アンナ・ハリー男爵夫人(トーマス・マン著「ある幸福」(実吉捷郎訳・岩波文庫「トーマス・マン短編集」より))   



男爵夫人アンナは、海岸にある父の所有地で、たったひとりごく静かに人と成った結果、今でも右のような真理を気にかけぬ癖が、ま だずいぶんついている。もっともみんなに変だと思われることを恐れてはいるし、みんなに少しはかわいがってもらえるように、世間並 になりたいものだと、心から念じてはいるのだが。――夫人の手は青白く、髪は灰色がかった明色で、細い弱々した小さな顔の割には、 あまりにたっぷりしすぎている。薄い眉の間に縦皺が一つあって、そりが彼女の微笑に、なんとなく悲痛な傷ついたおもむきを添えてい る。――



「ある幸福」のあらすじ

ある夜、ホーエンダムの将校集会所で軍人たちの舞踏会が開かれていた。既婚の中尉・大尉は夫人同伴で、しかも娘たちばかりの旅芸 人「ウィーンの燕たち」を招待しているという、多少いかがわしさのある催しであった。

催しの中心人物のひとりハリー男爵の妻アンナは、その場になじめなかった。内気な彼女は、夫を含めて屈託のない快活な人々に憧れ、 自分もそうなれればと思うのだが、明るく振る舞おうとしても浮いてしまう。切ない思いで、最も美しい「燕」のエンミーに夫が戯れる のを見つめている。エンミーは俗っぽいが、その美しさはアンナの心をとらえていた。

ある士官候補生が、アンナに思いを寄せ、言葉少なに話しかける。彼も舞踏会の雰囲気にとけ込めず、ピアノを弾いていたがハリー男 爵にやめさせられた。しかしアンナは、いわば自分の同類のような士官候補生には心が動かない。

一方、踊り子のエンミーは、ハリー男爵の相手をしているものの、彼の低俗さを嫌い、士官候補生に気高い印象を抱く。士官候補生が 自分たちのような女を怖がって、振り向いてくれないことが悲しくてやるせなくてたまらない。ハリー男爵とアンナ、士官候補生、エン ミーの間に、一時的に奇妙な四角関係ができていた。

宴は最高潮に達し、ハリー男爵はエンミーと指輪の交換をするといって、いやがるエンミーの指輪を無理矢理外し、自分の結婚指輪を はめさせる。アンナは屈辱とみじめさに耐えかね、出て行こうとする。

ところがエンミーは、「あなたは下等よ」と言ってハリー男爵を突きのけ、アンナにわびて指輪を渡し、その手にキスして走り去る。 エンミーの心に、同じく報われない愛にさびしい思いをしているアンナへの共感が芽生えたのか・・・。その場の誰もがあっけにとられ る中、アンナだけが、自分でもよくわからない幸福感でいっぱいになって、その場に立ち尽くしていた。



アンナはどこか、「トニオ・クレーゲル」に出てくるマグダレーナ・フェルメーレンの未来像を思わせます。独自の魅力がありながら、 社交的でないために世間に溶け込めず、自分のするどい感性で美しいものを見分けてその世界を静かに愛しているところが、マグダレー ナと似ています。ただアンナはむしろトニオ・クレーゲルのように、芸術的な世界よりはいきいきして健全で、俗っぽくもある世間に憧 れているために、自らとのギャップがあり、苦悩も深いようです。

そんなアンナと対局にあるようなエンミーですが、士官候補生への可憐で熱い思いはアンナと共通するものがあります。おそらく、二 度と会うことのないアンナとエンミーですが、その束の間の、偶然の交流は心温まるものでした。


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