「玉川兄弟」の男たち−2(ベテラン篇)(杉本苑子著「玉川兄弟」(文春文庫))  



井沢蘭考「疑うやつは向う脛でも背骨でも、ためしに折っぺしょってこい。即座に伊勢踊りだろうが槍踊りだろうが、踊れるまでにし てやるわ」

吉平「ともあれいそいで、枡屋と謀反人どもとのつながりをもみ消し、潔白を証して彦太の身柄を取りもどす算段をすることでござい ます。清右衛門さまは番所に駆けつけて、どなたか懇意な与力衆にたのみこみ、奉行所に泣きを入れてくださいまし」

篠井誠之進「ご酒は、ご宴席でじゅうぶん頂戴いたしました。眠くもございません。このままいつもの通りお次に控えていとう存じま す」



「玉川兄弟」のあらすじ…「玉川兄弟」の男たち−1(若手篇)をご覧ください。



次は中高年以降の、頼もしく存在感あふれる人々について。

井沢蘭考は、府中の町医で、普請場の嘱託医となります。本職は外科ですが、田舎医者なので本道(内科)、眼科、産婦人科から獣医に至 るまで、なんでも診られなければ勤まらないと本人も言っています。それだけに腕は確かで、一人で献身的に大勢の組子たちの流行り風邪 の診療にあたり、ほとんどの者を快癒させます。外観はぎょろ目で口が大きく、なまずに似た倣岸な面構え、口が乱暴で、無理をして瘧を ぶり返す清右衛門をこっぴどく怒鳴りつけたりもしています。けれど、普請場が熊川に移ったときも、腐れ縁だと言いながら一緒に移り、 口では文句を言いながらも甲斐甲斐しく病人の面倒をみます。いつ怪我や病気に見舞われるかわからない普請場では、こんな医師こそ頼り にされ、感謝されたことでしょう。組子の源次や小芳、伊奈半十郎らの、いくつもの重い死がある中で、この医師の存在は小説に明るさも もたらしてくれています。冒頭のせりふは、腕は確かなのだろうかと組子たちにささやかれた時に彼が豪語した言葉です。

吉平は庄右衛門の店の番頭で、若い登場人物が多い中、額が禿げ上がっているという中年で、落ち着いた実直な人でもあります。まだ若い 庄右衛門が、伊奈の死などに動揺を押さえ切れない時も、自分がしっかりしなければと思い、主人を励まし力づけます。とっさの場合の判 断もさすがに年の功で的確です。それでいて出しゃばった印象は少しもなく、あくまでも忠実で、信用できる人なのです。庄右衛門も年齢 のわりには落ち着いて柔和、それでいて打つべきところでは先手を打つという人ですが、若い庄右衛門が海千山千の同業者の中でも抜きん 出ているのは、いざという時の吉平の功績も大きかったのでしょう。
昔、「太陽にほえろ!」というドラマで、中年の、穏やかな中に固い意志を秘めた刑事を下川辰平さんが演じていました。吉平さんから辰 平さんを連想したわけではありませんが、下川さんが演じたらぴったりな役どころかも知れません。

篠井誠之進は関東郡代伊奈半十郎の家扶で、江戸の屋敷と普請場を常に伊奈に付き添って同道し、夜食を調えたりといったような私用まで 含めて忠実にこなし、激務にも疲れをほとんど見せません。伊奈につき従う影のような彼は、伊奈の自裁にあたっては介錯を務めたあと自 らも追い腹を切り、その死出の旅にまでも同行することになります。伊奈は自裁を決意した後、息子半左衛門と側女のお絹を正式に祝言さ せるのですが、それには身内のものたちを集めてひそかに別れを告げ、半左衛門を中心に、子や孫に伊奈家のあとを託すという裏の意味が ありました。その意味を知っていたのは篠井だけで、さすがに、いつもと様子が違うことを半左衛門に気づかれるのですが、それでも沈黙 を守って伊奈に従って行きます。その無私の献身、いささかの迷いもなく敬愛する伊奈に従う姿に、半左衛門はわずかに嫉妬を覚えたほど で、そのあと彼の遺骸に、これからも父上を頼むぞ、とささやいています。篠井にしてみれば、きっと幸福な死に方だったのでしょう。


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