「しろばんば」篇   


「しろばんば」にあらわれた食べもの
文末のカッコは年代と洪作さんの年齢です。



兎も角、毎朝のように、洪作は寝床の中で黒玉をしゃぶった。時には、それが大きい水晶玉一個のときもあった。水晶玉は白砂糖の飴 玉で、微かにハッカの味がした。それ以外では豆板とか、ねじまきとかいった駄菓子が時たま当った。

(伊豆湯ヶ島、大正四年、八歳)

朝食の献立は、毎朝決っていて、それが変るようなことはめったになかった。変るものといえば、味噌汁のみと漬物のたねが季節によ って大根になり、茄子になり、瓜になるだけの話だった。味噌汁と漬物の他に、生姜とらっきょうと金山寺味噌が常に食卓の上にあった 。こうした献立は朝ばかりでなく、昼食にも夕食にも共通していた。おぬい婆さんは食事に手をかけることが嫌いであるし、その上牛肉 も魚肉も好まないので、朝食と、昼食や夕食の違いは、菜っぱの煮つけが加えられてあるかどうかというぐらいのものであった。

(伊豆湯ヶ島、大正四年、八歳)

通知簿を貰う日は、いつもおぬい婆さんは、彼女の最も自慢の料理であるライスカレーを作った。ライスカレーはいつもカレーの沢山 はいったのと、カレーの少ししかはいらないのと二種類作った。洪作はおぬい婆さんとライスカレーを食べるのが好きだった。
「坊、食べてみな。辛い、辛いぞ。眼から涙が飛び出すぞ」
おぬい婆さんは言った。洪作は薄い方のライスカレーだったが、それを食べる時はそうするものであるかのように、一口口に入れてみて 、すぐ、
「おお、辛い!」
と、顔をしかめてみせた。
「そうともな。ライスカレーというものは辛いもんじゃ。曾祖父(じい)ちゃまは、大そう辛いものがお好きで、おばあちゃんさえ食べ れなんだ」
おぬい婆さんは言った。おぬい婆さんの作ったライスカレーは美味かった。人参や大根や馬鈴薯を賽の目に刻んで、それにメリケン粉 とカレー粉を混ぜて、牛罐の肉を少量入れて煮たものだが、独自の味があった。時々上の家でも作ったが、それとはまるで違っていた。 いつか洪作は上の家でさき子の作ってくれたライスカレーを食べて、
「おばあちゃんの方がずっと美味いや」
と言って、さき子の機嫌を損じたことがあった。
「これが本当のカレーライスよ。ちゃんとお料理の先生に習って作ったんだから。おぬい婆ちゃんのはごった汁よ。味が違うでしょう」
いくら味が違うと言われても、洪作にはおぬい婆さんと二人で土蔵で食べるライスカレーの方が真物のように思われた。(略)
洪作はランプの光の下で、おぬい婆さんとライスカレーを食べた。おぬい婆さんはとろろ汁とライスカレーの時は、御飯を何杯でも替 えて食べるものと思い込んでいた。

(伊豆湯ヶ島、大正四年、八歳)

(略)おぬい婆さんは煎餅をぼりぼり食べながら、ずっと女の人と話をしていた。女は鞄を網棚から降すと、鞄の中から今度は小さい 箱を取り出して、
「これ、上げましょう」
と言って、洪作の方へ差し出した。煙草の箱を二つ合せたぐらいの大きさの箱で、箱の表の方がハート型にくりぬかれ、そこにセルロ イドがはめられてあって、内部がすき透って見えるようになっていた。内部には赤や青のいろいろな色をした小さい菓子が詰まっていた。
「ゼリビンズよ。食べてごらんなさい。おいしいから」
女はまた言った。洪作はゼリビンズというような名前の菓子を見るのは初めてであった。

(三島から豊橋へ向かう汽車の中、大正四年、八歳)

あす洪作とおぬい婆さんが帰国するという前日、夕食が終ってから、洪作は、母の七重と小夜子と女中の四人で繁華地区へ買物に出掛 けた。そして若松園という大きな菓子屋へ立ち寄って、そこの喫茶部で菓子を食べた。こうしたところで、菓子を食べるということは、 洪作には初めてのことであった。黄色いゼリーの菓子で、それにスプーンを入れるのが勿体ないように、洪作にはそれは美しく見えた。 口に入れると溶けるように美味かった。洪作は、この美味さを上の家の祖母や、さき子や、幸夫たちに報せることができないのが残念に 思われた。言葉で幾ら説明しても、説明できるとは思わなかった。

(豊橋、大正四年、八歳)

「洪ちゃは何が好き?」
小母さんは訊いた。
「オナメ(金山寺味噌)」
洪作は答えた。
「オナメって、お味噌のオナメ?」
「うん」
すると相手は白い歯を見せて、さもおかしそうに笑うと、
「おご馳走では?」
と、また訊いた。
「とろろ」
洪作は答えた。
「じゃ、天ぷらは?」
「そんなもの食べたことない」
「うそおっしゃい。じゃ、おすしは?」
「洪ちゃ、嫌いだ」
「それは困ったわね。うなぎどんぶりは?」
「嫌いだ」
「天どんは?」
「嫌いだ」
「ますます困っちまうわ。じゃ、茶碗むしは?」
「嫌いだ」
「おさしみは?」
「嫌いだ」
「卵やきは?」
「嫌いだ」
洪作は昂奮していて、相手が口から出す食べものの名がよく理解できなかったので、何でもみんな嫌いにしてしまおうと思っていた。

(沼津、大正五年、九歳)

小母さんが言うと、どういうものか、二人の意地の悪い、併し美しい姉妹たちは、うわっと歓声を上げた。妹のれい子は台所の方か ら駆け込んで来たが、姉の蘭子は手に持っていたカステラをいきなり天井へ向って投げつけた。カステラの切れは天井にぶつかり、幾 つかの細片となって畳の上へ落ちた。

(沼津、大正五年、九歳)

吐くまでは苦しかったが、吐いてしまうと、気持ちの悪いのは薄紙をはぐように刻々癒って行った。れい子の方も同じことらしく、 部屋にたれも居なくなると、隣の床から洪作の方へ話しかけて来た。
「トコロテン食べたこと言ってはだめよ」
「うん」
洪作は頷いた。
「おミカン水も」
「うん」
「ラムネも」
「うん」
「落花生も」
「うん」

(沼津、大正五年、九歳)




洪作が幼少年期を過ごした伊豆湯ヶ島は、その頃、沼津や豊橋に比べてだいぶ田舎だったようです。ライスカレー(さき子はカレーラ イスと言っています)はご馳走だったようですね。

沼津の小母さんは洪作の親戚で、裕福な商家の奥さんです。この家では、洪作がふだん食べているものに比べると、ずいぶん贅沢なも のを日頃から食べているようです。そんな家の娘のれい子が、トコロテンやラムネといった駄菓子を食べたがるのはおかしいですが、昔 も今も、子供はそういう買い食いに憧れるものですね。

それにしても、汽車の中でゼリービーンズをすすめてくれた女の人はどういう人だったのでしょう。


「物語の中のともだち」に戻る

「流星何処へ行く」に戻る