織本カオル(田辺聖子著「ダンスと空想」(文春文庫))   



「出てよかったわァ、センセ。あたし何でも、はじめは迷うたり、怖じ気づいたり、しますけど、思いきってやってみると、たいてい、「 してよかった!」いう気ィになりますねん。・・・なんでやろ」



「ダンスと空想」のあらすじ

「私」(織本カオル)は神戸にブティック「アトリエ・ミモザ」を開業しているデザイナー。三十八歳の独身で、同じように神戸でさま ざまな仕事をもって活躍している女性たちと「ベル・フィーユ(美少女)」という名前のグループを作っている。シナリオライターの大信 田さん、ブティックのオーナーけい子、ミニコミ誌の編集長ミドリ、モダンダンスの雪野さくらさん、テレビディレクターの阿佐子さん、 手芸家のモト子さん、といったメンバーで、みな三十代から四十代の、元気な女盛りである。このグループでファッションショーを企画し たり、コーベ祭に参加して華やかな衣装でサンバを踊ったり、男性のゲストを呼んで話を聞く「例会」をしたり、いろいろな企画を楽しん でいる。「みんなでたのしくトシをとりましょう」というのが「私」のモットーだった。

「ベル・フィーユ」のまわりにはいろいろな男性も出没する。画家の花本先生、生田神社の宮司浮田さんらは「ベル・フィーユ」のファ ンを自認する。アクセサリーを扱う会社の社長海野さんは、冗談交じりに「私」をくどきながら、人生は神さまに貸してもらっているもの だから、大事に、十分に使わなくてはという説を教えてくれる。地元の新聞「兵庫タイムス」の記者ハッちゃん、その後輩で予備校教師を しながら作家を目指している水口クンといった若い男たちもいる。これに対して、毎朝新聞神戸支局長として東京から来た竹本さんは、女 性蔑視的で「あんな大年増にモテたってしょうがない」などと暴言を言ってひんしゅくを買う。

甚だしきは、「私」の姉がお見合い相手にすすめた梅川さんで、「女の仕事の最たるものは夫の最後を看取ること」だなどと言う。これ には「私」も呆れ、「ベル・フィーユ」のたまり場のようなバーへ案内して、居合わせた大信田さんとけい子と一緒にさんざん論破してし まう。しかし、梅川さんは「ベル・フィーユ」が気に入ってしまい、パーティなどに顔を出すようになる。

その年の忘年会の企画で「ベル・フィーユ」か゜盛り上がっている頃、水口クンがアメリカに行くと言う話を聞く。それまで、一緒に食 事したり、飲みに行ったり、ファッションショーの企画を手伝ってもらったりという中で、若いわりにのんびりしてスケールが大きく、そ の人のポリシーを大切にする水口クンのことを、「私」はいい子だと思っていたが、ニューヨーク行きの話を聞いてショックを受ける。年 下の彼のことを好きになっていたのかなあ、と「私」は思う。

やがて、けい子が結婚して「ベル・フィーユ」を脱退することになり、残念だが盛大にお祝いパーティーをしようとみんなで話し合う。 ところが、けい子はそのあとで入院する。本人は知らないのだが胃がんで余命が短いという。美しくてしあわせそうなけい子なのにと、「 ベル・フィーユ」のみんなのショックは大きい。「私」は、海野さんのいった神さまの話を思い出す。神さまは気前がいいようだが気まぐ れで「肉食」で、幸せいっぱいの人間にいきなり後ろから襲いかかったりすることもあるのだという・・・。

それでも、それぞれは自分の仕事を精一杯こなし、忘年会にはメンバーと招待した人たちが集まってにぎやかになる。その中に、東京へ 転勤した竹本さんもいた。神戸を去って「ベル・フィーユ」と、遊ぶことの面白さがわかったという。「私」は、気まぐれな神さまに貸し てもらっていて、どうなるかわからない人生だからこそ、生きることは楽しいのだと思う。



田辺さんらしい、生き生きした女性が活躍する楽しい小説で、ファッションや神戸の風景、美味しい食べ物なども一緒に味わえます。悪 人がひとりも出てこなくて、ちょっと憎らしいような竹本さんや梅川さんでも、最終的には「ベル・フィーユ」に巻き込まれ、可愛げある 男性としての一面をみせてしまいます。学生のとき連載小説としてこの小説を読み、今ではカオルさんの年を越える私ですが、未だにカオ ルさんは働く女性としての私の先輩、お姉さんのような気がします。男性中心社会の欠点を十分に知り、ときにはいやな目にもあったはず なのに、男性社会糾弾に走らず、男性と女性が協力しあえたらもっと楽しいのに、と考えるあたりはさすがです。男女を問わず、関西の人 らしい柔軟さでしょうか。

笑ってしまうようなエピソードや、丁々発止のやりとりを心地よく読んでいると、ユーモア小説のようですが、「人生は神さまに貸して もらっているのだから、たのしく、十分に生きなくては」という考え方にははっとさせられますし、けい子の病気は、他人事でなく思われ ます。人生の絶頂期だと思っていた時が最晩年だなんて、とカオルさんは言っていますが、誰にとっても自分の晩年は予測できませんし、 幾つまで生きても、死ぬことは今までの人生が終わってしまうことであり、恐ろしい、いやなことにちがいありません。

そういう人生の終わりを自覚しても、「いくら仕事で活躍しても、美しくても、死んでしまうのだから人生はむなしい」という結論にな らないところが、本当の意味で田辺さんらしい明るい強さです。これも関西の方ならではなのでしょうか。私はまだまだ、カオルさんにお 姉さんでいてもらわないとだめなようです。



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