無いので却って寒々とした感じに見える。
大系にある西の丸横の空堀は、現在は道路になって跡形も無い。

篠原長房が戦国末期に築城したといわれている。元亀3年(1572年)、篠原長房は讒言により三好長治、十河存保ら7000に攻められ上桜城は落城、篠原長房は戦死した。


県道を川島の町まで戻る。



川島城


偽天守閣:城の外れに建っている、本丸の先から川を望む



本丸最高所、二の丸の辺り





いきなり目の前に鉄筋製の偽天守閣が現れた時にはどうしたものかと思われたが、城の敷地外に建っていたので一安心する。
神社の西側に本丸らしき小高い丘が有り、その西の端の岩の鼻からは吉野川を展望できる。敷地には遊具やグラウンド、神社、ミニお遍路等が散在し、元の城郭の遺構は残っていない。

元亀3年(1572年)、上桜城が落城して篠原長房が滅ぼされた後、三好長慶の一族である川島惟忠がこの付近に200貫の所領を与えられ、川島城を築城した。その後川島惟忠は天正7年(1579年)の岩倉合戦で戦死してしまう。秀吉の四国征伐の後に蜂須賀家政が阿波に入ると、川島城は重要な拠点として整備され城番が置かれる事となった。その後、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となる。


県道2号線で吉野川を渡河し、切幡寺の付近へと進む。



秋月城


北側の郭と高丸、道路脇にはスズキの店がある



道路から南東部の堀跡を望む、南西部の神明池




遍路道(県道)が東西に通っている。道の北側は一部墓地になっているものの、それらしき遺構が残っている。しかし道の南側はかろうじて堀跡の田んぼが認められるくらいである。
吉野川の南の山々の所々で、白く霞んでいる。どうやら局地的に雪が降っているようだ。前日の白巣城での降雪といい、どうなっているのだろうか。

建武3年(1336年)、九州に落ちる足利尊氏の命を受けて、四国へと渡った細川和氏・顕氏らが、秋月氏に迎えられて秋月に居館を構えたとある。元々秋月氏の居館があったのかもしれない。貞治2年(1363年)に細川氏が本拠を勝瑞城に移した後は秋月氏の守るところとなったが、その後どうなったかは不明である。天正年間に落城したとも伝えられる。


午後1時も回ったので、昼飯にする。県道12号線を西に向けて走り、適当な店をみつくろって入る。こぎれいなうどん屋だった。

腹も膨れて脇町へ入るのだが、段々と天気が悪くなり始め、パラパラと雨だか雪だか降り始める。



脇城


本丸(?)と南西の郭との段差、記憶が無く不明(本郭南東隅?)



大堀切脇の土塁?、本丸の井戸



本丸東部の大堀切を南から(の筈)、大堀切を東から





脇町の北西に出っ張っている丘陵の南西隅に脇城はある。地図を見て南から寄せてみたのだが、神社脇の坂道で道が荒れて車が入れず、仕方が無いので車を置いて歩いて寄せる。丘に登ると北から良い車道が来ていたので、北側から寄せた方が正解だと思われる。
車道脇から無舗装道に入り、荒れた畑の脇を歩いていると本丸の東にある大堀切に出る。本丸内は一面の藪で見通しが利かないが、南東隅の郭も、井戸も、小堀も良く残っている。恐らく私有地なのだろうが、買い取って公園化して欲しいものだ。

天文2年(1533年)に三好長慶が城を築き、三河守兼則に守らせた。弘治2年(1556年)には武田信玄の弟信顕が長慶の配下となり、この脇城に入った。天正7年(1579年)に長宗我部元親が脇・岩倉城を囲んだが落とす事が出来ず、和睦により開城した。
同年、長宗我部方に降っていた武田信顕が、同じく降っていた岩倉城主三好康俊と謀り、勝瑞方をおびき寄せて挟み撃ちにし、勝瑞方は壊滅的打撃を受けた(岩倉合戦)。
阿波での勢力恢復の為に三好康長が織田家に援軍を仰ぎ、天正10年(1582年)に織田信孝・丹羽長秀らが遠征する事となった。三好康長は武田信顕と三好康俊とを説いて再び離反させたのだが、本能寺の変で遠征は中止。長宗我部元親は好機到来と脇・岩倉城を再び囲む。再び良く持ちこたえたが、北側にある国見の丸から砲撃され落城。武田信顕は落ち延びる途中で討ち取られた。後には元親の甥とも叔父ともいわれている長宗我部親吉が入る。
天正13年(1585年)の秀吉の四国征伐の際には蜂須賀家政を先鋒とする3万の兵で脇・岩倉城を囲んだ。親吉は5000の兵で守ったが遂に開城。親吉の兵は土佐へ落ち延びる最中に土豪に襲われて全滅した。
同年、蜂須賀家政が阿波領主として入ると、脇城を修築して稲田稙元を城番として置いた。そして元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となる。


続いて脇城の1km西にある岩倉城を目指すのだが、雪が降り始める。岩倉城の東を流れる川の右岸を北上したのだが途中で行き止まってしまい、引き返して左岸を北上する。城と思われる丘の西側のトンネルで高速道路をくぐったのだが、西側からは城へ行く道が無く、といって引き返すのも面倒なので藪を強行突破した。



岩倉城


郭の南方に建つ工作所と墓、工作所の南側に碑がある



郭を分断する空堀(笹の葉に雪が積もっている)、東側からの全景





本丸の南側のみ辛うじて開けているが、後は藪に埋もれている。東西の台地や北側も遺構なのだろうが、現在は田んぼ・高速道路・宅地となっていて跡形も無い。東側のトンネルから道が繋がっているので、そちらから来るのが良い。

文永4年(1267年)に三好郡の郡領平盛隆が叛乱した際に、阿波国守護小笠原長房がここに城を築いて盛隆を平定し、美馬郡・三好郡を領有した。脇城が築かれてからは、互いに助け合う形が取られた。
永禄年間(1558年〜1570年)に三好康長の子息である康俊が岩倉城に入ったが、天正7年に長宗我部元親に囲まれると、不利を悟って子を人質に出して降り、却って勝瑞方を謀っておびき出し殲滅している。
天正10年に三好康長に諭されて再び三好方に寝返ったが、頼みの織田方の援軍が本能寺の変で来援できなくなり、長宗我部元親に再び囲まれる。脇城は落城したものの岩倉城は20日間守り抜き、攻めあぐねた元親は人質を返して和睦、康俊は城を明渡して讃岐へと退いた。後には長宗我部親吉が入る。
天正13年の四国征伐の際に、脇城と共に囲まれ、長宗我部新吉は開城する。その後廃城となった。



脇町で吉野川を渡り、三谷へと向かう。向かいの山の頂上にスキー場を認めて、四国にもスキー場がある事を知り驚く。雪は上がって、再び晴れ間が覗きはじめた。

三谷城の麓らしき場所に寄せたのだが、山に登る道が道路工事で通行止め。麓から歩いて登らされる羽目になる。






三谷城を探して歩き回っていると、町内の観光案内図を見つけた。しかしどこにも「三谷城」の文字は無く、逆に「楽喜宮殿(ラッキー宮殿)」という怪しげな施設がデカデカと描かれている。この後、あちこちで楽喜宮殿の看板を見つけたので、これは町を挙げてのお勧めスポットなのだとは思うが、雰囲気からして探偵ナイトスクープのパラダイスみたいな所に違いない。
(後日談。穴吹町の郵便番号が777なので、こういう施設を作ったらしい。リンク 。ここまで無理をしなくても…)



三谷城


西側の郭、本郭を東から:手前の貯水池は堀跡に建つ



南東側から本郭:手前が大きく下がっている、左の写真の逆



右の縄張り図はいい加減なので参考まで


2つの郭が東西に並び、西から南にかけて谷が入り込んでいる。東側には堀が切られており、土橋もあるが昔からのものからは判らない。西の郭は畑、東の郭は養鶏場の跡地、そして2つの郭の間に鉄塔が建つ。碌に使っていないなら、買い上げて公園にしろやい。

城主は塩田政幸で、岩倉城主三好康俊の家老として80貫を領有した。天正10年(1582年)の脇・岩倉城包囲戦の際に塩田政幸は息子時幸と共に善戦したが破れ、三谷城も土佐勢の攻撃を受けて落城した。



国道192号線を西へ。段々と日が傾き、山の北側は大分暗くなってきた。




貞光城


大系で堀跡とされた道・右上が城跡、城跡に建つ丸山庵



丸山庵から北を望む、西の崖の様子(右上の建物が小学校)





住宅街になっており、遺構らしきものは殆ど残っていない。

天正6年(1578年)、東進してくる長宗我部元親を迎え撃つ為に、重清城主小笠原長政の長男長定が貞光城を築いた。天正7年に東進してきた長宗我部元親は重清城を攻略、ついで貞光城も攻められて落城。小笠原氏は滅亡する。


吉野川を北に渡って西進、重清城を目指す。




重清城


南から見た二重堀、郭内部の小笠原神社



西側の土塁、西の一段下にある民家の庭



北東隅の井戸、北東部の谷:かなり深い



北東隅の土塁と堀、北から見た二重堀





初めて重清城を築いたのは、小笠原長房の孫長親といわれている。
天正6年(1578年)正月、重清城主小笠原長政は白地城主の大西覚養の策略に嵌って殺害され城を乗っ取られる。しかし長政の息子長定は十河存保と共に3000の兵を率いて重清城を攻め、覚養に対して和睦を持ち出し、城を引き上げる大西勢を追撃して覚養を殺している。
しかし翌年には長宗我部元親が本格的に阿波に進出し、三好側も重清城付近の吉野川でこれを迎え撃つが、多勢に無勢で敗北。重清城も落城する。



2日目のスケジュールを終え、大急ぎで高松へと向かう。本来なら国道438号線から県道39号線で行くのが近いのだが、地図から見るとこのルートの道は狭く夜間走るには恐ろしいので、安全策を取って道の良さそうな国道193号線で高松市に入る。
栗林公園に近いビジネスホテルにチェックインをし、窪谷さんの大学の同期で高松在住の仁浦さんと合流、市街の居酒屋で飲む。値段の割に料理の量が多く、四国の物価の安さを実感した。



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