林瀧野(田辺聖子著「千すじの黒髪」(文春文庫))   



「それは先生がいつも試験に満点下さっていたからでしょ。いつか、わたくしのお答えがまちがっているのに満点がついていて、わたくし 先生のところにいいにいったりしましたわ」



「千すじの黒髪」のあらすじ

明治三十三年頃、浪漫派歌人与謝野鉄幹は同人「よしあし草」の短歌の選者となり、自らも熱い壮士風の歌を詠んでいた。そこに、堺の 老舗菓子屋の娘、鳳しょう(のちの与謝野晶子)が入会する。晶子は古典文学を愛する聡明な娘で、家では学問の機会もなく、縁談ばかり すすめられることを物足りなく感じていた。晶子は、歌を通じて新しい世界を開かれるように思う。与謝野鉄幹、美少女山川登美子、河野 鉄南らとの出会いも鮮烈であった。とりわけ登美子とは姉妹のように親しみ合い、のちにはともに鉄幹を慕い合うようになる。

与謝野鉄幹は幼い頃寺に養子にやられ、徳山で教師になった。美男子で頭のよい彼は、自尊心も強かった。教え子の浅田信子と恋におち 誘惑したとして職を追われる。その学校で林瀧野にも出会い、その清らかな美貌と聡明さを愛し、のちに妻とする。

瀧野はやがて、鉄幹と浅田信子の事件を知り、嫉妬とともに、鉄幹の隠し事の多さを不快に思う。鉄幹があまりにも自意識過剰で、子供 のように自己中心的なことにも違和感をもつ。鉄幹は瀧野をある程度理解しながらも、彼女の真面目さを心の狭さと感じ、二人の間には隙 間が生まれる。

そんな鉄幹にとって、晶子と登美子が競い合うようにして自分を「先生、先生」と熱く慕うことは大きな慰めであった。鉄幹は瀧野の実家 の援助で同人誌「明星」を発行し、その内容は晶子や登美子らの公開の恋文のような歌で埋められる。瀧野は鉄幹と別れることを決め、そ のことに傷ついた鉄幹は、晶子と登美子を誘って旅をする。登美子は晶子に、縁談があって郷里へ帰ること、晶子のためなら鉄幹をあきら められることを告白する。ほどなく、鉄幹と晶子は二人で粟田山の宿に泊まる。

瀧野が実家に帰り、晶子はすべてを捨てて東京の鉄幹のもとへ走る。晶子と共に暮らしても、鉄幹は瀧野への未練を断ち切れず、それを 隠そうとすらしない。晶子は瀧野への罪の意識を覚えながら、嫉妬にも苦しむ。妻がいる身で晶子と暮らし始めた鉄幹には批判も多かった。 晶子は鉄幹との愛を開放的に歌い上げた歌集「みだれ髪」を出版する。慎みのない歌集と批判する人もいたが、若い世代には熱狂的に支持 された。晶子は一躍「明星」の女王となった。

その後、晶子にはだんだん仕事がくるようになったが、時代は浪漫主義から自然主義へと移り、鉄幹は時代とそぐわなくなっていった。 鉄幹の鬱屈を知りながらも、晶子は家族を養うために懸命に働き、鉄幹をパリに留学させる。出発の時、鉄幹は、瀧野が歌人正富汪洋と結 婚し、すでに四人も子供がいることを伝える。ようやく瀧野へ嫉妬の苦しみから解き放たれる晶子だった。

晶子は鉄幹の死後七年ほどして亡くなった。



この小説のヒロインはもちろん与謝野晶子です。田辺さんは鉄幹のことも、大人になりきれず悪意はない男として思いやりをもって描い ていますし、鉄幹をはさんでいわば晶子とライバルになる瀧野、登美子たちそれぞれについても、その美しさ、善意、悲劇性などを見つめ ながらひとりひとり大切に書いています。この田辺さんの広い視野、温かいまなざしが、この作品に魅力と奥行きを与えています。

私としては、鉄幹は自分本意の一発屋のイメージがぬぐえず、人間的に共感できる部分が感じられません。瀧野や晶子、登美子という聡 明な女性たちが、どうしてこんな男性に次々と虜になってしまったのか不思議に思うぐらいですが、それは理屈を超えた世界なのでしょう。 その中で瀧野は、抜きんでて理知的で冷静であるせいか、一時は鉄幹にひかれますが、彼の本質を知ると別れを決意します。家の跡取り 娘という事情もあったかも知れませんが、鉄幹と別れたあと日本女子大に学んだり、その行動力と向学心には目をみはります。現代の女性 でも、子供を抱えて離婚し、なおかつ向学心を失わないでいることは難しいかも知れません。

少女時代の瀧野は白いリボンの似合う美少女で、長じても真面目な性格のよく現れた、きりりとした美貌だったようです。その律義さは 鉄幹には時として息苦しいと思われたようですが、それだけに、彼女は悪意をもって人を見たり、人を利用したり陥れたりというような曲 がったこととは無縁でした。瀧野が再婚した正富汪洋は、おだやかでバランスのとれた人だったようです。瀧野と正富は、結婚後ずっと穏 やかな幸せの中に暮らしたようです。晶子が歌と鉄幹を得た幸せと同様に、瀧野の幸せも祝福したい気持ちになります。


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