洋食篇   


洋食についての考察
  五人の婦人たちの登場シーンで、洋食に関する記述を、小説の中から抜き出して時代順に並べてみました。
  文末のカッコは年度(推定もあり)、場所、名前と当時の年齢です。

丁度、お前たちと夕方の食事に向っている時だった。私はスウプを啜ろうとしかけたとき、ふとあの紙片が「昴」からの切り抜きであ ったことを憶い出した。

(大正14年くらい?、軽井沢、菜穂子22歳?)

土産の菓子と茶道具が真知子の部屋のほうへ運び込まれた。
「そのうち是非あんたに遊びに来てくれるようにって仰しゃっていたよ」
「お世辞だわ」
「あんた見たいに、人の云うことを何でもそんな風に取るのは悪い癖ですよ」
「お母様のように、お世辞を真に受けるのだっていい癖じゃないわ」
真知子はシュークリームで口を一杯にしながら笑った。

(昭和1年位、東京、真知子24歳)

「真知子さん、あんたもいらっしゃるとよろしかったのよ」
夜がおそいと思いきり寝坊するので、暁子はその朝もひとりで食事を取りながら、トーストを拵えている義妹に話しかけた。「河井さ んでは待っていらっしたのですって」

(昭和1年位、東京、真知子24歳)

この上級生たちは、入学式の日にパウンドケーキやクッキーを焼き、新入生とその父兄たちをもてなしてくれた。透ける模様の白いナ プキンペーパーや、銀のスプーンなどは万亀や扶美が初めて目にするものである。
「お紅茶、もう一杯いかがでございますか」
腰をかがめるようにして尋ねる彼女たちに、扶美などはすっかり感激してしまった。

(昭和7、女専1年(17歳))

手始めに万亀は、学校で習った洋食をつくることにした。材料がほとんど手に入らないことに閉口したが、牛乳を近くの農家で分けて もらい、クリーム味のコロケットを揚げた。
「なんだ、こりゃ、へんなにおいがする」
まず箸を投げ出したのは秋次で、扶美も店員たちもほとんど手をつけようとはしなかった。

(昭和7、女専1年(17歳))

クリスマスが近づくと、学校ではケーキの焼き方の指導がある。ブランデーに漬けておいた果物や木の実を使って固く焼き上げるこの 菓子は、寒いところにおいて置きさえすればイブの夜まで十分もつという。

(昭和9、女専3年(19歳))

新学期が始まり、やるべきことは山のようにあった。上級生に西洋料理を教えたいと思い、仙台の専門店に手紙を書いて問い合わせた のもそのひとつだ。さまざまな料理の本を参考に、限られた材料だけでつくれるものはないかと工夫する。相馬の普通の家でもつくる ことのできるミートコロッケの調理法は、万亀がガリ版で刷ったものだ。

(昭和11(21歳))

「何ほしい? ほら何でもあってよ」と厚い紙を二つに折って、飲みものの名を書いたのを清子に押しつけた。
「あら」と清子は赤い顔をして、典子が自分でも気にしているやつれた青い顔に、ちらと目をやった。
「何もほしくない」と言って、清子は、つき当たりの壁際に無愛想に坐っている松子を眺め、それから典子の着ているドレスに目をう つした。何もほしくないけど、こういうものを若し私が着たらどうだろう、きっと似合うかも知れない、と清子の眼が言っていた。典 子は、アイスクリーム・ソーダを自分で立って行ってつくって来た。
「おいしい?」
「ええ、」とストローをくわえたまま上目づかいをしてうなずいた。
そこへ、扉をぎいっと開けて、谷さんと言っている五十年配の男が入って来た。(略)
「グレープジュースをもらおう」と谷は言った。この人は、いつも葡萄液なんだわ、と典子は思いながら、立ってお豊にそう言った。

(昭和10年代、東京、典子20歳)

この客はコーヒーがうまく出ている時は二杯のみ、そうでない時は一杯でやめて出て行くのであった。
「今日はコーヒーはいかが?」しばらく相手が物を言うのを待って立っていた典子が、催促するように言った。
「この頃はまずいのは、君の店ばかりじゃないんだね」

(昭和10年代、東京、典子20歳)

人の沢山坐っている大きな食堂のガラスのテーブルで、海老のフライで湯気の立つ白い御飯を食べた。マークの入った白い茶碗に、口 をつけられないほど熱い番茶をボーイがついでくれた。

(昭和10年代、東京、典子20歳)

典子はだまって、すぐ目の前で、白い帽子を横っちょにかぶった色の青いコックが、フライパンでキャベツを炒めているのを見ていた。 (略)
ボーイが「お待遠さま」と投げ出すように典子たちの前に置いた皿から、支那風の焼飯をすくいあげながら、典子は、自分の持って行き 場のない心を悲しんだ。

(昭和10年代、東京、典子20歳)

「あっ、ありがとう。きっと君が来ると思ってね、とてもお腹がすいていたけど、我慢して湯に入ったら、くらくらしそうだったよ。さ あ、パンを焼こうか。どうも軽い食事で、少しまあ貧弱だが、あとで外へ出てからまた汁粉でも食べよう」
「ええ、私がするわ」典子は鈴谷に顔を見られないように立って、切ったパンを持ってガス台の方へ行った。一枚ずつ焼いては、裏返して バタを塗った。

(昭和10年代、東京、典子20歳)



昭和7年ぐらいでは、地方では洋食が珍しかったのですね。学校で習ったコロッケを家で作ったり、先生になってからは生徒たちに洋食の 作り方を教えたり、万亀さんの熱心さがよく表れていると思います。

やはり、菜穂子さんや真知子さんの家庭は東京ということもあってか、それよりずっと前にスープやシュークリームが食卓にのぼっている ようです。

典子さんの頃になると、庶民的な洋食が普及して、外食でも家で食べるのでも、洋食に特に抵抗はなさそうです。(夕飯にパンを食べたあ とでお汁粉を食べに行くというのは、今では考えにくくて、ちょっとおもしろいです)

文緒さんの「紀の川」には、卵や柿といった単品は別として、料理についての具体的な記述そのものがほとんどありません。ただし、文緒 さんの結婚披露宴の食事は洋食で、彼女のお母さんがそのことを大変不満に思った、という内容がありました。


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