黒川菜穂子(堀辰雄著「菜穂子・楡の家」(新潮文庫))   



「お前がそんなにお前のまわりから人々を突き退けて大事そうに抱え込んでいるお前自身がそんなにお前には好いのか。これこそ自分自 身だと信じ込んで、そんなにしてまで守っていたものが、他日気がついて見たら、いつの間にか空虚だったと云うような目になんぞ逢っ たりするのではないか・・・」


菜穂子のプロフィール

冒頭の言葉は菜穂子が自分自身に対して問いかけたものですが、いつも、自分自身に対して言われたようにはっとする言葉です。

「菜穂子」「楡の家」「ふるさとびと」の三つの小説は、共通する登場人物の中の三人の女性の視点でつづられていて、「菜穂子」は 菜穂子自身、「楡の家」はその母がヒロインになっています。「楡の家」は菜穂子が結婚する前の話で、未亡人である母が作家の森に慕 われ、それに嫌悪感を持った菜穂子が、黒川圭介との縁談を受け入れ、母はとめようとしますが、そのまま亡くなってしまいます。「菜 穂子」ではその後、結婚生活を悔やみ始めた菜穂子が結核を病み、療養所に入るところが中心になっています。
菜穂子とその夫圭介、幼なじみの都築明は、それぞれ菜穂子の孤独に阻まれるように、なかなか彼女と心を開いて話し合うことができ ません。菜穂子自身も、自分で自分の孤独に阻まれているようにも見えます。菜穂子の病気をきっかけに、菜穂子は自分の人生を見つめ 始め、圭介も今まで考えたことのなかった生の不安を感じ始めます。同じ頃、仕事に疑問を感じた都築明も旅に出、途中で病に倒れます。
大雪の日、菜穂子は療養所を抜け出して東京に行き、圭介に会います。その日は東京も珍しく大雪で、いつもと違うような、そこはか となく幻想的な街のような描写がされています。菜穂子と圭介も、相変わらず満足な会話はできないままながら、お互いに新しい一面を 見たり、いつもと違う態度を示しそうになったりします。大雪が二人の間に小さな奇蹟をもたらしたかのようです。
菜穂子、圭介、明、それぞれの関係がどうなっていくのか、菜穂子と明の病気は回復するのか、はっきりした解決はないままに小説は 終わります。私は、作者が三人に平等に、未来とかすかな可能性を与えているような気がします。とりわけ、真摯に自分を見つめ始めた 菜穂子と明は、かすかな可能性から未来を切り開いて行けるのではないでしょうか。

三部作の中でも、「菜穂子」はとりわけ都会的で、今読んでも少しも古さを感じさせない作品だと思います。菜穂子が孤独に立ち向かっ ていく果敢さ、明の人のよい柔和な外観の中にある意志の強さなど、性別とは逆のような性格設定も、そう感じさせる理由のひとつかも 知れません。
「東京学」(小川和佑著・新潮文庫)という本の中では、菜穂子の話す言葉が美しい山の手言葉の例として紹介されていました。


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