「銀の匙」の少年(中勘助著「銀の匙」)   



「波の音が悲しいんです」



「銀の匙」のあらすじ

(前篇)
生まれたとき病弱だった「私」は、母もお産のあと身体が弱っていたため、伯母さんに特別慈しまれて育つ。子供のころ覚えた伝説や おもちゃ、遊びにはみな伯母さんの思い出があった。伯母さんに大切に育てられすぎて、少し大きくなってもなかなか同世代の友だちも できず、学校に行っても勉強についていけない。しかし、伯母さんの知恵で、おとなしく身体の弱いお国さんという友だちがはじめにで き、お国さんの一家が引っ越したあとは、元気でかわいいお恵ちゃんともよく遊ぶようになる。お恵ちゃんに「びりっこけなんぞと遊ば ない」と言われたとき「私」はショックを受け、それから家族の協力もあって勉強し、めきめき学力があがる。自信がついてきて、子供 たちの間のリーダー的な存在にまでなる。
お恵ちゃんのお父さんが亡くなり、一家は故郷へ帰ることになる。「私」とお恵ちゃんはさびしい別れをする。

(後篇)
日清戦争のころ、学校や世の中は戦争一辺倒で殺伐とし、「私」の好きなきれいな絵草子などもなくなっていた。「私」は、先生や級 友や兄のがさつさ、知識のなさを内心軽蔑し、ひとりで絵を描いたり、唱歌を歌うことを好む。そんな中で、少林寺の貞ちゃんとは、双 六や凧上げ、蝉取りなどして、活発に遊ぶ。

十六歳の時、旅行の帰りに、故郷へ帰っていた伯母さんを訪ねる。すっかり年老いて衰え、目も見えなくなっていた伯母さんだが、「 私」とわかって喜ぶ。「私」も会うのはもう最後だろうと胸がつまる。やがて伯母さんは亡くなった。

十七歳の時、友達の別荘にひとりでいて、たまたま訪れた友達の姉に会う。美しい人だった。別荘のばあやがいれば普通に話せるのだ が、面と向かうと挨拶もできないような「私」だった。



前篇と後篇で「私」はずいぶん変わっているようですが、その本質的な性格―美しいものを愛し、繊細で内気なところは変わっていま せん。やはり、伯母さんや姉、お国さんやお恵ちゃんといった女性に可愛がられたり、一緒に遊んだことの影響が大きいのでしょう。
けれど、明治という時代、しかも日清戦争の勝利に国中が湧いている頃では、男性がそのように繊細に生きることは難しいことだった にちがいありません。「私」は詩情を解さない、幼稚で野蛮な周囲に対して冷笑的になり、理論武装するようにもなります。「私」の言 うことは、現代から見れば至極もっともなのですが、当時は受け入れられず、孤高を守ることになります。現代でさえも繊細な男性は生 きにくいと思いますが、もしも現代ならもう少しよかったのでは、と痛ましく思ってしまいます。同じように、当時の女の子にしては活 発でやんちゃなお恵ちゃんも、年ごろになると生きにくさを感じたかも知れません。
そんな「私」と伯母さんの再開の場面は、後篇の中でとくにしみじみと心にせまってきます。伯母さんがずっと一緒に暮らしていたと したら、旧弊な伯母さんと「私」はどこかでぶつかってしまったかも知れませんが、離れていて再会したことで、「私」にとって伯母さ んはいつまでも、なつかしい子供のときの思い出と一緒に在り続けるのでしょう。

「銀の匙」には、叙情的な回想が多いですが、貞ちゃんと遊ぶ場面その他で、ときどき作者のユーモアが感じられます。例えば、お国 さんのお父さん(もと阿波の藩士で、骨格のたくましいこわい人)の出てくるこんな場面があります。

−− おとう様はおじけてる私を見ていつになく笑いながら豆煎を紙に包んでくれて(略)
−− 「ここにいる人のなかでだれがいちばんこわい」
−− といったから正直におとう様を指さしたらみんながまたどっと笑った。おとう様も笑いながら
−− 「おとなしくさえすればしかりはしない」
−− といって二階へいってしまったのでようやくほっと息をついた。

この場面は何度読んでも笑ってしまいます。

「銀の匙」には、明治の東京の言葉や行事がいきいきと描かれています。学校の友だちは下町っ子のことばを使っていますが、お恵ちゃ んはしつけの厳しい上流家庭のお嬢さんらしく、山の手言葉を話していました。


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