イサオ(椎名誠著「哀愁の町に霧が降るのだ」(新潮文庫))   



「そうだ、トリ鍋だよ。トリのモツ鍋だ。あれは安いんだよ。そうしてけっこううまいんだ。昔おれの親父がよくやっていたんだ。とくに トリの卵巣なんかが手に入るとすばらしいぞ。トリの玉子がぶどうの房のようになっているんだ。トリの玉子の玉子だよ。あれはうまい」



「哀愁の町に霧が降るのだ」のあらすじ

著者(椎名誠)の回顧録と現在のさまざまなエピソードを織り交ぜたスーパーエッセイで、核となるのは著者が数人の友人と、「克美荘」 というアパートで暮らしていた時代のこととなる。木村晋介、沢野ひとし、主にイサオといったメンバーが、昼でも日のささない「克美荘」 の一室で暮らし、友人たちと酒を飲んだり、学校に通いながらアルバイトをしたり、恋をしたり、さまざまにもめたりしながら数年間を過 ごす。木村は弁護士となり、沢野はイラストレーターになって著者の本に多く挿絵を書いているが、三人とも克美荘時代とちっとも変わっ ていないようである。



この小説をあらすじで書くのは難しく、その雑駁な面白さや、どこかに漂う「哀愁」の感じが表現できませんでした。

「克美荘」の中心的メンバーは、気が強くて腕っぷしも強い椎名、大酒を飲みながら弁護士をめざす木村、繊細で文学的な面をもちなが らもおかしないたずらばかりしている沢野と、ただひとりサラリーマンで、比較的おとなしいイサオの四人です。個性の強い三人に比べる とイサオは地味に見えます。そもそも克美荘を格安で見つけて来たのは彼なのですが、引越してからその部屋は昼間でも日がささないこと が判明し、三人に布団蒸しにされてしまいます。そのほかにも、目覚ましをいたずらされて暗いうちにあわてて家を飛び出したり、急に沢 野にプロレス技をかけられたり、なかなか難儀な思いをしているように見えます。

それでも、彼はなかなか地道に克美荘の生活を支えています。ポリバケツやこたつを調達したり、飲み過ぎて騒いで苦情が来ると真っ先 にあやまりに行ったり、ほかの三人がもめると困ったようにとりなしたりしています。冒頭のせりふは、高校時代の先生を呼んで呑み会を する時に、丁重にもてなしたいが金がない・・・という状況でイサオが発案したものです。結果ははたいへん満足のいくものだったようで す。

目覚し時計のいたずらのエピソードは何度読んでも笑ってしまうのですが、実はこの後、イサオは同じ手で木村にお返しをしています。 (うまくかついだものの、あとで怒った木村に蹴飛ばされてしまうのですが)克美荘の生活の男くさい感じ、バカバカしさ、面白さなどは イサオの存在があってこそ生きてくるような気がします。克美荘には、呑み会に集まったり、住人になったりする友達が何人か出入りしま すが、イサオは誰とでも仲良くやっていたようです。

木村、沢野、椎名の三人は、家の事情があったり就職したりで、2〜3年のうちに克美荘を出てしまいますが、イサオは最後まで克美荘 で暮らしています。彼らが克美荘を出ていったのは、お互いの自立でもあり、自由な青春時代に別れを告げるという意味もあったのでしょ う。その中にあって、サラリーマンになっているイサオが相変わらず克美荘で暮らしていたことにはなにか感動を覚えます。

学生やアルバイトの生活と、職業についてからの生活の間にはやはりギャップはあって、それぞれ得るものと失うものがあるし、男性で サラリーマンになったりすると、とくにそのギャップが深い場合もあるでしょう。そんなギャップを、イサオは特に気負いもなく、自由に 越えて行き来しているように見えます。平凡なようでも、さりげなく自分らしさを失わないでいることはできる――イサオはそんな希望を 私にくれる人なのです。



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