城マニアによる最高のおもてなし(三備)

平成23年1月7日〜10日


天神山城の虎口





○1月10日

福山市街の西を流れる芦田川を遡り、相方へと向かう。新市工業団地の西奥から細いながらも車道が頂上付近まで登っている。



相方城


左:西側の郭の展望台から本丸を、右:展望台から西下を


左:西側の郭の西端から、右:西側の郭の南下の石垣


左:本丸の西下の石垣、右:本丸の南下の石垣


左:本丸西側の石段、右:本丸と碑


左:本丸、東側を望む、右:本丸東端から下を


左:本丸の南下の郭、右:本丸の東下の石垣


左:本丸の南下の石垣、右:同左


左:本丸の南下の崩落した石垣、右:城域を東からロングショットで



城域には4ヶ所もテレビ塔が建設されているものの、石垣が比較的良く残っている。また公園として整備もされており見栄えも良い。そして城からの眺めも良い。そして何よりも頂上まで車で登れる。良いこと尽くめである。

有地氏の城。有地氏は、元はこの付近一帯で力を持っていた宮氏だったものの、兄弟の不破から宮氏から別れて有地へと移り有地氏を名乗るようになる。そして尼子方だった宮氏に対抗して毛利氏につく。天文3年(1534年)の亀寿山城攻めで本家である宮氏が滅ぶと、代わりにこの付近で勢力を拡大していった。そして三代目となる元盛は永禄から天正の初め頃にかけ(1558〜1573)相方城を築いて本拠をここに移した。しかし天正16年(1588年)に豊臣秀吉によって「諸国山城御停止」が出されると廃城となった。





南東へ約4kmにある利鎌山城へと向かう。



利鎌山城


左:西端の堀切と土橋、右:南斜面の畝状竪堀


左:本丸西下の大堀切の南下、右:大堀切


左:大堀切を上から、右:本丸北西下の畝状竪堀


左:畝状竪堀、右:畝状竪堀


左:本丸の東側、右:本丸


左:本丸から西下の大堀切を、右:本丸から北西方向の相方城を望む


左:東側の郭、右:同左の東端の土塁


左:北東へと続く堀切群、堀切右:


左:更に北へと堀切は続く、右:堀切群から東側の郭を見上げる


左:更に北下へと続く堀切、右:東側の郭の西下の畝状竪堀



福山市立動物園の南約500mにある木野山神社の脇に登り口がある。貯水槽まではコンクリート舗装の道が、またそこから先も良く整備された遊歩道が本丸まで続いている。ただ道が狭いため車は神社よりも手前に置いた方が良い。また遊歩道が尾根に取り付いた辺りから南の谷へと降りる道もあり、南の谷からも登ることが可能なようである。

平坦地は少ないが、周囲を無数の堀切と畝状竪堀が取り囲んでおり壮観である。整備も行き届いており、畝状竪堀の形状を認識しやすい。ただ東側の郭から先には道が無く、今回は無理をして降りてみたが、足場も悪くお薦めは出来ない。

鎌倉時代に地頭の福田氏によって築かれたといわれている。足利直義によって福田氏が滅ぼされた後は岡田氏がこの地に入るが、岡田氏も勢力を拡大してきた有地氏の攻撃を受け滅亡した。





東へ約4kmの近江城へと向かう。



近江城


左:本丸の石碑、右:本丸南下の堀切っぽいもの


左:北東の郭、右:東にある駐車場から城を望む



金剛寺の西の山が近江城である。初めは南を走る車道から直接本丸へ行こうと思っていたが、藪である上に車を停めるスペースも無く、金剛寺の駐車場に車を停めて、寺の裏から回り込む。
掃除をしていた寺の住職の話によると、毎年2月頃に山頂までの道の草を刈るそうで、1月頭の時点では藪に埋もれつつあった。本丸の先(南側)は藪である。明確な堀切や土塁といったものは残っていない。

光成氏の居城といわれている。





北上して国道486号線に出て東進。



天神山城


左:南下から、右:同左


左:南西の虎口、右:同左から南西下を


左:南端から北を、右:神社の西から南西を


左:神社から南を、右:南西を


左:南端の二重土塁、右:南東の虎口


左:北東側の土塁、右:神社の北側


左:南下から、右:山の中腹にある天満神社



県立神辺旭高校の北東の要害山山頂に天神山城がある。城の南西麓にある天満神社までは車で登ることができ、神社の裏手から遊歩道が山頂まで伸びている。山頂は二重の土塁で囲まれており、季節柄、草が刈られていた為に起伏を楽しめた。特に南西と南東の虎口付近は面白い。

詳細不明。宮氏もしくは山名氏によって築かれたとみられている。





作戦終了時間も迫って北ので、解散場所である岡山へと国道486号線を東進。昨日攻略予定だった高越山と矢掛茶臼山を拾いに行く。



高越山城


左:4の郭から1の郭を見上げる、右:1の郭


左:1の郭から4の郭を、右:1の郭から2の郭


左:1のくるわの南斜面、右:3の郭



井原鉄道井原線の荏原駅の北東約2kmにある。車で行くと荏原小学校の北から北東に登り、それから南下するようになっている。城のすぐ麓まで車道が来ているが、少し北に立派な駐車場があるので、そこから歩く。
良く整備されておりアクセスもしやすいが、小ぶりで防御施設も貧弱であり、今ひとつ物足りない。

備中伊勢氏の居城。北条早雲が生まれた城としても有名。





更に東進。



矢掛茶臼山城


左:本丸、右:本丸西下の石垣


左:鎮守丸手前から本丸方向を、右:鎮守丸


左:鎮守丸を南から、右:二の丸


左:二の丸の南東の郭、右:爺ヶ段を見下ろす


左:二の丸と三の丸の間、右:同左


左:三の丸、右:三の丸の南の石垣


左:二の丸と三の丸の間の井戸、右:同左アップ



矢掛の町の南東約2km、茶臼山一帯が城跡であり、現在は茶臼山文化の丘として公園整備されている。南麓には水堀もあったものの、現在ではごく一部が残るだけになっているらしい。城域の中央部にあたる鎮守丸に駐車場がある。
本丸と三の丸の一部に石垣が残るが、後はだらだらと平坦地が連なっているだけである。築城時期が遅いにも関わらず防御施設には乏しいのは、麓の水堀を前提としているからなのだろうか。二の丸と三の丸の間のなだらかな谷地は芝生になっており、ボール遊びでもすると楽しそうである。

天正12年(1584年)に毛利元清によって築城されるが、関ヶ原の戦いで毛利氏が移封された後に廃城となった。





窪谷さんの帰りの新幹線の時間も近くなったので、以上で終了。
岡山駅まで行くと渋滞で時間も読みにくくなるので、伯備線の清音駅までお送りする。






総括:

城郭班初の一般のお客さん、しかも外国人の接待遠征という異例の企画であったが、慣れない事はするものではないという結果に終わった。ただでさえ一般人との間の壁が厚い所に、その上に文化も言葉も違う外国人というマイナス要素を積み上げれば、それは負けるに決まっている。


では、城の魅力は一般人には通じないものなのか?

無駄な努力をするくらいなら、城を好き者同士で好きな城へ行った方が断然に楽しい。実際に窪谷さんと2人で回っていた所は面白かった。そしてこの面白さを言葉にするのは難しい。畝状竪堀の間を這い登る時の興奮は説明できない。
しかし楽しいからこそ、この喜びを他の人にも伝えたいと、そう思うのである。15年前から遠征記をまとめ始めたのも、どうにかしてそれを他の人に伝えたかったからである。それでも伝わらないのは、伝え方が悪いのか、そもそも伝わらないものなのか、表現力が無いだけなのか、わからない。

ただそれでも、今回の遠征でわかったことが一つある。


それは、何も考えずに直球勝負をしても、一般人には通じないということである。



戦果
	攻撃対象	17城

	うち 棄権	1城

			16城	攻略



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