ファッション篇   


ファッションについての考察
  五人の婦人たちのファッション(とくに洋装に関するもの)を、小説の中から抜き出して時代順に並べてみました。
  文末のカッコは年度(推定もあり)、場所、名前と当時の年齢です。

白い毛糸編みの長い肩掛けを頭に冠って、首で一巻きして片端を前に垂らし、片端は後ろへ風に靡かせている。カシミヤ織の袴は緑と いう色だけが一寸可笑しいけれども、裾に二本の白線があり、手織の縞木綿の着物に銘仙の羽織、短く着た袴の裾から黒い靴下をはい た足が見えるところは、間違いもなく県立和歌山高等女学校の生徒なのだが、それにしても橋の上を男の子のように靴音高く闊歩して いる恰好は、初めて見る者の目を瞠らせるには十分だろう。(略)

女学生は海老茶の袴をはくという常識にも、宝塚少女歌劇の真似をして、緑色の袴をはいて教師に叱られた同級生があって以来、「女 学校の生徒規則のどこに海老茶の袴はけと書いてありますのん」と反逆精神を発揮し、級友に率先して緑色の袴を一着するという具合 である。今も、彼女がこの一年間、あらゆる圧迫に抗してはき続けた栄えある緑色の袴には、裾の白線に、一寸五分ほどのセルロイド 製小型キューピーが二十個あまり吊下がっていた。これもまた、「校則のどこにキューピー付けたらいかんと書いてありますのん」と いうことに他ならない。級友の一人が一寸思いついて袴の紐の先にハイカラな飾りのつもりで吊していたのを教師に見咎められてから 、文緒が敢然としてやり始めた抵抗であった。

(大正10年、和歌山、文緒18歳)

「今云いあいしたとこなのよ。あなたか、あなたでないかってことでもって」
富美子はまだ二間から距離のあるうちはじめながら、(略)「勝ってようございましたわね。河井さん」
河井はただしずかな微笑で勝利の満足をあらわしただけであったが、田口はこの負けは富美子から必ずただではすまされないだろうと おどけ、多喜子はまた、これまで一度でも真知子の洋装を見ていたら自分も間違いはしなかったのだとくやしがった。しかし河井は、 その洋服の真知子に原町の停留場で出会った話をしたので、それなら彼の勝ちにはハンディキャップをつけなければならないと抗議さ れた。

(昭和1位、東京、真知子24歳)

同じにまたこれ等の学生の中には、丸善を目的に来たと云うより、邦楽座が開くまでの暇潰しに入ったに過ぎない幾割かがたしかにあ ったので、そこに田舎風の紳士と連れ立っている洋服の美しい真知子を見ると、彼等は頓て出会うスクリーンの女たちのために用意し ている嘆賞の眼つきを、露骨に前払いして通った。

(昭和1位、東京、真知子24歳)

こう云うやりとりについで、二人の母親はお互いに相手方の娘を賞め合った。柘植夫人は真知子の洋服が非常によく似合うと云うこと を、未亡人はまた多喜子の美しい髪の出来栄を。
多喜子は高島田に結っていた。

(昭和1位、東京、真知子24歳)

真知子は富美子を邪魔しないように、窓のならびの壁に嵌め込んだ姿見へ避けた。派手なのでめったに着ない、臙脂の模様の高い訪問 服を、母から今日は無理に着せられていた。彼女は誰か知らない他人の仮装を吟味するような冷やかさで、玻璃板に浮かんだ盛装を眺 めた。
「こんなもの、私じゃない」

(昭和1位、東京、真知子24歳)

「(略)そう申せば、今日の真知子さんは本当になんてお立派なんでございましょう。お洋服ももちろん結構ですけれど、それとこれ ではまたお品が違いますもの。身うちのものの正直な註文を申せば、いつも今日のようなお嬢様らしいお嬢様でいらして頂きとうござ いますわ。ねえ、お母様」

(昭和1位、東京、真知子24歳)


まことに、紺サージの、あわれに無装飾なワン・ピースだ。とうとう洋服になすったのね、あんたも。よく似合う。婦人闘士より尼さ んじみて見えるけど。

(昭和1位、東京、真知子24歳)

下から見ると足がむき出しになるスカートというものに、福は到底なじむことができない。この町で洋装というこんなおかしな格好を しているのは、郵便局の娘と万亀ぐらいのものである。といっても万亀にも言い分があった。八つ違いの長姉が東京の和洋に通ってい る。洋裁の実習だといってやたら洋服をつくってくれるのだ。本当のことを言えば万亀だってこんなものは着たくない。友だちにから かわれるし、だいいち冬は足元が大層寒いのだ。

(昭和1、山梨、万亀小学5年(11歳))

男はそれが口癖なのか、もう一度かすかに鼻を鳴らした後、万亀の桃色のワンピースをじろりと見た。洋服など着ていて、生意気な女 の子と思われなかっただろうかと万亀は心配になる。

(昭和1、山梨、万亀小学5年(11歳))

英二は純白の麻の背広に縁無し眼鏡をかけたダンディな姿となり、産着の晋を抱いた文緒は、袖無しのワンピースを着ていた。大きく 開いた衿は右よりにびらびらをつけて、深く耳まで隠す帽子とともに流行の先端を行くものらしい。
(略)
文緒の洋装はアメリカ映画の女優クララ・ボウを真似たデザインで、日本でもモダンガールの間で流行しているものだったが、花にと って目をおおいたくなるような露骨なものだったので、ともかく高島屋へ出かけて絽の訪問着を二枚誂えて送った。帯まで見立てて送 ったのに、これがまた折り返し返送されてきた。
「新しい酒は新しい革袋に入れなければなりません。新しい生活には洋装が最も適しているのです。母上の御厚意ある贈り物は、私の 洋装に対するご批判と思われますが、以後の私の衣生活は夏冬とも洋装に統一する所存でありますので、折角ながらご返却いたします が悪しからず」

(昭和3年、上海、文緒25歳)

女学校の制服は、紺色のサージだ。ヨークの胸あてがついた背広型で、大層不恰好といってもいい。おまけに上級生ともなると、後ろ の方に髪を結い上げるように決められているから、ますます老けて見える。

(昭和3、山梨、万亀女学校1年(13歳))

迷信打破、新生活運動を喋喋してきた手前、俄かに宗旨変えするのは誰より自分に具合が悪い。それを花は意地悪く衝く気はなく、た だ文緒の服装だけは、
「アッパッパでその恰好はなんとかなりませんか。あんまり風が悪いよってにの。この家はお客さんも多し」
非難したが、
「ふん、かめしません」
文緒には馬耳東風だった。

(昭和4年、和歌山、文緒26歳)

何年ぶりかで見た菜穂子は、何か目に立って憔悴していた。白い毛の外套に身を包んで、並んで歩いている彼女よりも背の低い夫には 無頓着そうに、考え事でもしているように、真直を見たままで足早に歩いていた。

(昭和6、東京、菜穂子28歳)

菜穂子は、もう矢も楯もたまらなくなって、オウヴァ・シュウズを穿いたまま、何度も他の患者や看護婦に見つかりそうになっては自 分の病室に引き返したりしていたが、漸っと誰にも見られずに露台づたいに療養所の裏口から抜け出した。(略)
彼女は暫く立ち止まって目の粗い毛糸の手袋をした手で髪の毛から雪を払い落していたが、ふとさっきこんな向う見ずの自分を掴まえ ても何んともうるさく云わなかったあの気さくな看護婦が露西亜の女のように襟巻でくるくると顔を包んでいたのを思い出すと、自分 もそれを真似て襟巻を頭からすっぽりと被った。

(昭和6、山梨、菜穂子28歳)

上級生たちはほとんどが宝塚風の緑の袴をはき、結び目のリボンを、それが流行なのか蹴飛ばすほど長く垂らしている。おそろしく踵 の高い靴と合わせているから、皆背が高く見えた。

(昭和7、東京、万亀女専1年(17歳))

大陸は内地よりずっと派手だと聞いていたが、弁護士のひとり娘という房子は、洋装にコティのコンパクトをしのばせている。(略) 白い衿飾りのついたビロウドの服もよく似合って、東京の学生よりずっと垢抜けているぐらいだ。

(昭和7、東京、万亀女専1年(17歳))

朝起きると万亀はきっちりと髪を結い上げ、紺色の袴を身につける。上級生たちが好む緑色の袴は恥ずかしかったし、そうかといって 洋服は房子の手前気がひける。
英子がつくってくれたよそゆきのスーツは何着かあったが、いっしょに登校する房子の前では色あせたものになるのだ。満州でロシア 人の洋裁師につくってもらったという房子の服は、どれも上等の生地で流行のかたちに仕立てられている。夏が近くなるにつれ、彼女 はこれにしゃれた麦わら帽子をかぶることもあった。

(昭和7、東京、万亀女専1年(17歳))

案ずるほど内気な性格だったのに、今では帰るたびにハイカラな格好をしている。いつぞやはまるで男のようなズボンを穿いていたこ とさえある。

(昭和9、東京、万亀女専3年(19歳))

まるで森に迷い込んだような、長い材木置き場を抜けると、通りに面した店先に出る。ここでは男たちが常にせわしげに働いていた。 そして洋装に帽子といういでたちの万亀が通ると、好奇と揶揄の混じった挨拶を投げかける。
「万亀さん、いま帰りかね」
「今日もまた、ハイカラな格好をしてるね」

(昭和9、東京、万亀女専3年(19歳))

娘の身売り話ばかり聞く東北や北陸で、ともかくも娘を学校に入れようとする家は裕福で、農家といっても大きな自作農がほとんどだ。 生徒たちはみなこざっぱりとした服装をしている。万亀は教師としての威厳を保つために、毎朝海老茶の袴を身につけた。

(昭和10、相馬、万亀20歳)

きちっと、太い縞の銘仙の左前と右前の縞模様が平行にならぶように、坐った。呼びつけられたので来た、といった恰好である。ぶる っと、首の辺まで切ってある髪を、獣のようにゆすぶると、思い切った形で首を伸ばして、速雄の方を見た。

(昭和10年代、東京、典子20歳)

典子には、なかでも洋服の裁断やミシン掛けが面白かった。洋装が少女たちの間に流行して来ていた。自分の生活に与えられる夢がそ こにあった。子供の頃から、西洋流の童話やその挿絵で育てられた少女の着物、それから映画の女優がその物語の情緒と一緒に少女た ちに与える美しい扮装への憧れ、そういうものが洋裁の時間に沸き立つのであった。
(略)
「私、洋裁をしてみたいと思っているんですけど」とあるとき典子は叔母に言った。
叔母は、おや、という風に、長火鉢の向こうで、考える顔になった。それから、近年めっきり黒くしぼんできた頬を、すうっと窪ませ て長煙管を吸ってから、
「洋裁たってお前、自分で着るのかい?」

(昭和10年代、東京、典子20歳)

「これ着て見なさいよ」と自分の六畳間の障子にそうて置かれてあった衣桁掛から、濃いモーヴのサチンの服をとつて、典子の胸にあ てて見た。

(昭和10年代、東京、典子20歳)

そうだ、こうならなければならないのであった、と典子は自分に言い聞かせながら、爪先までかかる長いモーヴのドレスを着て、あか ねの煉瓦を敷いた土間を茶を配って歩いていた。

(昭和10年代、東京、典子20歳)

 この考えが典子を不安にし、ここから抜け出さなければならないと思うようになった。抜け出すといって、自分にはどういう道があ るだろう。以前は、洋裁をしたいとばかり思いつめていた。しかしいつの間にか、そうい言う考えは心の中に少しも無くなっていた。 毎日着ている長い、ぴかぴか光るドレスだけでももう十分であった。客のために茶を運ぶということよりも、そのドレスを着て土間に 立っている若い女性の姿という形が、自分の存在意義だということに気がつくと、それがとても厭な着物になった。そういう身づくろ いをすっかり投げ出して、何か外のことをしたかった。人間の中身の意味が外に現われ、あの人はああいう仕事をしていると外から見 てもすぐ分るような仕事をしたかった。洋裁という自分の夢が、こんな空しい女の姿を飾るためにあるということで、典子はもう二度 とそこへ戻って行けなくなった。

(昭和10年代、東京、典子20歳)

万亀はややからだを斜めにして、いま通り過ぎたばかりの「主婦乃友」社をもう一度眺める。大正時代に建てられた社屋は、石の円柱 と長い階段があって、まるでギリシャの神殿のようだ。学生の頃、万亀は何度憧れをもって、この建物を見つめたことだろう。丸縁の 眼鏡をかけ、スカートを翻すようにして階段を登っていく女性記者たちにため息をついたこともある。

(昭和14、東京、万亀24歳)

その日万亀は白いモスリンのワンピースを着ている。提灯袖で、腰のあたりをぐっと締めたこのかたちは、万亀ぐらいのからだがない と着こなせないと女友だちは言う。

(昭和14、東京、万亀24歳)

田舎の人はたぶん洋装は嫌いだろうと、今日の万亀は地味なお召しにした。髪は最近流行っているロール巻きだ。パーマや髪結いを自 粛したことを示す、いわば戦時髪だが、若い娘がこれにするとかえって清楚な若さが匂うようで人気がある。

(昭和14、山梨、万亀24歳)

文緒は黒いウールのスーツを着こんでいた。タイトスカートで畳に正座したり、立って働きまわったりしていたものだから、腰も膝の あたりもぶくぶくになっている。しかし黒なら礼にかなっているという文緒の云い分は一応理屈だった。(略) 華子は喉に白く包帯を巻いて、前日あわてて買ったセーラー服を着ていた。身体が弱いのに、地味な色柄が似合わないので、葬礼に着 るのに適した洋服を持っていなかったものだから、ぶらくり町の高島屋で既製服を買ったのである。細くて手足の長い華子は、その袖 が短いのを気にして、白い三本線のある袖口をたえずひっぱっていた。衿の具合も悪く、前の白いボウもめざわりである。

(昭和14年、和歌山、文緒36歳、華子9歳)



並べてみると、昭和元年ぐらいですでに洋装を着こなしている真知子さんのモダンさが際立ちます。東京にいて、保守的な上流階級の 人々に反発して自立を目指すという生き方とも大いに関係があるでしょう。同じ頃、山梨では万亀さんが、洋服など着ていて生意気な 女の子と思われないか、と心配しています。(なんと可憐な心配) 万亀さんの洋服は、東京で洋裁を勉強しているお姉さんが作って くれたものだそうです。

万亀さんも、東京へ出るとだんだんモダンになっていくのがわかります。もともと洋装が似合うタイプだったようです。

文緒さんと真知子さん、菜穂子さんはほぼ同世代です。文緒さんは女学生時代からの反逆児だけあって、和歌山にいるときから先鋭的 ですね。あまりファッションに浮き身をやつすタイプではないのですが、洋装になったのは早いようです。文緒さんが女学校の頃(大 正10)流行った宝塚風の緑の袴が、万亀さんの女専時代(昭和7)にも人気があるとは、さすが宝塚です。

典子さんは残念なことに、何年が舞台なのか特定できませんでした。(戦争は始まっているのですが)彼女は洋装に憧れていたのです が、喫茶店で制服のワンピースを着て、それが若い女性の姿を売り物にしていることを感じて嫌になってしまうようです。色は派手そ うですが、丈は長いし、今見たらそんなにあくどいデザインでもなさそうに思えますが・・・。

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