山名杏子(井上靖著「あした来る人」(新潮文庫))   



「そんなものなら棄てられます。どんな悪魔にさえなろうと決心したんですもの。――そんなものと違います。やっぱり夢、私がその方の 純粋な夢の対象だからです。何にも縛られてはいません。自由です。でも私は身動きできないんです」



「あした来る人」のあらすじ

大貫八千代は、大阪在住の実業家梶大助のひとり娘で、夫の克平がいる。彼が本格的な登山に情熱を燃やし、自分を省みないことが、八 千代には飽き足りない。ある日、八千代は九州から東京に出てきた生物学者の曾根二郎と出会う。曾根はカジカの研究に打ち込んでおり、 世俗の垢に染まらない素朴な人物だった。八千代はひそかに曾根にひかれ、曾根は大貫夫妻を好ましく思う。

一方、梶大助には、パトロンになっているデザイナーの山名杏子がいた。杏子は梶にとって、取り引きのない純粋な夢の対象であり、援 助の対象に何も求めていなかった。杏子はひょんなことから克平と出会い、彼の山への情熱に共感し、仕事場の一部を登山の準備のために 提供する。克平が鹿島槍に登って帰るのが遅れた日、杏子はいたたまれなくなって信州へ駆けつける。克平は無事だった。杏子は、妻のあ る克平を愛する決意をする。杏子の気持ちを知った克平は、八千代には覚えなかった愛情を杏子に感じる。

八千代は夫と杏子の思いに気づく。夫と話し合おうとするが、会話は噛み合わない。八千代は実家に戻り、父に離婚したい気持ちを伝え る。東京に戻る前に、曾根がいる伊豆を訪れる。曾根といると八千代の心は和らぐのだった。

梶大助は、曾根が研究費用を出してくれる相手を探していることを知り、手をつくして探す。有力な候補者が現れたが、曾根自身の学者 としての良心から、融資は延期になる。八千代の離婚話、融資の延期が重なったあとの梶は、事情を知らない杏子からもどこかさびしげに 見えた。

杏子は克平から離婚話を聞くが、克平が自分のパトロン梶の娘婿であることを知り、別れる決意をする。克平は傷心のままカラコルムへ 出発する。八千代が見送りに来ていた。

梶大助も、杏子の恋人が克平であったことを知る。彼は知らず知らず杏子を束縛していたと感じ、彼女を自由にしてやらなくてはと思う。 梶は、八千代も克平も曾根も杏子も、自分の若いときとは違い、妥協しないでさまざまな壁にぶつかる生き方をしているが、それはそれで よく、また、彼らは完全な人間として、あしたやって来るだろうと思うのだった。



この小説に出てくる人々は、穏やかで人生の機微を知り尽くしたような梶大助になんらかのつながりをもっています。杏子との関係はな かなか微妙で、精神的なつながりと、物質的な援助を伴うパトロンで、ある時は父娘のような関係にも見え、ある時は投資のようにも見え ますが、世俗的な愛人関係ではないことだけは確かです。杏子は、梶から援助を受けても、間違いなく自分の意思で行動し、自分の足を地 に付けた生き方をしています。仕事への意欲も高いし、適齢期に惑わされることもないようです。克平との別れを決意したのも、杏子自身 の鋭敏な感受性と、自分の生き方についての省察からでした。

これに対して、八千代はあまり自分自身がこうありたいというビジョンをもつタイプではありません。克平が自分を省みないことに対し て女には自分の生活などはなく、一人の愛する男の中に生きているだけで、その代わり、夫の仕事が自分の仕事でなければ困るのだとまで 言っています。そんな彼女には、克平が自分より山が大切だと言い切ることがとうてい承服できません。わがままなようでいて、八千代は 克平に対してはいつも正面から向かい合い、真剣に対峙しています。

私には、杏子にしても八千代にしても、克平にはもったいない女性なのではないかと思ってしまいます。強いて言えば、自分の職業と意 思を強く持っている杏子の方が相性がいいのではないかと思います。杏子自身は、克平が山に登ることにも共感していますし、克平も(ど こまで本気かわかりませんが)杏子なら山よりも大切だと思えると言っています。しかし、克平は人間関係に対して常に他人任せで、自分 のことしか考えていないような未熟さが目立ちます。彼自身がそれに気づくまでは、他人の犠牲の上に立たない愛情を成立させることは難 しいでしょう。

曾根も研究に没頭していて、周囲にふりまわされないタイプです。八千代が、曾根に好意をもっても、愛し合うことができるかどうかは 少し疑問です。ただ、同じ周囲にはふりまわされないタイプとはいっても、曾根は克平にはない温かさをもっていますから、八千代がその 内面にはいっていくことができるなら、案外うまくいくのかも知れません。

それにしても、「あしたの可能性」を抱きながら今日を懸命に生きている時、梶大助のような人が見守ってくれていたらどんなに心強い ことでしょう。


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