織田信長・濃姫(永井路子著「流星」―お市の方―(文春文庫))   



信長「俺も考えた。考えての末の決心だ。大きな賭けかも知れぬが、運を開くためには、これより道はないと思う」

濃姫「私は殿様と二人で、尾張に新しい国を作るつもりでした。父が美濃でやったことを、尾張でやることが夢でした。でも、もう私のつ とめは終ってしまったようです」



「流星―お市の方―」のあらすじ

尾張の那古野城の末姫お市は、父の死後後を継いだ異母兄信長にはじめ違和感をもつ。信長はいつも奇妙な服装をして行儀が悪く、陰で 「うつけ」と呼ばれていたりする。信長は美濃稲葉城主・斎藤道三の娘(濃姫)を正室に迎えていたため、斎藤家に織田家が乗っ取られる ことを恐れる家臣が少なくなかった。そんな一人の平手政秀が切腹した場に居合わせたお市は、その凄絶な光景と共に、新しく国を作ろう とする兄信長の心を理解するものが少ないことを敏感に感じ取る。兄の妻濃姫は、父道三と夫信長の間に立ち、どちらにもよかれと思って いるのだとお市に話す。この義姉はのちのちのお市の生き方に大きな影響を与える。

お市が適齢期になると、浅井長政との縁談が起こる。この縁談は、信長が美濃の斎藤家(父道三を滅ぼした義竜の子・竜興の代になって おり、織田家と敵対)を滅ぼすことによって実現された。浅井家は織田家と結び、将軍義昭に加担する。

しかし、浅井家は朝倉、六角などの大名との同盟関係が長く、ことに長政の父久政は織田家よりも朝倉・六角家とのつながりを重視して いた。信長が六角を攻めた時、浅井家は加勢しなかった。この後、信長が朝倉家を攻めた時も、浅井家は朝倉側につき、ついに織田家と敵 対関係になる。姉川の戦いで、浅井・朝倉軍は優勢だったが、徳川家康の軍が支援に来て情勢が変わり、浅井・朝倉軍は敗退する。信長は それでも石山本願寺の抵抗にあい苦戦するが、本願寺を焼き討ちにし、朝倉氏を滅ぼして、浅井家と決戦のときを迎える。お市と娘たちは 織田家に返され、小谷城は陥落し、長政は自害する。

やがて信長は本能寺で暗殺され、秀吉の勢力が強くなる。信長の遺児たちは小粒で、織田家を守れないと悟ったお市は、柴田勝家に嫁ぐ という賭けに出る。秀吉と勝家は互角の戦いを続けるが、ついに秀吉の軍が柴田軍を破る。お市は娘たちを秀吉に預け、勝家と共に自害し 織田家の歴史の幕を引く。



永井さんの戦国時代の歴史観で顕著なのは、お市や姉お犬、濃姫といった、他家に嫁いだ戦国大名の姫君を、単なる政略結婚の犠牲や、 敵方に捧げられた花束のようにとらえていないことです。永井さんによれば、他家に嫁ぐ姫君たちは外交官のようなもので、実家と婚家の 間の融和に努力したり、婚家のさまざまな情報を分析して判断を下し、結果を実家に伝えたりといった重要な任務をになっているというこ とです。このような任務は飾り物的な女性ではつとまらず、政略結婚は有能な姫君の腕のみせどころといった感じです。この小説に出てく るお市、お犬、濃姫はまさにそのような存在ですし、同じ頃の前田利家の妻おまつ、少しあとのお市の娘たちの活躍を見ても、永井さんの 説には説得力を感じます。この小説の面白さは、そのようなお市の活躍ぶり、織田家の女性としての誇り、またそれとは別に夫長政への愛 情と理解、苦しみがいきいきと感じられる点にあります。

この小説でもう一つ面白いのは、永井さんが描く信長の人間像です。短気で残虐な信長像がよく伝えられていますが、永井さんは丹念に 史実をあげて俗説の誤りを否定しています。家臣や他の大名の裏切りも、度重なるまでは許していますし、処罰する場合も一刀両断ではな く、理由を挙げてから処罰しているなど、むしろ信長は忍耐強い方だそうです。残虐さについても、本願寺の焼き討ちなど政策的なものは あるものの、特に嗜虐的なところはなかったようです。信長が古い同盟関係や権威などに囚われず、新しい自分の価値で国を作ろうとした 姿勢がうかがえます。

信長の正室濃姫については、わかっていることが少ないようですが、美濃の蝮といわれるほど老獪で勢力のあった斎藤道三の娘であり、 かつ「うつけ」と言われるほどの信長のもとに嫁いだほどの女性ですから、頭のいい女性だった可能性が高いでしょう。最初は実家のため を思っても、やがて信長のよきパートナーとして、新しい国を作ろうとするという姿は、濃姫の人間像にふさわしいように思えます。

とはいっても、永井さんの描く濃姫は、信長やお市とはまた別のタイプで、運命に翻弄されるようでありながら、自分自身は変わらない 人のようです。冒頭の濃姫の言葉は、斎藤家が信長によって滅ぼされ、信長と共に岐阜城に凱旋するときのものです。形としては、夫は義 父を滅ぼした斎藤家への仇を濃姫にかわって討った形になるのですが、濃姫にとってはやはり、婚家と実家の和睦はかなわなかったことに なり、複雑な思いがあったでしょう。それでも、そのあとで、長政に嫁いで行くお市に対して濃姫は、「生きてみなければわからないこと です」と言います。常に果敢に、運命と正面から戦っていく信長やお市とは少しちがいますが、与えられた状況がどうであれ、自分の力ひ とつを恃んで強く生きていく濃姫の姿もみごとで、この小説の中で精彩をはなっています。


お市の娘たち、とくに末娘のおごう(のちに二代将軍徳川秀忠夫人)については、永井さんの小説「乱紋」があります。


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