城マニアによる最高のおもてなし(三備)

平成23年1月7日〜10日

大松山城から北東の吊り橋を望む




○1月9日

お客人の反応の悪さに不安を抱えつつ迎えた接待2日目。しかし今日は、今回の遠征の目玉である備中松山城を攻略する予定であり、劣勢の挽回もまだ可能である。そしてもう一つの心配の種だったRさんの体調不良も快復し、荷物を車に積んで出発する。

高梁市へと向かう途中、総社の鬼身城へと立ち寄る。




鬼身城


左:本丸南側、右:本丸北側


左:本丸から南方を望む、右:本丸の北下


左:更に北下を、右:同左から本丸を


左:本丸付近から北東を望む、右:北端付近から南を望む


左:北端付近から東を、右:北端付近から本丸方向を


左:東斜面の段から本丸方向を、右:北東端から西側を


左:東斜面の段から本丸方向を、右:本丸東下の崩落した石垣


左:本丸東下から北東方向を、右:北東端の段の南下の崩落した石垣


左:東端下付近の井戸跡、右:北東の入り口付近から南西方向を


左:北東の入り口付近の石垣?、右:更に北東端の郭


左:蟻ヶ峠から城への道の分岐、右:同左から北の駐車スペースを



総社駅の西北西約5kmの山中に鬼身城がある。山田集落から北に伸びる林道を北上し、華光寺との分岐を東側に進み、蟻ヶ峠から更に東へと登ると山頂付近まで軽トラなら辛うじて登れるくらいの幅の広い登山道が付いている。ただ実際に峠から山頂までの道は軽トラでもかなりの運転技術が必要で、蟻ヶ峠までの道もダートで、普通車だとギリギリのところであった。蟻ヶ峠までは北からの方が距離が短いものの、途中急カーブがある為に軽トラでないと難しいと地元の方に教えていただいた。
軽トラを入れて整備しているだけあって、急峻な地形の割には良く整備されている。年越しにもイベントを催していたらしく、丁度片付けに地元の方々が来られていた。郭の配置は独特ではあるが、至る所に崩落した石垣の跡が残っている。せめて蟻ヶ峠まで舗装してもらえると良いのだが、それも難しい話なのだろうと思われる。

本格的な山城としては良く整備され、縄張りも把握しやすい良い城であったが、肝心の客人の反応は今ひとつであった。これで山頂が林で眺めが悪かったら更に反応が悪かったのかと思うと、ヒヤッとするものがあった。


築城時期は源平合戦の頃まで遡るらしい。文亀元年(1501年)頃からは上田氏の居城となるものの、天正3年(1575年)に毛利氏に攻められ落城。その後は宍戸氏の居城となるが、関ヶ原の戦いの後に廃城となる。






大松山城


左:江戸時代に入って築かれた貯水池、右:同左の水門


左:貯水池を南西から望む、右:貯水池脇から天神丸北下の郭群を望む


左:貯水池北西にある堀切、右:北西側のピークの、南西下の段


左:井戸、右:北西側のピーク、東側の郭


左:北東の吊り橋を望む、右:東端付近


左:北西側のピーク、東側の郭と中央の郭の間の堀切、右:中央の郭


左:中央の郭と西側の郭との間の堀切、右:西側の郭


左:井戸のある付近へと下る道、右:天神丸の南下の堀切へと続く道


左:天神丸南下の堀切、右:発掘中の天神丸


左:土塁と石塁?、右:堀切の南側の郭


左:その南下の郭、右:同左内部


左:相畑の最上部付近、右:同左の平坦部


左:相畑の石段、右:同左


左:相畑の下にある井戸、右:小松山との間の堀切



最近は北東側にも林道が延び、そこから遊歩道で吊り橋を渡って大松山まで来ることが可能になっている。
北東からの道を登った辺りに近世に築かれた石垣造りの貯水池があるが、その他はあまりはっきりとしないぼやけたような縄張りが続く。特に北西側のピークはまったりしている。南東側の天神丸を中心とした郭群はまだ山城らしい凹凸がしっかりしているほうだが、それにしても明確な防御施設が少ない。また天神丸付近は発掘調査中で入れなかった。

客人の反応だが、吊り橋は大いに喜んでいただけたものの、肝心の城に関しては無反応だった。ただのハイキングにしかならなかった。






備中松山城


左:上の太鼓櫓、右:同左


左:下の太鼓櫓、右:大手門付近


左:大手門、右:同左の北上の石垣


左:下の段、右:トイレ跡らしい


左:本丸付近、右:北端付近の石垣、修復中


左:北端の櫓、右:埋め門


左:天守閣内部、右:天守閣上段


左:天守閣出口から本丸内部、右:天守閣



中国地方でも最も有名な城で、現存十天守の一つ。
冬は(山城なのに何故か)オフシーズンなので、普段はマイクロバスでしか行けない太鼓丸下の駐車場まで車で登る事が可能である。ただ、そこから本丸まで比高で150m弱登らなければならないので、間違っても真夏に行く場所ではない。本丸の北の郭は、丁度修復工事中であった。

おもてなしとしてはメインディッシュに当たる部分であり、当然に良い反応を示すかと思われたが芳しくなく、しかもここで遂にリタイア宣言を出されてしまう。
本当ならばSさんとRさんの2人は、翌日の正午に福山駅で解散して広島へ向かう予定だったが、Rさんの強い要望で今日中に広島に入ることにしたのである。
確かに、興味も何も無い所を引きずりまわされ、それも山の中を歩き回らされたら、幾らそれが接待であろうとも嫌になるというものである。


承久の乱後に相模の国から移ってきた秋庭氏によって大松山に城が築かれたと言われているが、範囲は不明である。その後、高橋氏、再び秋庭氏、上野氏、庄氏、三村氏と城主が目まぐるしく交代してゆくが、天正3年(1575年)に毛利氏に攻められ落城する。その後は毛利氏の備中の拠点となったが、関ヶ原の戦いの後没収され、徳川方の小堀氏の居城となる。その後天和3年(1683年)から水谷氏によって近代城郭への移行工事が本格化する。





ともかく予定を変更して、直ぐに2人を福山駅までお送りする事になった。高梁ICから高速道路に入って福山東ICで降り、車の少ない北から福山駅へ。午後2時過ぎに到着し、2人と別れる。



何が間違っていたのか?

この1日半で回った城は全国でも一級なものが殆どであった。しかし、肝心の接待の対象者が城に興味を寸分も持っていなければ、例え最上の城郭に案内したところで意味を成さないのである。当たり前といえば当たり前すぎた。


しかし落ち込んではいられない。我々の前にはまだ多くの城が立ちはだかっているのである。
この予定変更で相当に時間を浪費してしまったものの、大急ぎで態勢を立て直し、再び我々のペースでの城攻めを再開する。いや、しようとした。



銀山城


左:東斜面の畝状竪堀を下から、右:同左


左:東斜面の畝状竪堀を南西上から、右:同左


左:南端の郭の虎口、右:南端の郭


左:南端の郭と一つ北の郭との段差、右:一つ上の郭


左:本丸の南下の段差、右:本丸中心部を南から、藪


左:本丸中心部を北から回り込み直して、右:本丸中央部付近の穴


左:穴付近の平坦地、右:本丸の北下にある穴


左:本丸北下にある大堀切?、右:東に伸びる郭群の西端にある堀切


左:東に伸びる郭群の一角、右:東に伸びる郭群の東端付近


左:東に伸びる郭群の、南下の石垣、右:同左


左:車道脇の登り口、右:登り口と車道



事前に城郭放浪記で登り口の情報を調べておいたのだが、間違えて一つ北の谷筋を登ってしまう。実際に車道脇から登り易い道があり、それが行き着く尾根に堀切と土橋とがあった為にここで正解だと勘違いしてしまう。しかし付近を探索するにつれて縄張図と地形とが合わなくなり、ようやく間違いに気づく。
直ぐに正しい登り口を見つけたのだがここも酷いもので、車道脇の8m近い崖をよじ登らなければならなかった。城域も藪に埋もれており、本丸中央部の藪は特に酷く、南北に通過できなくなっていた。そのために西斜面の畝状竪堀を見に行く余裕が無かった。
ただ、畝状竪堀や石垣などが明確に残っている部分もあり、しっかりと整備すれば見ごたえのある城郭ではないかと思われる。また備後の山城を扱った「続・山城探訪」に書かれている城跡の説明板(城の南西下の車道脇にあったのか?)は見つけられなかった。


杉原氏の居城。後に毛利方となり、杉原盛重は神辺城主になっている。しかし天正11年(1583年)に杉原氏が没落すると廃城となった。





取り付きを間違えて時間を大幅にロスしてしまった為に、再開後たった1城で本日の日程も終了。ほうほうの体で福山駅前のホテルへと退却する。


夕食に福山駅前を回ってみるものの良い店が無く、駅前のスーパーで惣菜を購入し、ホテルの部屋で食べる。城郭班の原点復帰である。

心身共に疲労著しく、早めに就寝する。





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