マグダレーナ・フェルメーレン(トーマス・マン著「トニオ・クレエゲル」(実吉捷郎訳・岩波文庫))   



(略)しかしあんな工合に彼自身を見てくれる少女は、一人もいないのだろうか。
なに、いるとも。マグダレエナ・フェルメエレンがそうだ。弁護士フェルメエレンの娘で、口もとがやさしく、大きい黒い、つやの好 い眼は、真摯と夢想にあふれている。踊りをしながらよくころぶのだが、相手をきめる時は彼の所へ来た。彼が詩を作るのを知っていて 、それを見せてくれと、二度も頼んだことがある。また遠くの方から首をうつむけたまま、彼を眺めていることがよくある。しかしそれ が彼にとって何になろう。彼は、彼はインゲ・ホルムを恋しているのだ。詩なんぞ書くというので、彼を軽蔑しているに違いない、あの 金髪の快活なインゲを・・・。



「トニオ・クレエゲル」のあらすじ

トニオ・クレーゲルは裕福なドイツ商人の父と、イタリア人で音楽に秀でた母との間に生まれた。彼は常に、父のように市民として生 きるか、母のように芸術家として生きるかの間で揺れ動く。少年の時、美しく快活な友人ハンスを愛し、その後やはり快活な金髪の少女 インゲを愛する。彼に思いを寄せるマグダレーナとは精神的に理解しあえるが、彼の心は、報いられないままインゲに向いていた。これ は、健全な市民生活に憧れるトニオの生き方の現われでもあった。

月日が流れ、作家として名をなしたトニオはミュンヘンにいた。そこで、女友達の画家リザヴェータ・イワーノブナと芸術論をかわす 。トニオが、自分の作品を読んでくれるのはいつも、悩みと憧れをもった、いわばよくころびがちな人たちであって、精神性を必要とし ない快活な金髪の人たちはひとりもいない、と話す。リザヴェータ・イワーノブナは、そんな彼自身を、横道にそれた俗人だと言う。

やがてトニオは故郷を経てデンマークへの旅に出る。故郷にはもはや知る人もなく、彼は詐欺師と間違えられて逮捕されそうにすらな る。デンマークで滞在した旅館に、ある日、集団の客が現れる。その中に、ハンスとインゲボルグそっくりの兄妹がいて、トニオは動揺 する。舞踏会が始まる。すると、一人のおとなしそうな少女が転んで倒れる。トニオは少女を抱き起こしてやり、その場を離れた。

トニオはリザヴェータ・イワーノブナに手紙を書き送る。自分はこれからもっとよい作品を作るであろう。自分の読者のころびがちな 人々に、自分は深い愛着を寄せている。けれども、自分の本当の憧れは金髪の快活な人たちのものであり、その人たちへの愛こそが自分 の作品を書く力となる、というのがその内容であった。



マグダレーナ自身は「トニオ・クレエゲル」のはじめの部分に登場するだけで、それも、上記の引用の前後の、静的な描写に限られて います。ハンスのようにトニオと会話したり、インゲのように踊りに興じたりする場面は全くありません。それでも、「トニオ・クレエ ゲル」でトニオの世界を二分する人々の一方の代表がハンスやインゲであるように、もう一方の代表がマグダレーナであることは明らか です。登場の仕方はおとなしいのですが、小説の中での重要度はたいへん高いといえます。

短い描写の中で、マグダレーナはなかなか魅力的な人のように思えます。踊りをしながらよく転ぶというのはあまり優雅とはいえませ んが(かなり長いスカートをはいていたらしいことはうかがえます)、真摯で夢想にあふれた瞳で、トニオの詩を理解する彼女は、きっ と知的で感情ゆたかな人だったでしょう。

トニオは、最終的には「ころびがちな人々」(マグダレーナの属する「芸術家」サイド)の人たちを愛しながらも、自分のより強くひ そかな愛は「金髪の快活な人々」(ハンスやインゲの属する「市民」サイド)にあるといいます。けれど、デンマークの旅館の舞踏会で トニオが倒れた少女を抱き起こす場面はなかなか印象的です。ハンスとインゲそっくりの兄妹とちがって、この少女は、マグダレーナに 似ているかどうか書いてありませんが、内気そうにトニオを見つめ、助け起こされて頬を赤らめて喜ぶ様子は、マグダレーナを思わせる のに十分です。マグダレーナ自身がトニオを慕う気持ちは報われませんでしたが、彼女は、トニオの芸術と人生の重要なテーマの一方と して、いつまでもトニオの心に在りつづけるのでしょう。


マグダレーナがその後どうなったか、と想像することがありました。トーマス・マンの別の短編のヒロイン・アンナが、将来のマグダ レーナに近いのではないか、と思います。トーマス・マンの世界では、このような内向的で悩みと憧れをもつ人々が(男女を問わず)幸 福になることは難しいようですが、幸福を味わう感性はすぐれて鋭敏なようです。


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