真谷(晴海)文緒(有吉佐和子著「紀の川」(新潮文庫)   



「十年前に青鞜社ができて、世間の女は随分目覚めてきたのに、お母さんの旧態依然には私もう我慢ようしません。東京へ出たいという 第一の願いは、長福院たらいう勿体だらけの家から飛び出すことですねン。女性の先覚者になろうと自惚れることはできませんけども、 少なくともお母さんのよな昔風の婦女にはなりとうないのですわ」


文緒のプロフィール


私は作者が文緒をどう描きたかったのか、少し疑問に思います。完璧な母に対する文緒の反発心はよく表現されていますが、文緒がそ れでも、文緒が曾祖母の豊乃、母の花、そして娘の華子へと引き継がれて行く気性をもっているのか、それとも、美しいものを愛する花 と華子に挟まれて、軽薄で情緒のない役割なのかが定まっていないように思うのです。文緒はいつも新しい思想をにぎやかに喧伝します が、最後は花に対してはかなわないというように描かれています。しかし、文緒の妹たちふたりは花に従順で、花の分身のように見える のに、小説の中ではとても存在感がうすいのです。また、没落しようとする家の中で、強い生命力と、愛する夫を盛り立てようとする姿 勢をもっている文緒が、やはり豊乃から華子まで続く流れをひくものと位置づけられていることはまちがいないようです。

私は、花や華子よりも、さっぱりしてあたたかみのある文緒の性格の方が好きです。いささか人騒がせで、思想的にもちょっと一貫性 のないところはありますが、悪気がなく、花のように家族や周囲を巧みに操縦するような、ある意味陰湿なところは彼女には少しもあり ません。むしろ、明らかにじぶんとちがう娘を、あくまでも自分と同じように伝統的な良妻賢母に仕立てようと教育する花に、頑迷さを 感じてしまいます。

文緒は弟妹に慕われ、子供たちも少し甘やかし気味なほどです。母や娘に頭が上がらないのは、彼女が自分の弱みを自分で知っている からとも言えますし、いろいろと理論をぶっても結局は情を断ち切れない人だからともいえます。旅費がないから母の病床に行くのは控 えるといいながら結局来てしまったり、娘に「自分が働かなくてもよかったから、労働者に対して思いあがっていた」ときめつけられて 口ごもったり。でも、母の病床に来て、はにかんだように微笑して「来てしもうたわ」と呟く文緒に、私は、来てあげてよかったね、と 言ってあげたいです。

文緒は琴や裁縫などは嫌ってさぼってばかりいたようですが、学校の成績はよく、元気いっぱいで論文を書いたりしています。もっと 遅く生まれていたら、ジャーナリストになって活躍したかも知れませんね。


ところで、この作品の重要な登場人物として、文緒の叔父の浩策という人がいます。文緒の父の弟で、誰からも実力者と認められて いる兄に対して屈折した思いを抱き、気難しく短気にふるまっています。兄嫁の花をひそかに慕う気持ちがありながら、花があくまで も夫の成功を第一に考え、浩策もそこに取り込もうとすることに反発し、分家したあと、兄がいる時はほとんど親戚付き合いもしませ ん。この浩策が文緒を大変可愛がり、文緒も家では言えない不満や、母への批判を叔父に話したりしています。

世間から離れ、偏屈な浩策ですが、文学的な面では高い教養があったり、第二次世界大戦で日本が負けることを早くから見通してい たり、独特の洞察力をもっているようです。花を紀の川のようだと言うのも浩策ですし、小説の中の重要なポイントで必ず登場して、 洞察の深い言葉を言います。作者は、政治家として成功し、ある意味非常に俗物である花の夫よりも、浩策に愛着をもっていたように も思われます。

この人も、時代と生まれた環境が少し違っていたら、別の活躍を見せたかも知れません。文緒と似ているところもあり、また、文緒 を光とするなら影のようでもあり、注目したくなる人です。


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